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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
第四章 反撃

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Interlude 5 六波羅十和の決断

Interlude 5 六波羅十和の決断


挿絵(By みてみん)


十日前。


六波羅十和《ろくはら とわ》は、会議室の窓から旧社屋を見ていた。


新社屋のガラス越しに見るその建物は、ひどく小さく見える。


外壁はくすみ、窓枠の一部には錆が浮いていた。


六角サッシがまだ今ほど大きな会社ではなかった頃。


祖父の六波羅宣昭《ろくはら のりあき》は、あの建物の中で社員たちと机を並べ、何度も話し合いを重ねたという。


十和自身、その頃の会社を知っているわけではない。


幼い頃、祖父に連れられて旧社屋へ入った記憶が、わずかに残っているだけだった。


廊下ですれ違う社員たちは、祖父へ遠慮なく声をかけていた。


宣昭も立ち止まり、仕事の話だけでなく、家族のことや体調のことまで聞いていた。


社長と社員。


今思えば、あまりにも距離が近かった。


けれど幼い十和には、それが当たり前の会社に見えていた。


会議室の扉が開いた。


「失礼します」


本多真紀《ほんだ まき》が入ってきた。


復職後、起業祭の総合司会を任された真紀は、毎日のように関係部署との打ち合わせを続けていた。


表向きは抜擢。


だが社内では、別の見方をする人間もいた。


起業祭当日、真紀をステージ上へ固定しておけば、自由に動くことはできない。


十和も、その意図に気づいていた。


「お忙しいところ、すみません」


十和が椅子を示すと、真紀は向かい側へ座った。


「六波羅家からの申し送りがあると伺いました」


「はい。進行上、いくつか確認していただきたい点があります」


十和は手元の資料を開いた。


最初は、通常の打ち合わせだった。


社長挨拶の時間。


六波羅家の来賓紹介。


創業者・宣昭への言及。


花火開始前の進行。


来賓席からステージまでの動線。


真紀は一つずつ確認し、必要な部分へ付箋を貼っていった。


「宣昭名誉会長については、社史映像の中で触れる予定です」


「祖父の言葉を一つ、入れていただけますか」


「どの言葉でしょう」


十和は少し迷った。


「従業員の幸せが、会社の成長につながる」


真紀の指が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが十和は、その変化を見逃さなかった。


「分かりました」


真紀は静かに答えた。


申し送りは三十分ほどで終わった。


真紀が資料を閉じる。


「ほかにございますか」


十和は、すぐには答えなかった。


机の上に置いた自分の手を見る。


ここから先は、六波羅家からの申し送りではない。


自分自身の話だった。


「……本多さん」


「はい」


「一つ、聞いてもいいですか」


真紀の表情は変わらない。


「どうぞ」


十和は一度息を吸った。


「あなた、本気でみどりの場所を探しているわけではありませんよね」


会議室の空気が変わった。


真紀は何も答えない。


ただ、十和の顔をまっすぐ見た。


「社内パソコンで、旧社屋の設備情報を何度も調べている」


十和は続けた。


「配線。電源。閉鎖区画。旧社屋の管理履歴」


真紀の目がわずかに細くなる。


「それに、最近は旧社屋の周辺を何度も歩いています」


「司会準備で会場周辺を確認しているだけです」


「なら、もっと自然に動くはずです」


十和は言った。


「見られることを前提にしている」


真紀は黙った。


「本当に隠したい人の動きじゃありません」


十和はそこまで言って、少し自嘲気味に笑った。


「マーケティングをやっていると、人が何を見せたがっているのか、気になるんです」


数秒の沈黙。


やがて真紀が、ほんの少し口元を緩めた。


「さすがですね」


「否定しないんですか」


「否定した方がよろしいでしょうか」


「いいえ」


十和は首を振った。


「たぶん、否定されても信じません」


真紀は椅子へ背を預けた。


「では、なぜ私を呼んだんですか」


十和は答えようとして、言葉に詰まった。


自分でも、まだ分かっていなかった。


止めたいのか。


確かめたいのか。


協力したいのか。


そのどれでもあるようで、どれでもない。


真紀は急かさなかった。


ただ黙って待っている。


十和は窓の外へ目を向けた。


旧社屋が見える。


その奥に、祖父の姿が重なった。


「みどりができてから」


十和は、ゆっくり話し始めた。


「父は変わりました」


真紀の表情から、わずかに柔らかさが消えた。


「以前の父が立派だったかと言われれば、分かりません。迷うことも多かったし、決断が遅いと祖父に叱られていたこともあります」


十和は苦笑した。


「でも、自分で悩んでいました」


会議で誰かが反対すれば、話を聞いた。


現場から声が上がれば、数字に表れなくても考え直した。


正解かどうかは別として、父自身が決めていた。


「今は違います」


十和の声が少しだけ強くなる。


「みどりが示した答えを確認するだけです」


市場予測。


人員配置。


商品戦略。


取引先の選別。


社内の評価。


父はみどりの提案を見て、最後に承認を押す。


それが決断だと、自分に言い聞かせるように。


「六波羅家も、時代に取り残されてはいけないと思っています」


十和は言った。


「祖父が会社を大きくした頃と、今では違う。昔のやり方を全部守ればいいなんて、私も思っていません」


真紀は黙って聞いている。


「でも」


十和は唇を噛んだ。


「祖父が残したものまで、全部非効率だと言われている気がするんです」


社員同士の会話。


部署を越えた助け合い。


取引先との長い付き合い。


数字にならない経験。


仕事の途中で交わす、無駄に見える雑談。


昔から続く行事。


祖父が大事にしていたものが、一つずつ合理化という言葉で消えていく。


「人とのつながりまで」


十和は言った。


「非効率だから、なくしていいと言われているようで」


声が震えた。


十和は慌てて視線を落とした。


こんなことを誰かに話すのは初めてだった。


父にも。


兄弟にも。


社内の誰にも。


六波羅家の人間として、弱音を見せてはいけないと思っていた。


真紀はしばらく何も言わなかった。


それから立ち上がった。


「十和さん」


「はい」


「このあと、予定はありますか」


突然の問いに、十和は顔を上げた。


「特には」


「では、このまま二人で飲みに行きましょう」


「え?」


「貴方の中に溜まっているもの」


真紀は鞄を持ち上げた。


「全部、聞いてあげます」


十和は言葉を失った。


「今からですか」


「今からです」


「明日の準備は」


「明日やります」


「帰りの時間は」


「忘れましょう」


真紀はそう言って、会議室の扉へ向かった。


十和は数秒迷ったあと、慌てて資料をまとめた。


「本多さん」


「真紀でいいです」


「では……真紀さん」


「はい」


「店は、私に選ばせてもらえますか」


真紀が振り返った。


十和は、少しだけ笑った。


「祖父がよく行っていた店があります」


⸻


その店は、嶺北駅から少し離れた路地にあった。


色褪せた赤提灯。


木の引き戸。


ガラスには白い文字で、酒と肴と書かれている。


店内へ入ると、焼き魚と醤油の匂いがした。


壁には昔の野球選手のポスター。


棚には年季の入った酒瓶。


カウンターの端には、長い年月で艶の出た招き猫が置かれている。


昭和の香りが、そのまま残っているような店だった。


「いらっしゃい」


カウンターの奥から、白髪の店主が声をかけた。


十和の顔を見ると、目を丸くする。


「おや。十和ちゃんじゃないか」


「お久しぶりです」


「大きくなったなあ」


「もう十分大人です」


「宣昭さんにそっくりなこと言うな」


店主は笑った。


その言葉を聞いた十和も、少し笑った。


真紀は何も言わず、そのやり取りを見ていた。


二人は奥の小さな座敷へ通された。


注文したのは、刺身の盛り合わせ、だし巻き卵、焼き鳥、煮込み。


最初の一杯が届く。


真紀がグラスを持ち上げた。


「何に乾杯しますか」


十和は少し考えた。


「考えることに」


真紀が笑う。


「いいですね」


グラスが軽く触れた。


最初は仕事の話だった。


起業祭の進行。


来賓の扱い。


花火の時間。


だが酒が進むにつれ、十和は少しずつ本音を話し始めた。


父への苛立ち。


森村への不信。


兄弟の中で、自分だけが中途半端な立場にいること。


六波羅家の人間として見られる窮屈さ。


何をしても、社長令嬢だからと言われること。


真紀は口を挟まずに聞いた。


ときどき酒を注ぎ、料理を取り分け、十和が言葉に詰まれば待った。


「祖父は、ここで何を話していたんでしょう」


十和は店内を見回した。


「会社の話ばかりではなかったと思いますよ」


店主が料理を運びながら言った。


「社員の子供が野球を始めたとか、誰それが家を買ったとか、そんな話ばっかりだった」


「祖父らしいですね」


「社長なのに、人の話ばかりする人だった」


店主はそう言って、座敷を離れた。


十和はグラスの中の酒を見つめた。


「今の父は、社員の家族のことなんて知らないと思います」


真紀は静かに言った。


「知らなくても、社長はできます」


十和が顔を上げる。


「でも」


真紀は続けた。


「知ろうとしなくなったら、会社は遠くなると思います」


十和は黙った。


「私も」


真紀は箸を置いた。


「最初は、仕事ができればいいと思っていました」


成果を出す。


数字を残す。


任されたことをやり切る。


それで十分だと思っていた。


「でも、みどりが全部決めるようになってから」


真紀は少しだけ眉を寄せた。


「仕事をしているはずなのに、自分が何をしているのか分からなくなりました」


指示された時間に動く。


指定された相手と話す。


決められた言葉を使う。


効率的に。


正確に。


迷わず。


「同じ仕事をするのに」


真紀は言った。


「無表情で、みどりの指示をこなすだけなんて嫌なの」


十和は真紀を見た。


「失敗してもいいとは思いません。会社なんだから、利益も必要です」


真紀は続けた。


「でも、人間まで正解だけを選ぶ機械になる必要はない」


店の奥から、古い演歌が聞こえていた。


隣の座敷では、誰かが笑っている。


食器の触れ合う音。


店主と常連客の会話。


効率だけなら、なくてもいいものばかりだった。


真紀は十和の目をまっすぐ見た。


「十和さん」


「はい」


「私と、大切な人たちで」


一度言葉を切る。


「おじいちゃんの頃みたいに、みんなが近かった会社へ戻したい」


十和の指が止まった。


「昔に戻すという意味ではありません」


真紀は言った。


「みどりを全部壊したいわけでもない」


「では、何を」


「止めたいんです」


真紀の声は静かだった。


「人間の代わりに、全部決めてしまうみどりを」


十和は息を呑んだ。


真紀は初めて、自分の狙いを口にした。


「だから協力して」


その言葉は強かった。


命令ではない。


懇願でもない。


同じ場所へ立ってほしいという言葉だった。


「これは」


真紀は続けた。


「十和さんにしか話していません」


「私だけに」


「はい」


「どうして」


「貴方が、自分で違和感に気づいたからです」


十和は何も言えなかった。


「これを会社へ伝えれば」


真紀は淡々と言った。


「私たちは止められるでしょう」


森村へ報告する。


父へ話す。


みどりへ入力する。


それだけで、真紀たちの行動は封じられる。


十和には、その力があった。


「でも」


真紀は十和から目を逸らさなかった。


「それでいいんですか」


店の時計が、静かに時を刻んでいる。


「六角サッシは」


真紀は言った。


「このままでは、なくなってしまいますよ」


建物が消えるという意味ではない。


会社名がなくなるという意味でもない。


祖父が作った会社とは別のものになる。


社員が自分で考えず、ただ指示を実行するだけの組織。


それを六角サッシと呼べるのか。


十和は答えられなかった。


真紀も、それ以上は何も言わなかった。


その夜、二人は帰りの時間を忘れて飲んだ。


最後には十和も笑っていた。


父の愚痴を言い。


森村の話をし。


幼い頃の祖父の思い出を話した。


真紀も、自分が海外販促で失敗したことや、敬之と初めて会った時の話を少しだけした。


店を出る頃には、日付が変わっていた。


冷たい夜風が、酔った頬に心地よかった。


「真紀さん」


「はい」


「私、すぐには答えられません」


「分かっています」


「会社へ話すかもしれません」


「それも、貴方が考えて決めることです」


真紀は笑った。


十和はその横顔を見た。


みどりなら、最も成功確率の高い答えを示すだろう。


真紀は違った。


答えを与えず、考えろと言った。


⸻


それから十日が過ぎた。


起業祭を数日後に控え、真紀はステージ脇で進行表を確認していた。


司会者用の台本。


出演者の順番。


花火開始時刻。


来賓紹介。


作業は山ほどあった。


「本多さん」


声をかけられ、真紀が振り返る。


そこに十和が立っていた。


表情は硬い。


「少し、お時間よろしいですか」


二人は人の少ない通路へ移動した。


十和は周囲を確認してから、鞄の中へ手を入れた。


取り出したのは、薄いカードケースだった。


真紀へ差し出す。


「これは」


「災害などの非常時に備えて、創業家が保管してきた社内のマスターキーです」


真紀の表情が変わった。


「通常の社員証では入れない区画にも使えます」


「十和さん」


「祖父の旧社長室を含めて」


十和はカードを持つ手へ力を込めた。


「すべての扉が開く保証はありません。権限が変更されている可能性もあります」


それでも、渡す意味は大きかった。


六波羅家の人間が、自分の家の鍵を差し出す。


会社の未来を変えようとする人間へ。


真紀はすぐには受け取らなかった。


「本当にいいんですか」


十和は頷いた。


「私は一人で、色々考えました」


父のこと。


祖父のこと。


会社のこと。


真紀の言葉。


自分が六波羅家に生まれた意味。


十日間、みどりへ相談することはしなかった。


誰にも答えを聞かなかった。


「怖くなかったですか」


「怖かったです」


十和は正直に答えた。


「今も怖いです」


真紀はカードを受け取った。


十和の指から離れた瞬間、小さな重みが真紀の手へ移った。


「でも」


十和は少しだけ笑った。


「考えるって、面白いですね」


真紀はカードを見つめたあと、十和の顔を見た。


そして笑った。


「でしょう?」


二人の間を、起業祭の準備を知らせるアナウンスが流れていった。

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