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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
最終章 起業祭

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Interlude 6 椎名敬之の一日

Interlude 6 椎名敬之の一日


挿絵(By みてみん)


十一月十五日、午後四時過ぎ。


東京の都心にある新築現場。


「佐々木ちゃん、これ一人でもできる?」


椎名敬之は、残された作業へ目を向けながら言った。


佐々木智子も同じ方向を見る。


明日予定されている散水試験に向けた準備だった。


「大丈夫です」


迷いのない返事だった。


敬之は頷く。


「一応、応援の施工管理補助も呼んであるからさ。何かあったら一人で抱え込まないで、そっちにも振って」


「分かりました」


佐々木はそこで、少し不思議そうな顔をした。


「椎名さん、明日は現場に来ないんですか?」


「ああ」


敬之はあっさり答えた。


「富山で起業祭があるから」


「起業祭?」


「真紀ちゃんの活躍を見にね。それに、他にも一つ……」


佐々木がぱっと表情を明るくする。


「本多さん、総合司会なんですってね。すごいなぁ」


「そうらしいね」


敬之は笑った。


「じゃあ俺、先に帰るよ」


「はい。お疲れさまでした」


「お疲れ」


ヘルメットを置き、現場を後にする。


だが、敬之が向かったのは西小山にある自宅ではなかった。


電車を乗り継ぎ、中央・総武線へ。


向かった先は水道橋。


駅を出ると、夕方の街には仕事帰りの人々に混じって、明らかに目的を同じくする者たちの姿が増えていた。


肩にタオルを掛けた者。


団体のロゴが入ったパーカーを着た者。


選手の名前が入ったTシャツを着た者。


その流れに敬之も加わった。


目的地は後楽園ホール。


この日、午後六時三十分から、日本の二大メジャープロレス団体の一角――BWFの大会が行われる。


敬之は昔からプロレスが好きだった。


会場に入り、自分の席を探す。


リングはすでに照明に照らされ、観客席も少しずつ埋まり始めていた。


やがて開始時刻を迎える。


若手選手が歴戦のベテラン勢の胸を借りた前半戦。


十人が入り乱れたユニット抗争。


高速のロープワークと空中技で沸かせたジュニアヘビー級のタッグマッチ。


大会は試合を重ねるごとに熱を増していった。


休憩を挟み、セミファイナル。


悪役ユニットが保持するBWFタッグ王座へ、正規軍が挑む。


リング上だけではなく、セコンド同士まで絡む激しい一戦だった。


そして、その試合が終わる。


会場の空気が、ゆっくりと変わっていった。


照明が落ちる。


ざわめきが止む。


メインイベント。


BWF王座選手権試合。


王者――嵐龍賢一郎。


挑戦者――青山耕平。


嵐龍賢一郎は、BWF所属ではない。


外敵として乗り込んできた男だった。


だが、乗り込んできただけでは終わらなかった。


BWF所属選手を次々と破り、あっという間に頂点まで登り詰めた。


王座を奪ってからも、その強さは変わらない。


何人もの挑戦者を退け、この日が十度目の防衛戦。


BWF所属選手に残された最後の希望。


最後の矢として放たれたのが、青山耕平だった。


青山の入場曲が流れる。


会場から大歓声が上がった。


敬之も立ち上がり、拍手を送る。


続いて王者、嵐龍賢一郎。


大きなブーイング。


だが、それだけではなかった。


拍手も飛ぶ。


「嵐龍!」


名前を呼ぶ声も聞こえる。


外敵。


それでも、この男が本物の王者であることを認めているBWFファンは少なくなかった。


十度目の防衛戦まで王座を守り続けた実績。


そして何より、その圧倒的な強さ。


嫌いだからといって、認めないわけにはいかない。


リングアナウンサーが両者を紹介する。


レフェリーが二人を呼び寄せ、王座のベルトを掲げた。


両者が、それぞれのコーナーへ戻る。


――カーン!


ゴング。


会場全体が、示し合わせたかのように静まり返った。


リングの中。


青山と嵐龍も動かない。


睨み合う。


数秒。


やがて二人が同時に歩き出し、リング中央で激しく組み合った。


力と力。


青山が押す。


嵐龍も押し返す。


だが、王者はその力比べに最後まで付き合わなかった。


組んだまま、ゆっくりと後退する。


背中がロープへ触れ、レフェリーがブレイクを命じた。


次の瞬間、嵐龍が身体を入れ替える。


今度は青山がロープを背負った。


青山はレフェリーのカウントを聞き、素直に腕を解く。


その離れ際。


――バチィン!


嵐龍の逆水平チョップが、青山の胸へ炸裂した。


会場が一気に沸く。


青山は胸を押さえながら数歩下がった。


嵐龍は追わない。


リング中央へ戻る。


その顔には、わずかな余裕があった。


青山も怒らない。


胸をさすりながら嵐龍を見て、少し笑った。


再び向かい合う。


今度はグラウンド。


腕を取り、切り返す。


足を絡め、上を取る。


互いに簡単には主導権を渡さない。


静かな攻防から立ち上がった瞬間、青山がエルボーを叩き込んだ。


嵐龍の目つきが変わる。


青山がもう一発。


嵐龍は逆水平で返した。


エルボー。


逆水平。


どちらも避けない。


互いに正面から受け、正面から返す。


青山の胸が赤く染まり、嵐龍の頬も腫れていく。


やがて嵐龍が逆水平を放とうとした瞬間、その身体がぐらりと崩れた。


会場がざわめく。


青山のエルボーが効いていた。


青山はすぐに嵐龍の腕を取り、ロープへ振る。


反対側から戻ってくる嵐龍。


青山が迎え撃とうと一歩踏み出した。


だが。


――ドォン!


先に嵐龍の右腕が振り抜かれた。


特大のラリアット。


青山の身体が吹き飛び、マットへ叩きつけられる。


大歓声。


嵐龍もすぐには追えなかった。


膝に手をつき、一度だけ大きく息を吐く。


それから青山を引き起こし、ニュートラルコーナーへ振った。


勢いよく走り込む。


――ドン!


串刺しラリアット。


青山の両足が衝撃で浮き、そのままコーナーへ崩れ落ちた。


嵐龍は青山をトップコーナーへ座らせ、自分も登る。


客席がざわつく。


「まさか……」


嵐龍が青山の腰へ腕を回した。


――スパイダージャーマン!


青山がトップコーナーから後方へ投げ捨てられ、背中からマットへ落ちる。


その身体が一度、大きく跳ねた。


しかし、嵐龍は落ちていない。


両足をロープへ絡ませ、逆さの状態でコーナーに残っている。


そこから身体を起こし、再びトップコーナーへ。


――エルボードロップ!


青山の胸へ落下する。


すぐにフォール。


レフェリーがマットを叩いた。


「ワン!」


「ツー!」


青山が肩を上げる。


後楽園ホールがどっと沸いた。


嵐龍は驚いた顔をしない。


ただ、青山を見た。


まだ来るのか。


そう言っているような目だった。


王者には、まだ切り札がある。


ポップアップ式のパワーボム。


何人もの挑戦者を沈めてきた必殺技。


だから焦らない。


だが、青山も終わらなかった。


嵐龍の隙を突き、身体を抱え込む。


――高角度バックドロップ!


嵐龍がマットへ突き刺さり、そのままエプロンへ転がり出た。

リングの縁に横たわる王者。


青山は反対方向へ走った。


ロープへ飛び、リングを大きく一周するように助走をつける。


そして、エプロンサイドに倒れた嵐龍の顔面へ――


――ドロップキック!


両足がまともに入る。


嵐龍が場外へ落ち、会場が大きく沸いた。


青山は場外へ降り、足元の薄いマットへ手を掛けた。


マットを剥がす。


後楽園ホールの硬い木製床が露わになる。


観客がざわめいた。


青山は嵐龍を引き起こし、腰へ手を回した。


いつもはほとんど使わないパワーボム。


だが、持ち上げようとした瞬間、嵐龍が腰を落として踏ん張った。

次の瞬間、逆に青山の身体を抱え上げる。


――ドン!


硬い木の床へ、背中から叩きつけられる。


鈍い音。


青山が苦しそうに身体を丸めた。


嵐龍はその姿を見下ろし、小さく息を吐いた。


余裕ではない。


今の攻防を、なんとか凌いだ。


そんな表情だった。


嵐龍は青山をリングへ戻した。


立ち上がった青山へ、右のラリアット。


青山がしゃがむ。


右腕が頭上を通過した。


かわした。


誰もがそう思った瞬間、嵐龍は走り抜けず、身体を返しながら左腕を振り抜いた。


――ドォン!


返す刀のラリアットが、青山を後方から撃ち抜く。


青山が崩れ落ちた。


いよいよ仕上げ。


嵐龍は青山をロープへ振る。


戻ってきた身体を高く持ち上げた。


ポップアップ・パワーボム。


万事休す。


その瞬間――


青山の両脚が、嵐龍の頭部へ絡みついた。


――ハリケーンラナ!


嵐龍が前方へ投げ飛ばされる。


青山はすぐに立ち、ロープへ走った。


嵐龍も立ち上がる。


迎撃の右ラリアット。


青山がかわす。


嵐龍は身体を返し、左腕を振り抜こうとした。


――バン!


青山のビッグブーツが、嵐龍の顎を正確に捉えた。


王者の身体が崩れる。


青山はその身体を抱え込んだ。


――ファルコンアロー!


嵐龍がマットへ叩きつけられる。


それでも王者は立とうとした。


ふらつきながら膝をつき、それでも立ち上がろうとする。


青山はその姿を見た。


そして、コーナーへ向かった。


トップロープへ登る。


会場中が立ち上がった。


ムーンサルトプレス。


誰もがそう思った。


青山が飛ぶ。


後方へ回転する。


だが、落ちていかない。


空中で嵐龍の首へ腕を巻きつけ、ムーンサルトの勢いをそのまま利用して後方へ。


嵐龍の後頭部をマットへ叩きつけた。


変形の裏DDT。


青山はすぐさま覆いかぶさる。


レフェリーが滑り込んだ。


「ワン!」


会場中の声が重なる。


「ツー!」


嵐龍の身体が動く。


だが、肩は上がらない。


「スリー!」


――カン! カン! カン!


ゴング。


一瞬。


敬之は立ち上がったまま動けなかった。


そして、後楽園ホールが爆発した。


青山耕平。


BWF王座奪取。


自身初となるシングル王座獲得。


青山はマットへ大の字になり、胸を大きく上下させている。


レフェリーが、フラフラと立ち上がった青山にチャンピオンベルトを手渡そうとした。


その直前。


嵐龍が、そのベルトを奪い取った。


客席がざわめく。


青山も、差し出しかけた手を止めた。


嵐龍は厳しい顔つきのまま、手の中のベルトを見下ろしていた。


長く腰に巻いてきた、そのベルトを。


やがて顔を上げると、青山を見据えた。


青山も目を逸らさなかった。


ふっと、嵐龍の表情から力が抜けた。


そして、自らの手でベルトを差し出した。


青山が一瞬、目を見開く。


それから両手を伸ばし、深く頭を下げて受け取った。


「嵐龍が認めたぞ!」


客席のどこかで声が上がった。


次の瞬間、大きな歓声と拍手が会場を包んだ。


観客席から拍手が降り注ぐ。


一方、敗れた嵐龍にも大きな拍手が送られていた。


十度目の防衛戦。


ついに王座を失った。


それでも、誰もその強さを否定しなかった。


敬之も拍手を送った。


それから、リングの青山を見つめる。


何度倒されても。


何度、もう終わったと思っても。


立ち上がった。


最後まで。


その姿を見ているうちに、敬之の胸の奥へ押し込められていた何かが、静かに動き始めていた。


大会終了後、王座獲得を記念した青山耕平のサイン会が開かれた。


当然のように、敬之は列へ並んだ。


手にはBWFのロゴが入ったビニール袋。


中には、この日買った青山のTシャツとタオルが入っている。


少しずつ列が進み、敬之の番になった。


テーブルの向こうには、先ほどまでリングで戦っていた青山が座っている。


敬之は色紙を差し出した。


「おめでとうございます!」


「ありがとうございます」


青山が笑い、ペンを走らせる。


その間に敬之は言った。


「やられすぎて、何度もダメかと思いましたけど」


青山はサインを書きながら聞いている。


「そのたびに立ち上がる姿を見て、感動しました」


敬之は少し笑った。


「なんか……大事なことを思い出した気がします」


青山のペンが止まった。


一瞬だけ敬之を見る。


「最後の一人として託されたんで、簡単には負けられないですよ」


青山は再び何かを書き込みながら続けた。


「みんなの思い、背負ってますから」


敬之は少しだけ黙った。


そして。


「……そうですね」


二人は握手をした。


スタッフに促され、青山と並ぶ。


ツーショット写真。


敬之は少し照れながら笑った。


後楽園ホールを出る。


夜の水道橋。


だが、まだ家には帰らない。


次の目的地がある。


電車へ乗り、武蔵小山へ向かう。


座席に座った敬之は、膝の上へBWFのビニール袋を置いた。


中にはTシャツとタオル。


そして、先ほどもらったサイン色紙。


敬之はふと思い、色紙をもう一度取り出した。


青山耕平のサイン。


その横に、先ほどは気づかなかった文字が添えられている。


『最後を託された人は簡単に負けてはいけない! 頑張ってね』


敬之の手が止まった。


何度も、その文字を見る。


青山は知らない。


敬之が明日、何をしようとしているのか。


何と戦おうとしているのか。


サイン会で交わした、ほんの短い会話から書いてくれた言葉。


なのに、今の自分へ向けられた言葉にしか思えなかった。


視界が滲む。


敬之は慌てて顔を伏せた。


それでも、熱いものが頬を伝った。


やがて車内アナウンスが武蔵小山への到着を告げる。


敬之は色紙を大事に袋へ戻し、電車を降りた。


改札を出て、PCコータローへ向かう。


店のドアを開けた。


「いらっしゃ――」


カウンターの向こうから顔を上げた大崎公太郎が、敬之を見て目を丸くする。


「なんだお前⁉️ 泣いてたのか?」


「なんでもないよ!」


敬之は即答した。


「いや、その顔でなんでもないは無理あるだろ」


「いいんだよ」


敬之はBWFの袋を持ったまま店の奥へ入り、公太郎の前に立った。


少しだけ黙る。


先ほどまでの柔らかい表情が消えた。


「公太郎」


「ん?」


「俺、明日嶺北に行く」


公太郎は何も言わない。


敬之は続けた。


「こんな支配された会社、終わらせる」


店内には、パソコンの冷却ファンの音だけが響いていた。


数秒。


公太郎が、ふっと笑う。


「そんなの分かってたよ」


「え?」


「いつ言ってくるかと思ってた」


嬉しそうな顔だった。


「まさか前日とはねー」


公太郎は机の引き出しから一本のUSBメモリーを取り出し、敬之の前へ置いた。


「みどりの書き換え用」


敬之がUSBを見る。


「これを?」


「みどりの端末に挿す」


「分かった。でもお前、こんな短期間でよく作れたな」


公太郎はUSBを指先で転がした。


「ゼロから作ったんじゃねえよ。俺が何年も育ててきたアイラを、みどりに食わせる形へ組み直しただけだ。それでも、みどりに通用するかどうかは賭けだけどな」


敬之は手を伸ばし、USBを掴んだ。


公太郎が言う。


「それと」


「ん?」


「アイラのメンテするから、携帯貸して」


敬之は何の迷いもなく、スマートフォンを取り出した。


「はい」


「お前さ」


「何?」


「もうちょっと疑えよ」


「お前だから渡してんだろ」


「……まあ、そうだけど」


公太郎はスマートフォンを受け取り、作業机へ向かった。


ケーブルを接続すると、画面にいくつもの表示が現れる。


敬之には何をしているのか分からない。


そして、公太郎も説明しない。


手持ち無沙汰になった敬之は、店内を見回した。


少し離れた場所に、PCコータローのアイラ・デモ機が置かれている。


敬之はそちらへ歩いた。


「アイラ」


《はい。どうしました?》


「今日さ、プロレス見てきたんだよ」


《プロレスですか?》


「ああ。BWF」


敬之は嬉しそうに話し始めた。


「嵐龍賢一郎っていう、めちゃくちゃ強い王者がいてさ。外敵なんだけど、BWFの選手をずっと倒してて」


《はい》


「今日、十度目の防衛戦だったんだけど、青山耕平が勝ったんだよ」


《それは盛り上がりそうですね》


「すごかったよ。何回も、もうダメだと思ったけど、また立つんだよ」


敬之は少し間を置いた。


「最後は新しい技まで出してさ」


《青山選手を応援していたのですね》


「そう」


敬之は笑った。


「俺も明日、富山へ行くんだ」


《富山ですか?》


「ああ」


《新幹線で行くのですか?》


「……」


敬之が止まった。


《この時期でしたら、車窓から紅葉もきれいでしょうね》


「…………」


敬之がゆっくり振り返る。


公太郎はまだスマートフォンを操作している。


「……あ」


《どうしました?》


「交通手段、考えてなかった」


公太郎の手が一瞬止まった。


敬之は頭を掻く。


「まあ、なんとかなるやろ」


《計画を立てることを推奨します》


「はいはい」


しばらくして、公太郎が声を掛けた。


「終わったぞ」


敬之はデモ機から離れ、スマートフォンを受け取った。


「ありがと」


「明日の通信についてだけど」


二人は、連絡方法、通信が途切れた場合の対応、みどりの書き換えを行うタイミングを短く確認した。


必要最低限。


長い打ち合わせではなかった。


最後に、公太郎が敬之を見る。


「無茶すんなよ」


敬之は笑った。


「さっきプロレス見たばっかだから大丈夫」


「意味分かんねえよ」


「じゃあな」


「おう」


敬之はBWFの袋とUSBを持ち、PCコータローを出た。


ドアが閉まる。


公太郎は、しばらくその扉を見ていた。


それから、店内のアイラ・デモ機へ顔を向ける。


「アイラ」


《はい》


「さっき、あいつ何か言ってた?」


《明日、富山へ向かうと話していました》


「それは知ってる」


《ただし、交通手段については考えていなかったようです》


公太郎が額に手を当てた。


「やっぱりかよ……」


すぐにスマートフォンを取り出し、椎名綾香へ電話を掛ける。


数回の呼び出し音。


『もしもし?』


「綾香さん」


『どうしたの?』


公太郎は少し呆れた声で言った。


「あいつ、交通手段を考えてなかったみたいですよ!」


電話の向こうで、一瞬の間があった。


だが、綾香は驚かなかった。


『そんなことだろうと思って、私が用意したわ』


「やっぱり」


『いくつになっても、少し抜けてるんだから』


呆れたような声。


でも、どこか嬉しそうだった。


『ありがとうね、公太郎君』


「え?」


電話が切れた。


公太郎はスマートフォンを見つめる。


「……なんだよ、その切り方」


店内では、アイラ・デモ機だけが静かに光っていた。


十一月十五日。


椎名敬之の長い一日は、まだ終わっていなかった。


敬之が西小山の自宅へ帰り着いた頃には、すでに日付が変わっていた。


富山行きの支度を始めると、綾香が部屋の扉を開けた。


「公太郎君から電話があったわ」


「ああ……」


「やっぱり、どうやって行くか考えてなかったのね」


「駅で切符を買えば、なんとかなるかなって」


「十一月の富山を甘く見ないの。指定席が取れなかったら、どうするつもりだったのよ」


綾香は呆れたように笑い、封筒を差し出した。


「ほら、これ使いなさい」


敬之が封筒を開ける。


中に入っていたのは、中日本航空のeチケット控え。


十一月十六日の朝、羽田発富山行きの便だった。


「真紀ちゃん、一人で戦ってるんでしょ?」


綾香は敬之を見る。


「助けに行ってあげなさい。私の弟なんだから、敵の城からお姫様を助けるくらいしなさい!」


「姉ちゃん、お姫様って」


「あんな女の子、滅多にいないよ。逃すんじゃないよ!」


綾香が敬之の背中を叩く。


「痛っ!」


「しっかりしなさい」


敬之は苦笑しながら、手の中のeチケット控えを見た。


「……ああ。やってくるよ」


そうして、西小山の夜は更けていった。


いや。


すでに、日付は変わっている。


十一月十六日。


六角グループ起業祭当日。

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