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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
最終章 起業祭

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第三十二話 託されたもの

第三十二話 託されたもの


《椎名敬之の本日の移動記録――確認できず》


《社内システム経由の移動手配記録――なし》


《椎名敬之名義の鉄道・航空券手配記録――なし》


《既存行動予測との不整合を確認》


起業祭会場に設置された複数のカメラが、一斉にステージ上の男を捉えていた。


ブラウンのデトロイトジャケット。


深くかぶったキャップ。


本多真紀の隣に立つ、椎名敬之。


佐々木智子から提出された日程では、敬之は今日も東京の新築現場で散水試験を行う予定になっていた。


その予定に変更はない。


東京から嶺北まで移動した記録も存在しない。


だが、椎名敬之は今、起業祭のステージに立っている。


《椎名敬之による現行システムへの干渉可能性――87%》


真紀は笑顔で敬之へマイクを向けた。


「見事正解です! せっかくですから、六角グループの皆さんへ一言いただいてもよろしいですか?」


敬之は差し出されたマイクを受け取った。


「一言ですか?」


「はい。何でも構いません」


「急に言われても、困りますね」


会場から笑いが起こった。


真紀も笑いながら、一歩後ろへ下がる。


敬之はマイクを手にしたまま、ステージの上から会場を見渡した。


家族と一緒に祭りを楽しむ社員。


仕事着のまま模擬店に立つ者。


昔の同僚との再会を喜び、肩を叩き合う者。


その向こうには、六角サッシの工場と、長い年月を経て増改築を重ねてきた旧本社屋が見える。


敬之は、ゆっくりと口を開いた。


「東京支店の椎名敬之です。俺は、これからも仕事を頑張ります」


あまりにも普通の言葉に、会場から再び笑いが起きた。


敬之も少し笑った。


「でも、頑張るって、ただ言われたとおりに働くことじゃないと思っています」


笑い声が、静かに収まっていく。


「楽しかったら、笑えばいい」


敬之は会場にいる社員たちを見た。


「悔しかったら、泣けばいい。腹が立ったら、怒ったっていい」


真紀は何も言わず、その横顔を見つめていた。


「みんな同じじゃなくていい。もっと自分の個性を出していい」


重役席に座っていた六波羅宣彦が、ゆっくりと顔を上げる。


「それが、六角サッシという会社だったはずです」


会場が静まり返った。


敬之の声だけが、秋空の下に響いている。


「効率が悪くても、すぐに結果が出なくても、誰かが本気でやりたいと思ったことなら、やってみればいい」


敬之は、正面にいる社員たちへ向き直った。


「失敗したら、みんなで笑って、もう一回頑張ればいい」


会場の後方から、小さな拍手が聞こえた。


それに重なるように、別の場所からも拍手が起こる。


やがてそれは、会場全体へ広がっていった。


敬之は頭を下げた。


「ありがとうございます」


拍手の中、みどりは蓄積された記録を再び解析していた。


本多真紀による旧社屋への侵入。


初期モデルへのアクセス。


東京への離脱。


観測対象を分散させた複数の人物。


椎名敬之からの干渉可能性を低下させた、佐々木智子の行動記録。


携帯型生成AI、アイラ。


大崎公太郎。


椎名綾香。


六波羅十和。


一見、個別に行われていた行動が、次々と結びついていく。


《本多真紀から椎名敬之への直接指示――確認できず》


《複数人物間における情報共有の可能性――極めて高い》


《起点からの意思の連結を確認》


《起点は囮である可能性――72%》


重役席で、森村豊一が立ち上がった。


その表情から、先ほどまでの余裕は消えている。


「椎名……」


森村はステージ上の敬之を睨んだ。


「そういうことか」


敬之はまだ、マイクを握っていた。


「俺はこれから、ある場所へ向かいます」


森村の表情が変わる。


「そこで、この会社が忘れてしまったものを取り戻してきます」


「旧社屋だ……」


森村は重役席を離れた。


近くにいた北国警備保障の警備員二人へ手を上げる。


「お前たち、来い!」


警備員たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに森村のあとを追った。


森村の社内モバイルが振動した。


画面に、みどりからの警告が表示される。


《森村専務、現在位置を維持してください》


《旧社屋への移動は推奨されません》


森村は画面を一瞥した。


「うるさい。今さらお前に言われなくても分かってる!」


警告を無視し、そのまま旧社屋へ向かう。


宣彦は呼び止めなかった。


その頬を、一筋の涙が伝う。


ただ、ステージに立つ敬之と、その隣にいる真紀を見つめていた。


傍らにいた秘書の松井莉緒が、黙ってハンカチを差し出す。


その目も、わずかに潤んでいた。


《集中観測対象を本多真紀から椎名敬之へ変更》


《北国警備保障へ緊急対応を要請》


《起業祭会場周辺の配置状況を確認》


《花火打ち上げ区域――配置済み》


《観客誘導区域――配置済み》


《駐車場警備――配置済み》


《周辺道路警戒――配置済み》


《北国警備保障 即時対応可能追加隊員数――0》


真紀が敬之からマイクを受け取った。


「ありがとうございました!」


総合司会の明るい声が、会場に響く。


「椎名さんに、もう一度大きな拍手をお願いします!」


盛大な拍手が二人を包んだ。


真紀はステージ脇のテーブルへ向かい、用意されていた紙袋を手に取る。


「こちら、参加賞です。おめでとうございます!」


「ありがとうございます」


敬之は紙袋を受け取り、中を覗いた。

起業祭の記念品の下に、小さなカードが入っている。


六波羅十和から真紀へ託された、旧社屋のパスキーだった。


敬之が顔を上げる。


真紀は手元のスイッチで、マイクを切った。


「肩書きなんて、関係ありません」


敬之は黙って真紀を見た。


「間違っている相手に、こちらが遠慮する理由はないでしょう」


真紀は笑っていた。


総合司会として作った笑顔ではない。


海外販促チームで、誰よりも前へ進もうとしていた本多真紀の顔だった。


「貴方を信じて、貴方に託します」


その瞬間。


祭囃子も。


会場のざわめきも。


観客の拍手も。


すべての音が止まった。


何千人もの人がいるはずの会場で、真紀と敬之だけが向かい合っていた。


真紀は、敬之の目をまっすぐに見つめる。


「必ず、森村専務とみどりを止めて」


命令ではなかった。


自分では果たせない最後の役目を、心から信じた相手へ託す言葉だった。


敬之は紙袋を強く握った。


「ああ」


真紀の想いを受け止め、静かに頷く。


「任せてくれ」


敬之は、真紀をまっすぐ見返した。


「俺を信じてくれたみんなに、必ず応える」


次の瞬間。


祭囃子が聞こえた。


会場のざわめきが戻り、観客の拍手が二人を包んだ。


真紀はマイクのスイッチを入れる。


「ありがとうございました! 皆さん、もう一度大きな拍手でお見送りください!」


敬之は少し照れたように片手を上げ、観客の拍手に応えた。


そして、ステージを下りる。


真紀を振り返ることはなかった。


振り返る必要などなかった。


敬之は人混みの中へ入り、森村たちが向かった旧社屋を目指す。


真紀はその背中を、ほんの一瞬だけ見つめた。


すぐに次の問題カードを手に取り、会場へ笑顔を向けた。


「それでは皆さん、続いての問題です!」


総合司会の声が響く。


敬之の姿は、すでに人混みの中へ消えていた。


人混みを抜けた先に、森村と警備員二人の背中が見えた。


敬之は追いつこうとはしなかった。


気づかれない距離を保ったまま、三人のあとを追う。


向かう先は、旧本社屋。


みどりの家だった。

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