8ノ語 御影の紋
御影家の紋は、開いてはいけない時がある。
八咫鏡に三つ藤。
鏡は、怪異の真実を映す。
藤は、暴れる語りを結び、封じ、ほどけないように絡め取る。
三つに分かれた藤は、祓う、封じる、語りを閉じるという御影家の役目を示している。
けれど、御影紋は鍵でもある。
閉じたものを開く鍵。
見てはいけない由来を見る鍵。
眠っている語りに、もう一度名を与えてしまう鍵。
だから御影家では、幼い頃から同じことを教えられる。
紋を開くな。
開くなら、閉じる覚悟を持て。
閉じるなら、その語りを背負え。
御影直人が初めてその言葉を聞いたのは、まだ小学生の頃だった。
御影家の奥座敷。
雨戸を閉めた暗い部屋。
床の間には、八咫鏡に三つ藤の掛軸がかけられていた。
祖父は、直人の前に古い木箱を置いた。
箱には、細い注連縄が巻かれている。
その中央に、御影家の紋が焼き印のように刻まれていた。
「直人、これは何に見える」
祖父が聞いた。
直人は答えた。
「箱です」
祖父は少しだけ笑った。
「そう見えるなら、まだ開けるな」
「中に何があるんですか」
「語りだ」
当時の直人には、その意味がよくわからなかった。
祖父は箱に触れず、掛軸を見上げた。
「御影は、怪異を倒す家ではない、語りを終わらせる家だ、だがな、終わらせた語りは消えない、閉じた者の中に残る」
直人は、祖父の背中を見ていた。
「怖いですか」
祖父は答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「怖いと思えるうちは、まだ大丈夫だ」
それから二十年以上が経った。
霞ヶ関地下封域。
地上では、宮内庁祭祀資料保全室の職員が、いつも通り古文書の搬入記録を処理していた。
地下では、内閣府特異災害対策局の封異管理区画が、深夜でも低い機械音を響かせている。
地下7階、封印物保管庫。
そこは、第一班でも許可なく入れない区域だった。
全国から回収された依代、封印済みの札具、禁足地の土、古い鏡、折れた神楽鈴、名前を削られた木札。
それらが、御影紋の認証によってひとつずつ管理されている。
午前2時16分。
保管庫の照明が、ひとつだけ消えた。
異常を知らせる警報は鳴らなかった。
霊障測定器の値も上がらなかった。
封印扉は閉じたままだった。
ただ、監視映像の中で、御影紋の刻まれた保管箱がひとつ、内側から曇った。
その箱は、名もない箱だった。
登録番号はある。
封印年月日もある。
回収地も記録されている。
だが、怪異名の欄だけが空白だった。
水瀬が異変に気づいたのは、偶然だった。
解析室で仮眠を取るつもりが、椅子に座ったまま端末を見ていた。
眠る前に確認するだけのつもりだった自動監視ログに、ひとつだけ妙な空白があった。
開閉履歴なし。
認証履歴なし。
封印異常なし。
なのに、保管箱の内部温度だけが、3度下がっていた。
「……気持ち悪い」
水瀬は小さく呟き、映像を巻き戻した。
何も映っていない。
誰も入っていない。
扉も開いていない。
箱も動いていない。
ただ、箱に刻まれた御影紋の藤が、ほんの一瞬だけ、逆向きに見えた。
水瀬の眠気は完全に消えた。
「班長案件です、これ」
御影は、すぐに来た。
黒い上着のまま、表情は変わらない。
だが、映像を見た瞬間、目だけがわずかに鋭くなった。
「この箱を映せ」
水瀬は保管庫の映像を拡大した。
「登録番号、甲七三一、回収地は埼玉県北部の廃寺跡、封印年は平成11年、担当は御影家直轄、怪異名は空欄です」
御影は黙っていた。
水瀬が横目で見る。
「班長、知ってますか」
「知っている」
「何の箱ですか」
御影はすぐには答えなかった。
「開けてはいけない箱だ」
水瀬は少しだけ眉を寄せた。
「それ、保管庫の箱だいたい全部そうです」
「これは違う」
御影は画面の中の紋を見ている。
「御影家が、名前を与えずに閉じたものだ」
水瀬の指が止まった。
「名前を与えずに?」
「名を付けると、形を持つ、形を持つと、語れるようになる」
「つまり、名前を付けたら強くなるタイプですか」
「逆だ」
御影は静かに言った。
「名前を付けた者の形を奪う」
水瀬は、少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
その時、解析室の照明が一瞬だけ暗くなった。
モニターの黒い画面に、白い紋が浮かぶ。
八咫鏡に三つ藤。
御影家の紋。
だが、藤の向きが逆だった。
水瀬が息を呑む。
「これ、班長の紋を真似てます」
御影は画面を見たまま言った。
「真似ているのではない」
逆向きの御影紋が、ゆっくりと滲む。
鏡の中央に、誰かの目のような影が現れた。
「喰っている」
地下封域全体に、低い警告音が鳴った。
上原が装備室から来た時には、すでに御影は保管庫へ向かう準備を終えていた。
「何が起きている」
上原は霊障防護盾を持っている。
戸張は刀袋を肩にかけ、東雲は医療キットではなく、浄化札の入った黒い箱を持っていた。
白羽は寝起きのような顔をしていたが、目だけは完全に覚めている。
鷹宮は何も言わず、御影を見ていた。
水瀬が早口で説明する。
「地下7階保管庫で封印箱に異常、対象は名前を持たない封印物、御影紋を反転表示して、地下封域の認証系に干渉中です、外部侵入ではありません、内側からです」
戸張が御影を見る。
「御影家絡みか」
御影は頷いた。
「俺が行く」
上原が言う。
「第一班で行く」
「必要ない」
その一言で、空気が止まった。
白羽が不安そうに言う。
「御影班長、それはだめです」
御影は振り返らない。
「御影紋を喰う怪異だ、近づけば、お前たちの家紋にも触れる可能性がある」
戸張が少しだけ笑った。
「つまり、危ないから来るなってことか」
「そうだ」
「却下だな」
上原も言った。
「俺も却下する」
御影がようやく振り返る。
「これは命令だ」
上原は一歩も引かなかった。
「命令なら、現場指揮官として全員の配置を決めろ、ひとりで行く理由にはならない」
戸張が続ける。
「直城に正論を言わせるなよ、班長」
水瀬が端末を抱え直した。
「認証系は私が見ないと詰みます」
白羽も札束を抱えた。
「御影紋だけで閉じると、食われた時に終わります、外側の結界は私が作ります」
東雲が静かに言う。
「班長に霊障が入ったら、誰が戻すんですか」
鷹宮が最後に言った。
「もう後ろにいる」
全員が振り返った。
廊下の奥。
封印管理区画へ続く白い壁に、御影紋が浮かんでいた。
逆向きの、御影紋。
その鏡面から、黒い何かが滲み出している。
人の形ではない。
文字のようで、影のようで、濡れた墨のようだった。
それは壁を伝い、床へ落ちる。
落ちた墨は、ゆっくりと広がりながら、そこにある表示板の文字を消していった。
封印管理区画。
その文字が、消える。
次に、避難経路図。
次に、職員名簿。
次に、端末に表示された水瀬の名前。
水瀬が叫ぶ。
「うわ、私のアカウント名が消えました!」
御影が低く言う。
「名を喰う」
墨のような怪異は、床を這ってこちらへ来る。
戸張が刀を抜いた。
「斬るか」
「斬るな」
御影が即座に止めた。
「切れば、名を失った欠片が増える」
上原が盾を構えた。
「押さえる」
岩楯に鎮め縄の紋が光る。
墨は盾の前で止まった。
だが、盾の表面に刻まれた上原家の紋が、わずかに滲む。
上原の眉が動く。
「触られた」
白羽が札を投げる。
「離してください!」
札が盾の縁に貼りつき、墨を弾く。
だが、その札に書かれた白羽家の三枚羽の紋も、先端が少しだけ欠けた。
白羽の顔色が変わる。
「紋を食べてます、本当に」
東雲が上原の腕に浄化札を当てる。
「侵食は浅いです」
御影は怪異を見ていた。
「保管庫へ行く、ここで止めても本体は閉じない」
水瀬が端末を叩く。
「地下7階までの通常エレベーター、使用不能、認証名が消されています、階段は封印扉が閉鎖中、御影班長の認証なら通れますが」
「俺が開ける」
戸張が言った。
「だから、それが狙いじゃないのか」
御影は少し黙った。
その沈黙だけで、戸張は察した。
「わかってて行くつもりだったな」
御影は否定しなかった。
上原が低く言う。
「直人」
班長ではなく、名前だった。
その呼び方に、水瀬と白羽が少しだけ驚く。
上原は続けた。
「お前が開けるなら、俺が前に立つ」
戸張が刀を肩に置く。
「俺は横だな」
東雲が言う。
「私は後ろです」
白羽が札を並べる。
「外側、閉じます」
水瀬が端末を構える。
「認証ログ、私が残します、名前を消されても追えるように」
鷹宮が御影を見た。
「中に入ったら、たぶん見えなくなる」
御影が問う。
「何がだ」
「班長が」
その言葉は、妙に重かった。
御影はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「なら、見失うな」
封印階段へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
壁の表示が消えている。
扉の番号も消えている。
通路の名前もない。
場所そのものが、誰かに忘れられていくようだった。
水瀬は端末に直接コードを打ち込みながら歩いている。
「名前ベースの認証が食われてます、でも座標と物理ロックはまだ生きてます、これ、御影紋だけじゃなくて“名付け”そのものに干渉してますね」
白羽が言う。
「名前を喰う怪異って、どう封じるんですか」
御影は答える。
「名を与えない」
「もう与えられてないんですよね」
「だから、閉じていた」
戸張が言う。
「だが、誰かが開けた」
御影は足を止めなかった。
「そうだ」
水瀬が顔を上げる。
「内部犯ですか」
御影は答えない。
代わりに、鷹宮が言った。
「外から手だけ入っている」
戸張が眉を寄せる。
「また曖昧な」
「誰かが、開け方を知っている」
御影の表情が、ほんの少しだけ険しくなった。
地下7階へ続く封印階段の前に着く。
扉には御影紋が刻まれていた。
普段なら、御影が掌をかざせば開く。
だが今、その紋は逆向きに歪んでいた。
藤が鏡へ絡みつき、鏡の内側を黒く塗りつぶしている。
御影は扉の前に立った。
東雲が小さく言う。
「班長、開けた瞬間に侵食が来ます」
「わかっている」
白羽が扉の左右に札を貼る。
「外側の輪、作ります」
上原が盾を構える。
「俺が受ける」
戸張が刀を抜く。
「俺が切る、ただし本体じゃなく、触手だけだな」
水瀬が端末を繋げる。
「認証ログを一時的に名前じゃなく、行動記録で保存します、御影班長が御影班長として認識されなくなっても、ここに“扉を開けた人物”として残します」
御影が少しだけ水瀬を見る。
「助かる」
水瀬は一瞬、言葉に詰まった。
「あ、はい」
御影は掌を紋にかざした。
「御影紋、開帳」
青白い光が広がった。
だが、次の瞬間、扉の紋から黒い墨が噴き出した。
上原が盾で受ける。
盾の表面に黒い藤のような線が走る。
岩楯に鎮め縄の紋が青白く光り、侵食を押し返す。
戸張が横から刀を振る。
黒い藤だけを斬る。
斬られた墨は空中で文字になりかけ、白羽の札に吸われて消えた。
「文字になる前に取ります!」
白羽が叫ぶ。
東雲は御影の背に浄化札を貼った。
「班長、意識をこちらに」
水瀬が端末を見る。
「認証、通ります、でも名前が消されてます、表示が空欄です!」
扉が開いた。
御影の名前が、端末から消えた。
水瀬が息を呑む。
「班長の名前が」
御影は振り返らない。
「まだいる」
その声は、確かに御影のものだった。
地下7階、封印物保管庫。
中は暗かった。
本来なら、一定間隔で灯るはずの誘導灯が消えている。
棚に並ぶ封印箱の札も、いくつか文字が欠けていた。
名を喰われた箱。
回収地を喰われた箱。
日付を喰われた箱。
何が入っているのか、わからなくなりかけている。
水瀬が青ざめる。
「これ、まずいです、管理情報を食われると、何が封じられてるかわからなくなる」
白羽が札を握りしめる。
「開ける順番もわからなくなります」
保管庫の奥。
甲七三一の箱があった。
御影紋の刻まれた木箱。
注連縄はほどけていない。
封印札も破れていない。
だが、箱の周りに黒い名前がいくつも落ちていた。
消えた職員名。
消えた地名。
消えた怪異の管理名。
それらが、虫のように床を這っている。
御影は箱へ近づいた。
上原が前に出る。
「俺が先だ」
「触るな」
御影の声が鋭かった。
上原は止まる。
箱の表面に、御影家の紋が浮かぶ。
今度は逆向きではない。
正しい向きだった。
だが、それが御影を見るように、鏡面だけが黒く濡れている。
箱の中から声はしない。
呼ばない。
笑わない。
問いかけない。
ただ、名前を待っている。
御影は言った。
「これは、名喰いだ」
水瀬が小声で繰り返す。
「名喰い」
その瞬間、床に落ちていた文字が一斉に震えた。
御影が低く言う。
「言うな」
水瀬は口を押さえる。
箱の注連縄が、一本だけ切れた。
白羽が悲鳴に近い声を出す。
「今ので反応しました、名前を付けると開きます!」
御影は自分の失言を悔やむように、ほんのわずか目を伏せた。
上原が盾を構える。
「来るぞ」
箱の隙間から、黒い手が出た。
人の手ではない。
筆で書いた文字が集まって、手の形になっている。
その指が、御影へ伸びる。
戸張が斬ろうとする。
御影が叫んだ。
「斬るな!」
戸張は寸前で刃を止める。
黒い手は御影の胸元に触れた。
御影の上着の内側。
御影札を収めた札入れ。
そこに刻まれた八咫鏡に三つ藤が、黒く染まり始める。
東雲が御影へ駆け寄る。
「班長!」
御影は動かなかった。
黒い手は、御影の名前を探している。
直人。
御影。
班長。
宗家。
封異機動班第一班指揮官。
いくつもの呼び名が、御影の周囲で剥がれかける。
水瀬の端末から、御影の顔写真が消えた。
職員データの氏名欄が空白になる。
作戦記録の発言者名が消える。
水瀬は必死にキーボードを叩いた。
「だめ、消させない、行動ログで固定、位置情報で固定、声紋で固定、ええい、顔認証じゃなくて歩幅でも固定します!」
白羽が御影の周囲に札を打つ。
「御影班長を中心に輪を作ります、名前じゃなく、今ここにいる人として固定します!」
東雲が御影の手を握った。
「御影班長、聞こえますか」
御影は答えない。
東雲は言い直した。
「直人さん」
上原が一瞬だけ東雲を見る。
御影の指が、わずかに動いた。
東雲は続ける。
「あなたは今、霞ヶ関地下封域にいます、第一班と一緒にいます、まだこちら側です」
黒い手が東雲へ伸びる。
上原が盾で遮った。
「触らせない」
盾の紋がさらに黒く滲む。
上原の腕にも黒い線が走る。
戸張が歯を食いしばる。
「直城、下がれ」
「無理だ」
「無理でも下がれ」
「無理だと言った」
戸張は舌打ちし、黒い手ではなく、御影札に絡む黒い藤だけを斬った。
刃が滑る。
切った瞬間、戸張の名前が一文字、端末上で欠けた。
水瀬が叫ぶ。
「戸張さんの名前、龍の字が消えかけてます!」
戸張は笑った。
「龍一から一になるのは格好悪いな」
「冗談言ってる場合じゃないです!」
鷹宮がずっと箱を見ていた。
そして言った。
「中じゃない」
御影はまだ動かない。
鷹宮は続ける。
「本体は箱の中じゃない、御影紋の裏だ」
白羽が叫ぶ。
「紋の裏?」
「箱に刻まれた紋、その焼き印の下」
水瀬が映像を拡大する。
「あります、焼き印の裏に別の線、これ、反転紋です、誰かが後から彫っています」
御影の目がわずかに開いた。
「外から手を入れたか」
箱は開けられていない。
だが、紋だけが傷つけられていた。
御影紋の裏に、反転した御影紋を刻む。
封印を開けず、封印の意味だけを反転させる。
語りを閉じる紋を、語りを喰わせる紋へ変える。
水瀬が低く言った。
「これ、内部の作業ログにないです、でも保管庫の定期点検時に接触できる人間は限られます」
御影は黒い手を受けたまま、ようやく動いた。
「戸張」
「なんだ」
「紋の裏だけを削げ」
戸張は眉を上げる。
「箱を斬らずにか」
「そうだ」
「美しい注文だな」
「できるか」
戸張は刀を構えた。
「難しいほど、好みだ」
上原が盾で黒い手を押さえる。
白羽が箱の周囲を固定する。
東雲が御影の意識をつなぐ。
水瀬が名前の消失をログで補い続ける。
鷹宮が反転紋の位置を指示する。
「右上、藤の根元」
戸張の刃が走る。
木箱は斬らない。
焼き印を壊さない。
その裏に潜った細い反転線だけを削ぐ。
刃の先が、髪の毛ほどの黒い線を剥がした。
箱が震える。
黒い手が暴れる。
上原の盾に亀裂が入る。
東雲が御影の手を強く握る。
「直人さん、戻ってください」
御影が小さく息を吸った。
戸張が二太刀目を入れる。
「次は」
鷹宮が言う。
「鏡の左下」
刃が滑る。
黒い線が剥がれる。
水瀬の端末に、御影の名前が一瞬だけ戻った。
「戻った、いやまた消えます、急いでください!」
白羽が札を追加する。
「紋の意味が戻りかけてます、あと一本!」
鷹宮が言った。
「中央、鏡の奥」
戸張が止まった。
「中央を削げば、御影紋も傷つく」
御影が低く言った。
「構わない」
上原が即座に言う。
「構う」
御影は上原を見る。
「やれ」
上原は御影を見返した。
「やるなとは言わない、だが戻ってこい」
御影は答えなかった。
戸張が息を吐く。
「面倒な班長だ」
彼は刀を持ち直した。
美しい一撃ではない。
中央の鏡を傷つけず、奥の反転線だけを削ぐには、刃ではなく刃の腹で押し潰すしかなかった。
戸張は刀を横に寝かせ、箱の紋へ押し当てた。
ぎり、と嫌な音がする。
戸張の手首に、前回の傷が痛む。
だが、押し切った。
黒い反転線が潰れた。
箱から伸びていた手が、崩れた。
床に落ちた名前たちが、墨の粒になって消える。
壁の表示が戻る。
端末の職員名簿が復元される。
封印箱の管理名が戻っていく。
そして、水瀬の画面に御影直人の名前が戻った。
水瀬は椅子もないのに座り込みそうになった。
「戻りました……戻りました、御影班長、ちゃんといます」
御影はゆっくりと息を吐いた。
東雲が手を離さない。
「大丈夫ですか」
御影は頷く。
「問題ない」
上原が低く言う。
「それは信用できない」
御影は少しだけ目を細めた。
「そうか」
御影にしては珍しく、そこで言葉を終えた。
白羽は箱の周囲に封札を貼り直している。
「名前を付けたら反応するので、怪異名は報告書にも書かない方がいいです」
水瀬が頷く。
「登録名は甲七三一のまま、通称もなし、音声記録にも残さないようにします」
戸張が刀を納めながら言った。
「名なしのままか」
御影は箱を見た。
「ああ、名を与えないことでしか閉じられないものもある」
鷹宮が静かに言う。
「手を入れた者がいる」
御影は頷いた。
「内部の記録を洗う、だが急ぐな、相手は御影紋の意味を知っている」
水瀬が顔をしかめる。
「かなりまずいですね、それ」
「まずい」
御影ははっきり言った。
その言い方に、全員が少しだけ黙った。
地下7階の保管庫から戻る途中、御影は一度だけ足を止めた。
壁の金属板に、自分の姿が薄く映っている。
いつもと同じ顔。
同じ黒い髪。
同じ目。
だが、一瞬だけ、その顔の輪郭がぼやけた。
東雲が気づく。
「直人さん」
御影はすぐに視線を外した。
「戻っている」
「完全にですか」
「おそらく」
「おそらく、は大丈夫ではありません」
御影は少し黙った。
それから、珍しく素直に言った。
「あとで診てくれ」
東雲は小さく頷いた。
「はい」
解析室に戻る頃には、地下封域の表示はほぼ復旧していた。
水瀬はログを確認しながら、何度も首をひねっている。
「定期点検ログに改ざんがあります、でも改ざんが上手すぎます、普通の職員じゃ無理です、封印術式の知識とシステム権限の両方が必要です」
白羽が嫌そうに言う。
「つまり、内部に詳しい外部の人か、外部と繋がった内部の人ですね」
戸張が椅子に浅く座る。
「どちらにしても気分が悪い」
上原は御影の手元を見ていた。
御影の右手の甲。
そこに、八咫鏡に三つ藤の紋が薄く浮かんでいる。
普段は見えないものだ。
だが今、その藤の一枚だけが、わずかに黒ずんでいた。
上原が言う。
「残ってるぞ」
御影は手を見た。
「ああ」
水瀬が振り向く。
「え、残ってるんですか、見せてください、いや、撮影していいですか、医療記録として」
「撮影はするな」
「ですよね」
東雲が浄化札を取り出す。
「処置します」
御影は頷いた。
白羽は机の端に座り込み、深く息を吐いた。
「御影紋が食われると、こっちの胃が痛くなります」
戸張が言う。
「佐月ちゃん、胃が痛くなるほど食ってないだろ」
「精神的な話です」
水瀬がぼそりと言う。
「私はアカウント名消されたの、地味に嫌でした」
上原が言った。
「戻ったならいい」
「上原さん、そういう問題じゃないです、名前欄が空白になるの、けっこう怖いですよ」
御影はその会話を聞きながら、静かに報告書を開いた。
登録番号、甲七三一。
地下7階封印物保管庫異常事案。
御影紋反転による封印意味改変。
外部干渉の疑い。
怪異名、記載不可。
再封印完了。
関係者ログ、厳重管理。
調査継続。
最後の一文を書く前に、御影の指が少し止まった。
閉じた語りは、消えない。
閉じた者の中に残る。
祖父の声が、ふと耳の奥で蘇る。
怖いと思えるうちは、まだ大丈夫だ。
御影は自分の手の甲に浮いた黒い藤を見た。
怖いか。
そう聞かれれば、答えは簡単だった。
怖い。
だから、まだ大丈夫なのだろう。
彼は報告書に最後の一文を加えた。
御影紋の部分侵食あり。
経過観察。
その頃、霞ヶ関から遠く離れたどこかの部屋で、ひとりの人物が画面を見ていた。
地下封域の映像ではない。
直接の監視などできるはずがない。
ただ、古い紙に写された御影紋が、机の上に置かれている。
八咫鏡に三つ藤。
その横には、反転した紋の試し書きがいくつも並んでいた。
人物は、筆を置いた。
「喰われなかったか」
声は静かだった。
「やはり、御影直人はまだ閉じる側にいる」
机の端には、別の資料がある。
百話到達プロジェクト。
発祥地調査。
御影家系譜。
封異機動班第一班構成。
その人物は、御影家の紋が描かれた紙を、指先で軽く叩いた。
「なら次は、語りそのものを開く」
紙の上で、反転した藤がほんの少しだけ黒く滲んだ。




