interlude 6.5 佐々木智子の場合
Interlude 6.5 佐々木智子の場合
佐々木智子の派遣契約は、十一月十六日までだった。
ずいぶんと中途半端な日付だと思った。
月末でもなければ、年末でもない。
派遣会社ハートバンクの担当者によれば、六角サッシをはじめとする六角グループでは、創業記念日である十一月十六日を新年度の初日としているらしい。
その日に最も近い週末には、毎年、嶺北本社で起業祭も開かれるという。
つまり佐々木の契約は、新年度初日の勤務をもって終了する。
「珍しい会社ですね」
佐々木が言うと、担当者は契約書をめくりながら笑った。
「歴史のある会社ですから、独自の慣例も多いみたいですよ」
「そうですか」
そのときの佐々木にとって、十一月十六日は、ただ派遣契約が終了する日にすぎなかった。
六角サッシに、特別な思い入れがあったわけではない。
派遣先が変わることにも慣れていた。
求められた仕事を、契約で定められた期間、間違いなくこなす。
それが派遣社員としての自分の役割だと思っていた。
東京支店の施工管理部へ配属された初日。
佐々木は、椎名敬之という男を紹介された。
肩書は、東京支店施工管理部OM施工課課長代理。
もっと堅苦しい人物を想像していたが、敬之は佐々木の顔を見るなり言った。
「佐々木ちゃん、そんなに固くならなくていいよ」
初対面の相手を、いきなりちゃん付け。
ずいぶん軽い人だと思った。
だが、一緒に働き始めると、その印象は少しずつ変わっていった。
敬之は口調こそ軽かったが、佐々木を単なる事務補助として扱わなかった。
現場の予定。
職人の手配。
図面の見方。
必要なことは一つずつ説明し、できると判断した仕事は任せた。
失敗しても、責める前に原因を一緒に探した。
「次に同じことが起きなきゃ、それでいいよ」
そう言って、また仕事を渡してくる。
信頼されれば、それに応えたくなる。
佐々木が、そのことに気づき始めた頃だった。
九月九日。
仕事を終えた佐々木は、敬之から一人の女性を紹介された。
「佐々木ちゃん、紹介するよ。本多真紀さん」
芸能人と言われても不思議ではないほど、整った顔立ちの女性だった。
「本多です。よろしくお願いします」
真紀は柔らかく笑い、佐々木へ頭を下げた。
名前は知っていた。
六角サッシ海外販促部、本多真紀。
現在は休職中。
みどりの社内アプリでも、その情報は確認できた。
しかし、敬之が話したのは、そこに記録されていないことだった。
みどりによる人事への介入。
都合の悪い記録の書き換え。
社員同士のつながりを、非効率なものとして切り離している可能性。
そして真紀が、それに気づいたために会社から追われていること。
佐々木は、すぐには信じられなかった。
毎日の予定を整理し、必要な情報を教え、業務を助けてくれるシステム。
便利なものだとしか思っていなかった。
だが、真紀は声を荒らげなかった。
信じてほしいとも言わなかった。
ただ、自分が見たものと、起きたことを順番に話した。
「佐々木さんを巻き込むつもりはありません」
真紀はそう言った。
「知らなかったことにしてもらって構いません。椎名さんにも、そうお願いしています」
その言葉に、佐々木は小さく眉を寄せた。
目の前の女性は、自分も追い詰められているはずなのに、初めて会った派遣社員の立場を気にしている。
「本多さんは」
佐々木は尋ねた。
「どうして、そこまでして会社へ戻ろうとするんですか?」
真紀は、少しだけ考えた。
「好きだからです」
「会社が、ですか?」
「はい。嫌いになれたら、もっと楽だったと思います」
真紀は困ったように笑った。
「でも、私はこの会社で仕事をすることが好きでした。大切な人たちもいます。だから、おかしいと思ったことを、おかしいと言わないまま離れたくないんです」
派遣期間が終われば、別の会社へ行く。
それが当たり前だった佐々木には、すぐに理解できない言葉だった。
一つの会社を、そこまで好きになる。
そこで働く人たちのために、自分の立場を危うくしてまで戻ろうとする。
そんな働き方をする人がいることを、佐々木は初めて知った。
真紀と別れたあと、敬之が言った。
「佐々木ちゃん。今日のことは、本当に知らなかったことにしていいからね」
「椎名さんは、それでいいんですか?」
「佐々木ちゃんには、佐々木ちゃんの生活がある。俺たちの問題に巻き込むわけにはいかないよ」
その言葉を聞いて、佐々木は思った。
この二人は似ている。
自分が危険な場所に立っているくせに、他人をそこから遠ざけようとする。
東京支店へ戻ると、机の上の社内モバイルに通知が届いていた。
みどりからだった。
《本日の業務報告に未入力の時間があります》
《九月九日 十八時十二分から十九時四十六分》
《椎名敬之と行動を共にしていましたか》
佐々木は画面を見つめた。
わずかに、指先が震えた。
正直に答えるなら、はい。
そのうえで、誰と会ったのかを入力する。
本多真紀。
その名前を入力した瞬間、何が起きるのか。
佐々木には分からなかった。
だからこそ、怖かった。
自分は派遣社員だ。
契約は十一月十六日まで。
六角サッシの問題へ深入りする必要などない。
知らなかったことにしていい。
真紀も、敬之も、そう言った。
佐々木は入力欄へ指を置いた。
《業務終了後、椎名敬之とは行動を共にしていません》
一度、指が止まった。
これは嘘だ。
業務終了後も、敬之と行動を共にしていた。
敬之から本多真紀を紹介された。
そして、みどりについての話を聞いた。
みどりの求めるままに答えるなら、すべて報告すべき内容だった。
報告しなければならない。
派遣社員として与えられた役割だけを考えるなら、そうするべきだった。
だが。
自分が危険な場所に立っているくせに、他人を守ろうとする二人を見たあとで。
何も知らなかった頃と同じように、みどりを信じることはできなかった。
佐々木は眼鏡を押し上げた。
それから、何も知らない顔で続きを入力した。
《その後の行動については把握していません》
送信。
数秒後、画面に返答が表示された。
《報告を受理しました》
《ご協力ありがとうございます》
「……どういたしまして」
佐々木は小さく呟き、社内モバイルの画面を閉じた。
初めて、みどりへ嘘をついた。
翌朝。
いつもの時間に出勤した佐々木は、いつものように敬之の予定を確認した。
「椎名さん。午前十時から現場定例です。その前に、中川部長へ提出する書類を確認してください」
「了解。ありがとう、佐々木ちゃん」
敬之は、何も知らない。
昨夜、佐々木がみどりへ嘘をついたことを。
真紀も知らない。
自分の言葉が、一人の派遣社員を動かしたことを。
佐々木も、二人へ話すつもりはなかった。
自分で決めて、自分でついた嘘だった。
十一月十六日まで。
契約書には、そう書かれている。
だが佐々木は、この日から少しずつ思い始めていた。
契約が終わったあとも。
この人たちと一緒に、ここで働いてみたいと。
それからしばらくして。
敬之が過去に担当し六角サッシが施工した、都心の新築現場で、漏水が発生した。
漏水箇所は、六角サッシが施工した窓の近くだった。
現場事務所の会議室には、敬之と佐々木、ビル管理会社の担当者が向かい合って座っていた。
机の上には、漏水箇所を示した平面図と、現場で撮影された写真が並べられている。
「工程への影響もあります。できるだけ早く、補修の日程を決めていただきたいのですが」
管理会社の担当者が言った。
敬之は写真へ目を落とした。
窓まわりに水が伝った跡はある。
だが、それだけで六角サッシの施工不良と決めることはできない。
「まず、原因を究明させてください」
敬之は顔を上げた。
「原因がわかりませんと、補修方法も決まりません。散水試験をさせてもらえませんか?」
「散水試験ですか」
「はい。水の浸入箇所を特定しないまま補修しても、同じことが起きる可能性があります」
管理会社の担当者は、図面を見ながら少し考えた。
「分かりました。日程を調整しましょう」
「ありがとうございます。佐々木ちゃん、散水に使う道具と現場の予定を確認してもらえる?」
「はい」
佐々木は手帳を開いた。
以前なら、言われたことだけを書き留めていただろう。
だが今は、その先まで考える。
ホースや高圧洗浄機の手配。
室内側で漏水を確認する人員。
養生に必要な資材。
ほかの工事との作業時間の調整。
真紀が言った言葉を、ふと思い出した。
誰かに言われたことだけが、仕事ではない。
次に使う人が困らないように考えるところまでが仕事。
今の自分に、何ができるのか。
必要な項目を、一つずつ書き出していった。
一回目の散水試験で、原因は判明した。
水が浸入していたのは、六角サッシが施工した窓ではなかった。
その上部にある、PC板のジョイント部分だった。
散水を始めてしばらくすると、ジョイントから入った水が躯体内部を伝い、窓の近くへ流れ出した。
「これですね」
敬之は水の筋を確認しながら言った。
管理会社の担当者も、その様子を見て頷いた。
「六角サッシさんの施工箇所ではない、と」
「はい。ただ、念のため試験記録と写真をまとめます。補修後に、もう一度確認した方がいいでしょう」
六角サッシに過失はなかった。
疑われたからといって感情的にならず、先に原因を確かめる。
自社に責任がないと分かっても、そこで仕事を放り出さず、補修後の確認まで提案する。
佐々木は、そんな敬之の横顔を見ていた。
この人のもとで、もっと仕事を覚えたい。
この人が信じている人たちと、一緒に働きたい。
その気持ちは、以前よりもはっきりしたものになっていた。
原因が分かった以上、敬之がこの現場へかかり切りになる理由はない。
本来ならば。
その日の夜。
敬之と佐々木は、真紀、公太郎とともに、焼き鳥屋「南十字星」にいた。
「結局、六角サッシの施工不良じゃなかったんですね」
真紀が言うと、敬之はビールのグラスを置いた。
「ああ。PC板のジョイントから入った水が、サッシの近くまで回ってただけだった」
「じゃあ、もう敬之さんが現場へ泊まり込む必要はないと」
「補修後の確認は残ってるけど、俺がずっと張りつくような状況じゃないな」
「それって……使えるかも」
真紀の言葉に、三人の視線が集まった。
「何に?」
敬之が尋ねる。
真紀は、すぐには答えなかった。
テーブルの上に置かれた公太郎のスマートフォンから、アイラの声が流れた。
《敬之さんが漏水事故の対応にかかり切りになっていると、みどりへ虚偽の情報を流すのですね》
公太郎が焼き鳥を持ったまま、スマートフォンを見た。
「アイラ。先に答えを言うなよ」
《失礼しました》
真紀は苦笑してから、佐々木へ身体を寄せた。
「智子ちゃん。ちょっといい?」
「はい?」
名前で呼ばれたことに、佐々木は一瞬だけ戸惑った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「みどりへ提出する現場報告のことで……」
真紀が声を落とす。
佐々木も、自然に顔を近づけた。
二人は敬之たちに聞こえないほどの声で、話し始めた。
原因が判明したことは伏せる。
現場対応が長期化しているように見せる。
敬之が東京を離れられない状況だと、みどりに信じ込ませる。
「でも、それなら……」
佐々木も声を落とした。
「椎名さんの予定も、現場対応を優先する形にしておいた方が自然です」
「できる?」
「私が管理していますから」
答えた自分の声に、もう迷いはなかった。
公太郎は、二人の様子を眺めていた。
「何を話してるんだ?」
「さあ」
敬之にも聞こえていなかった。
ただ、ときどき佐々木が頷き、真紀が悪戯を思いついたように笑っている。
やがて佐々木は眼鏡を押し上げた。
「分かりました。先方には念のため、同じ納まりの箇所を全数調査するよう提案してみます。椎名課長代理には、しばらく現場へかかり切りになってもらいましょう」
「佐々木ちゃん」
敬之が声をかけると、佐々木はいつもの事務的な顔を向けた。
「なんですか?」
「何をやるんだ?」
「業務報告です」
それだけ答えると、佐々木は真紀と顔を見合わせた。
今度は、二人とも笑った。
佐々木は社内モバイルを取り出し、漏水事故に関する追加報告を入力した。
《原因箇所の特定には至っていません》
《椎名敬之課長代理による継続対応が必要です》
《今後一か月程度、現場対応を最優先とする見込みです》
事実とは異なる。
原因は、すでに判明している。
六角サッシに過失がないことも分かっている。
二度目の嘘だった。
だが、一度目のように指は震えなかった。
これは、誰かに命じられた仕事ではない。
派遣契約にも書かれていない。
佐々木智子が、自分で考えて選んだ行動だった。
送信。
数秒後、画面に返答が表示された。
《報告を受理しました》
佐々木は画面を見つめた。
その隣で、真紀が小さく囁いた。
「ナイスアシスト」
佐々木は眼鏡を押し上げた。
「まだ、試合は始まったばかりですよ」
真紀は一瞬驚き、それから嬉しそうに笑った。
佐々木も、つられて笑った。
この人のようになりたい。
そう思ったわけではない。
真紀には、真紀の戦い方がある。
自分には、自分にできることがある。
敬之の予定を管理し、必要な資料をそろえ、みどりが信じるだけの現場情報を積み上げる。
表に立つことはできなくても、誰かが前へ進むための道を整えることはできる。
それが、今の自分にできる仕事だった。
そのとき。
敬之のスマートフォンが震えた。
画面を確認した敬之が、顔を上げる。
「綾香姉さんも、これから来たいって言ってるけど」
そして、なぜか公太郎を見た。
「公太郎、いいか?」
「なんで俺に聞くんだよ」
公太郎が怪訝そうな顔をする。
「いや、なんとなく」
「店に来るかどうかは、俺じゃなくて店員さんに聞けよ」
「じゃあ、来てもいいんだな?」
「だから、なんで俺の許可がいるんだよ」
敬之は笑いながら、綾香へ返事を打ち始めた。
その横で、真紀と佐々木は顔を見合わせた。
今度は打ち合わせなど必要なかった。
二人は同時に、公太郎へ視線を向ける。
「なんだよ」
公太郎が言った。
真紀は何も答えなかった。
佐々木も眼鏡を押し上げただけだった。
ただ。
二人が浮かべた笑みは、先ほどよりも少しだけ意味ありげだった。
佐々木智子の派遣契約は、十一月十六日まで。
その事実は変わらない。
だが、契約が終われば別の会社へ行けばいいと考えていた自分は、もういなかった。
この人たちと一緒に働きたい。
この人たちが作ろうとしている未来を、自分も支えたい。
十一月十六日を。
ただの契約終了日には、したくなかった。




