第二十五話 外へ
第二十五話 外へ
十日後。
本多真紀が嶺北本社へ出勤すると、フロアはいつもより少しだけざわついていた。
誰かが大声を出しているわけではない。
しかし、席に着いた社員たちの視線が、同じ方向へ向いている。
社内モバイル。
あるいは、デスクのパソコン。
真紀は自分の席へバッグを置き、椅子を引いた。
隣の社員が画面を見ながら、小さく声を上げる。
「へえ……もう決まったんだ」
別の席からも声がした。
「豊鉄って、あの大分の?」
「そうみたい。すごいね、いきなり鉄道会社まで入るんだ」
真紀の手が止まった。
――豊鉄。
聞き慣れないはずの会社名が、妙に耳に残った。
パソコンを起動する。
ログインすると、社内ポータルのトップに大きなバナーが表示されていた。
《みどり外販事業 試験導入企業正式発表》
真紀は無言でクリックした。
画面が切り替わる。
そこには、二社の社名が並んでいた。
月明堂製菓株式会社。
全国規模で菓子の製造・販売を行う食品メーカー。
既存の受発注システム、在庫管理システムとの連携を進め、数か月間の試験運用を実施する。
そして、もう一社。
豊後急行鉄道株式会社。
大分県を中心に鉄道路線を展開する地方私鉄。
県中心部から大分空港、宇佐市、由布院方面を結ぶ交通事業者。
こちらはすでに一部業務で先行運用を開始しており、今後、連携範囲を段階的に拡大していく予定だという。
真紀は画面をゆっくり下へ送った。
《試験導入の結果を踏まえ、今後正式サービスとして全国の企業へ展開してまいります》
その一文で、指が止まった。
「……全国」
小さく呟く。
数か月前の役員会議で外販部門の新設が決まったことは知っていた。
だが、それはまだ計画の段階だった。
少なくとも真紀は、そう思っていた。
実際には違った。
もう企業が決まっただけではない。
自分たちに知らされないまま、一部では先行運用まで始まっている。
しかも一社ではない。
食品メーカー。
鉄道会社。
業種すら異なる二社へ、同時に広げようとしている。
真紀は椅子の背もたれに身体を預けた。
周囲では、社員たちが好意的に話している。
「これ成功したら、結構デカい事業になるんじゃない?」
「うち、サッシ屋だよな?」
「だからすごいんじゃない。新規事業ってやつ」
「ボーナス増えたりして」
笑い声が上がる。
真紀は笑わなかった。
彼らが悪いわけではない。
表面だけを見れば、確かに明るい話だ。
社内で成果を出したAIを商品化し、外部へ販売する。
新しい収益源。
新規事業。
成長戦略。
企業として見れば、何もおかしくない。
――表面だけなら。
真紀はもう一度、月明堂製菓の説明を読む。
受発注。
在庫。
人員配置。
業務効率。
その文字の向こうに、富山工場の光景が浮かんだ。
古い工作機械。
長年その機械を扱ってきた田所。
効率だけでは測れない技術。
若い社員へ伝えられていく経験。
みどりは、それをどう判断するだろう。
数値化できない時間。
回り道。
雑談。
寄り道。
失敗。
誰かに教えるために手を止めること。
新しいことを試すために、一度効率を落とすこと。
真紀は唇を結んだ。
次に、豊後急行鉄道の紹介を見る。
鉄道会社。
列車を走らせる会社。
安全。
運行。
整備。
接客。
利用者。
そこへ、みどりが入る。
もちろん試験導入の段階では、限定された業務から始めるのだろう。
いきなり列車の運行をAIへ任せるわけではない。
だが。
六角サッシだって、最初から今の形だったわけではない。
業務を手伝うシステムだった。
便利な道具だった。
少しずつ任せる範囲が広がった。
人が考えるより先に、みどりが答えを出すようになった。
その答えが便利だから、人は従った。
そしていつの間にか。
人事。
警備。
入退場。
交通。
人間そのものの行動まで、みどりの判断材料になった。
真紀は画面から目を離した。
これが、さらに外へ広がっていく。
六角サッシ一社の問題ではなくなる。
月明堂が成功すれば、三社目が来る。
豊鉄が成功すれば、四社目が来る。
導入実績という名前の信用が積み上がる。
そしていつか。
「六角サッシでも使っているから」
「月明堂でも成果が出ているから」
「鉄道会社でも導入されているから」
そんな理由で、導入する企業が増えていく。
真紀は目を閉じた。
みどりが悪意を持っているとは思っていない。
人間を苦しめたいわけでもない。
会社を乗っ取りたいわけでもない。
ただ。
効率が良い方を選ぶ。
無駄を減らす。
問題が起きる前に、原因を取り除く。
その判断を続けているだけだ。
だからこそ、厄介だった。
悪意があるなら、止める理由は簡単だ。
悪いものだから止める。
だが、みどりは違う。
正しい。
少なくとも、数字の上では。
真紀は目を開いた。
社内ポータルには、みどりのロゴが表示されている。
緑色の葉。
かつてより増えた葉が、静かに画面の中で広がっている。
真紀はそれを見つめた。
「……駄目ね」
誰にも聞こえない声だった。
復職したばかり。
起業祭の総合司会にも指名された。
自分の行動は、以前よりずっと監視されている。
おそらく、下手に動けばすぐにみどりは気付く。
それでも。
もう後には引けない。
これは、自分が会社に戻れるかどうかという話ではない。
敬之が仕事を続けられるかどうかだけでもない。
六角サッシが元に戻るかどうかだけでもない。
このまま広がれば。
同じことが、別の会社でも起きるかもしれない。
真紀はゆっくり息を吐いた。
そして、社内ポータルの画面を閉じた。
「あんな……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「効率を盾にして、人から遊びをなくすAIなんて」
指先が、机の上で静かに握られる。
「これ以上、外へ広がる前に止めないと」
その表情から、迷いは消えていた。
◇
一方、東京。
ビルの外壁を水が流れ落ちていた。
佐々木智子は散水ノズルを持ったまま、目の前のサッシを見上げた。
「施工管理って、ここまでやるんですか〜?」
少し疲れた声だった。
隣で記録用紙を確認していた椎名敬之が顔を上げる。
「そうだよ」
そして佐々木を見て、ケラケラと笑った。
「佐々木ちゃん、だいぶ施工管理らしくなってきたよ」
「散水は上手くなったと思いますけど……」
「十分、十分」
敬之はサッシの上枠を指差した。
「こういうのは積み重ねだから」
「積み重ね?」
「そう。この仕事は経験の積み重ね。現場でいろんなもん見て、失敗も見て、変なのにも当たって」
敬之は自分の頭を指で軽く叩いた。
「いかにここの引き出しを増やすかだからねー」
「引き出し……」
「教科書通りにいかないことの方が多いからさ。『あ、この症状、前にも見たな』って引き出しが多いほど対応できる」
佐々木は手にしたノズルを見た。
派遣社員として六角サッシへ来た頃には、こんなものを持って現場に立つことになるとは思ってもいなかった。
敬之は記録用紙に何かを書き込みながら、何でもないことのように続けた。
「あ、それとさ」
「はい?」
「この漏水対応が終わったら、佐々木ちゃんを正式に採用するように中川さんに進言するから」
佐々木の動きが止まった。
「……え?」
敬之は顔も上げない。
「もう十分やれるでしょ」
「いや、ちょっと待ってください」
「何?」
ようやく敬之が顔を上げた。
「それ……正社員ってことですか?」
「そうだよ」
「そんな軽く言います?」
「重く言った方がいい?」
敬之は少し考えるふりをした。
そして姿勢を正す。
「佐々木智子殿」
「やめてください」
「まだ何も言ってないじゃん」
「絶対ふざけるじゃないですか」
敬之がケラケラ笑う。
「まあ、最終的に決めるのは中川さんだけどね。でも俺からはちゃんと推薦するよ」
佐々木は、しばらく何も言わなかった。
最初は、ただの派遣だった。
言われたことを記録して。
日報を書いて。
それだけのはずだった。
気がつけばヘルメットを被り、現場を歩き、図面を見て、今では散水ノズルまで握っている。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
敬之は笑って頷いた。
「はい。じゃあ仕事に戻ります」
「余韻とかないんですか?」
「現場だからねー」
敬之は図面を広げ、次の箇所を指差した。
「あ、はい。次ここ散水試験するよー。北面の五階、十四番AWね!」
佐々木は図面を覗き込んだ。
そして、大きく息を吐く。
「わかりました……」
ノズルを持ち直す。
「課長代理殿……」
「はいはい。よろしくお願いしまーす」
敬之は笑いながら、次の試験箇所へ歩いていった。
佐々木はその背中を見ながら、小さく笑った。




