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7ノ語 美しくない斬り方

 戸張は、刃物の手入れをしている時だけ、少し静かになる。


 霞ヶ関地下封域の装備室。

 壁際には霊式拳銃、封印杭、護符弾、結界支柱、各家系専用の札具が整然と並んでいる。

 その中央の作業台で、戸張は退魔刀の刃を布で拭いていた。


 刃は、光をよく拾う。


 照明の白さ。

 指先の影。

 作業台に置かれた戸張家の断札。

 月輪に一文字刃の家紋が、刃元に薄く刻まれている。


 上原は少し離れた場所で、霊障防護盾の縁に残った細かい傷を確認していた。

 花子さんの手形は、白羽の札で消えている。

 それでも、盾の表面には微かな曇りが残っていた。


「まだ見てるのか」


 戸張が言った。


 上原は盾から目を離さない。


「傷が残ってる」


「物に執着する男は嫌われるぞ」


「お前が刀を磨きながら言うことか」


 戸張は少し笑った。


「これは執着じゃない、美意識だ」


「似たようなものだ」


 装備室の扉が開いた。


 水瀬が端末を抱え、早足で入ってくる。

 髪は少し乱れていて、メガネの位置もわずかにずれていた。


「戸張さん、上原さん、班長見ませんでした?」


 戸張は刃から目を上げた。


「見てないな、玲央ちゃん」


「ちゃん付けやめてください、あと今ちょっと急ぎです」


 上原が盾をラックへ戻す。


「何があった」


 水瀬は端末を作業台に置き、映像を出した。


 夜の工事現場だった。

 仮囲い。

 重機。

 掘削途中の地面。

 照明塔に照らされた穴の中に、黒い影が立っている。


 人のように見える。


 だが、首がなかった。


 戸張の表情から、軽さが消えた。


「武者か」


「はい、都内の再開発工事現場で作業員2名が負傷、1名が行方不明です、現場は墨田区の旧火除坂周辺、表向きは地下埋設物の事故として封鎖済みです」


 上原が映像を見る。


「首がないな」


「それだけじゃありません、負傷者は全員、首の後ろに浅い切創があります、でも刃物は見つかっていません、それと、現場の掘削穴から大量の人骨が出ています」


 装備室に沈黙が落ちた。


 戸張は、ゆっくりと刀を鞘に戻した。


「処刑場か、戦場跡か」


 水瀬が頷く。


「江戸期の刑場跡、またはその周辺にあった首塚の可能性があります、記録が曖昧です、古地図だと火除地、明治以降に埋め立てと区画整理、戦災後の再整備で場所がかなり動いてます」


 上原が言う。


「班長は」


「今、御影班長と東雲さんは現地封鎖班からの一次報告を確認中です、白羽さんは骨の扱いに必要な封札を準備しています、鷹宮さんはもう映像を見てます」


 戸張は刀袋を手に取った。


「俺の回だな」


 水瀬が少しだけ眉を寄せる。


「軽く言わないでください、今回たぶん、かなり嫌な相手です」


 戸張は笑わなかった。


「わかってる」


 その声がいつもより低かったので、水瀬はそれ以上言わなかった。


 作戦室に入ると、御影が古地図を見ていた。

 東雲は負傷者の霊障記録を確認している。

 白羽は机の上に骨壺用の札と鎮魂札を分けて並べていた。

 鷹宮は椅子に座らず、壁際で映像を見ていた。


 御影が顔を上げる。


「来たか」


 戸張は刀袋を肩にかけたまま言った。


「首なしの武者か」


「その姿をしている」


 水瀬が映像を大きくした。


 掘削穴の中。

 首のない黒い鎧武者が、ゆっくりと歩いている。

 鎧は古い。

 肩の板は割れ、胸当てには土が詰まり、草の根のようなものが絡んでいる。


 手には刀を持っていない。


 ただ、歩くたびに作業員のヘルメットが割れ、照明の支柱が斜めに切断される。


 見えない刃が、現場を横切っていた。


 御影は言った。


「通称、首を探す武者」


 白羽が小さく首を振る。


「嫌な名前です」


 東雲が続ける。


「負傷者は皆、自分の首がずれている感覚を訴えています、実際には浅い傷ですが、本人の認識では“首を落とされた”と思い込んでいる」


 上原が問う。


「行方不明者は」


 水瀬が別の画面を出す。


「作業員の男性、吉成悟、42歳、掘削穴の中で最後に確認、映像では武者の前に立っています、その直後に照明が落ち、姿が消えました、生体反応はありますが、現場の地下ではなく、骨の集積地点に重なっています」


 戸張は静かに聞いていた。


 御影が視線を向ける。


「戸張」


「わかってる」


「今回は斬れば済む相手ではない」


 戸張は少しだけ口元を上げた。


「いつもそう言われてる気がするな」


「今回は特にだ」


 鷹宮が短く言った。


「斬るものを間違えると増える」


 水瀬が説明を足す。


「首を持たない武者の怪異は、全国に似た伝承があります、首塚、落武者、斬首された罪人、戦場跡、討ち取られた武将、その語りが部分的に混ざってます、ただ今回はネット拡散ではなく、工事で掘り返したことによる発症です」


 白羽が札を握る。


「首を探しているんですか」


 鷹宮が答えた。


「違う」


 全員が鷹宮を見る。


「首を探しているように見えるだけだ、本当に探しているのは、切った者だ」


 御影の目が少し細くなる。


「処刑した側か」


「たぶん」


 戸張は刀袋を握り直した。


「つまり、恨みは首じゃなく、斬り方にある」


 御影は頷いた。


「現地へ向かう、黒麒麟を出す」


 黒麒麟は霞ヶ関地下封域を出た。


 上原が運転席。

 水瀬が助手席。

 後部座席には御影、戸張、東雲。

 さらに後ろに白羽と鷹宮、装備ラック。


 車両は桜田通りを抜け、内堀通りへ出た。

 夜の皇居外苑を横目に、祝田橋から晴海通り方面へ流れ、やがて首都高都心環状線へ入る。

 水瀬は助手席で古地図と現代地図を重ねていた。


「現場は旧火除坂再開発地区、表向きは複合施設の建設予定地です、地下構造物調査中に人骨と古い石列が出ました、記録上は移設済みのはずだった首塚が、実際には一部残っていた可能性があります」


 戸張が窓の外を見たまま言う。


「いつの時代も、埋めたことにするのは簡単だな」


 白羽が後ろから言った。


「骨を雑に扱うと、本当に大変なんです」


「佐月ちゃんが怒るくらいだから、相当だな」


「怒りますよ、骨は人だったものですから」


 車内が少し静かになった。


 東雲が言う。


「行方不明の吉成さんは、作業前に現場責任者へ確認を求めていたようです、人骨らしきものが出ているから工事を止めるべきだと」


 水瀬が補足する。


「でも、上には上げられなかったみたいです、工期が押していたので」


 上原の声が低くなる。


「よくある話だ」


 戸張は笑わなかった。


「だから、斬られる側だけ増える」


 御影は静かに言った。


「人の都合で埋められたものが、人の都合で掘り返された、今回はそれだけではないかもしれない」


 水瀬が振り返る。


「班長、例の“語”の痕跡ですか」


「可能性はある」


「今のところ、投稿や誘導は確認できません、ただ、再開発地区の地権者説明会で、誰かが“ここは首塚だった”という資料を匿名で配っていた記録があります、出所不明です」


 戸張が小さく息を吐いた。


「語らせるだけじゃなく、掘らせるか」


 鷹宮が短く言う。


「現地で見ればわかる」


 黒麒麟は一般道へ下り、夜の墨田方面へ向かった。

 スカイツリーの光が、ビルの隙間から見えたり消えたりする。

 工事現場に近づくにつれ、周辺の道路には警備員と現地封鎖班の姿が増えた。


 現場は高い仮囲いに囲まれていた。

 表には、地盤調査に伴う立入禁止の掲示。

 その内側では、照明塔がいくつも立ち、掘削途中の大きな穴を照らしている。


 だが、現場全体が妙に静かだった。


 重機の音はない。

 作業員の声もない。

 夜風だけが、仮囲いのシートを揺らしていた。


 現地封鎖班の隊員が駆け寄る。


「御影班長、対象は現在も掘削穴内にいます、接近した隊員の無線が切断されました、物理的な破損ではなく、音声だけが途中で切られます」


 水瀬が端末を確認する。


「通信の首を落としてるみたいな挙動ですね、嫌すぎます」


 御影は掘削穴を見た。


「吉成氏の反応は」


「穴の北側、骨の集積地点と重なっています、ただし視認できません」


 東雲が医療キットを持つ。


「生きているなら急ぎます」


 白羽が鎮魂札を取り出した。


「でも骨を踏まないでください、そこから順番に怒られます」


 上原が盾を構え、前に出る。


「俺が先に入る」


 戸張がその横に並んだ。


「今回は俺が前だ」


 上原が戸張を見る。


「見えない刃がある」


「だから俺だ」


 戸張は刀袋から退魔刀を抜いた。


 刃が夜の照明を拾う。


「刃の相手は、刃を知ってる奴が見る」


 上原は少しだけ黙り、頷いた。


「無理はするな」


「直城に言われると重いな」


「うるさい」


 御影が言う。


「戸張、斬る判断は俺が出すまで待て」


「了解」


 掘削穴へ降りる仮設階段は、途中から濡れていた。

 雨は降っていない。

 だが、土の匂いと鉄の匂いが混ざった湿気が、穴の底から上がってくる。


 穴の底には、いくつもの骨が見えていた。

 現地封鎖班が布で覆っているが、完全には隠しきれていない。

 白羽は顔をしかめながら、一歩ずつ慎重に降りた。


「ここ、歩く場所を間違えるとまずいです」


 鷹宮が指を差す。


「右、空いてる」


 上原が足場を確認し、全員を誘導する。


 その時だった。


 照明のひとつが、音もなく切断された。


 支柱が斜めにずれ、ゆっくり倒れる。


 上原が盾を出した。


「下がれ」


 支柱が盾にぶつかり、鈍い音がした。


 次の瞬間、戸張が刀を横へ払った。


 何もない空間で、金属音が鳴る。


 水瀬が息を呑む。


「見えない刃、受けたんですか」


 戸張は刃を見た。


 薄い傷がついている。


「美しくないな、刃筋が荒い」


 穴の奥に、首のない武者が立っていた。


 映像よりも大きく見えた。

 首がないせいで、人の形なのに人ではない。

 兜もない。

 空っぽの首元から、黒い土のようなものがこぼれている。


 手には何も持っていない。


 だが、周囲の空気に、いくつもの刃が浮いているようだった。


 御影が静かに言う。


「対象確認」


 白羽が札を構える。


「骨の上に立ってます、あそこでは封じにくいです」


 東雲が周囲を見る。


「吉成さんの反応は、あの後ろです」


 鷹宮が目を細める。


「首のない武者の足元、その下にいる」


 上原が盾を構え直す。


「掘るか」


「今掘ったら斬られます」


 戸張が前へ出た。


「俺が寄る」


 御影が低く言う。


「待て」


 首のない武者が動いた。


 歩く。

 一歩。

 そのたびに、周囲の鉄パイプが切れる。

 養生シートが裂ける。

 仮設灯のコードが落ちる。


 刃が見えない。


 戸張はその場で刀を構え、目を細めた。


 音。

 空気の歪み。

 土埃の流れ。

 切れる前のわずかな沈黙。


 美しい刃なら、筋がある。

 だが、これは違う。


 乱れている。

 恨みのままに振られている。

 刃ではなく、斬られた記憶そのものが暴れている。


 戸張は一歩踏み込んだ。


 見えない刃が、首元を狙ってくる。


 戸張は刀で受けた。


 火花が散る。


 上原が言う。


「戸張」


「見えてる」


「嘘だな」


「少しだけな」


 戸張は笑った。


 だが、額には汗が滲んでいた。


 白羽が骨の周囲に札を置こうとする。

 その瞬間、札が真っ二つに裂けた。


「札まで斬りますか」


 水瀬が端末を見ながら言う。


「霊障圧、上昇、対象の攻撃範囲が広がってます、あと変な反応があります、武者の首元じゃなくて、穴の南側に強い核反応」


 鷹宮がそちらを見る。


「刀だ」


 御影が問う。


「埋まっているのか」


「折れた刀、たぶん処刑に使われたものだ」


 戸張が武者の刃を受けながら言った。


「そっちが本体か」


 鷹宮は首を振る。


「本体ではない、傷口だ」


 東雲が理解したように言う。


「斬られた側ではなく、斬った道具に記憶が残っている」


 御影は頷いた。


「戸張、聞こえたか」


「聞こえた、最悪だな」


 水瀬が叫ぶ。


「吉成さんの反応、弱くなってます!」


 土の下から、かすかな呻き声が聞こえた。


「……誰か」


 東雲が走り出そうとする。


 上原が盾で見えない刃を受けた。


「今だ、行け」


 東雲は穴の北側へ走る。

 白羽がその足元へ札を投げ、踏んではいけない骨の位置を光で示した。


「そこ避けてください、右、次左です」


 東雲は札の光を辿り、骨の集積地点のそばで膝をつく。


「吉成さん、聞こえますか」


 土の下から、かすかな声がする。


「……首が」


「首はあります、あなたは生きています」


「落ちた、見た、俺の」


「それは見せられているだけです」


 東雲は手袋を外し、土に触れた。

 冷たい。

 それなのに、血の熱のようなものが奥に残っている。


「上原さん、ここを開けます」


「了解」


 上原が来ようとした瞬間、武者が動いた。


 見えない刃が、東雲へ向かう。


 戸張が割って入った。


 受けるには間に合わない。


 綺麗に斬れば、刃同士が噛み合う。

 だが、相手の刃筋は乱れている。

 正面から合わせれば、東雲へ抜ける。


 戸張は、刀の柄でそれを受けた。


 嫌な音がした。


 刀ではない。

 柄。

 美しくも何ともない受け方。


 戸張の手首に痛みが走る。


 東雲が振り返る。


「戸張さん」


「見るな、掘れ」


 戸張は奥歯を噛んだ。


 自分でも嫌になるくらい、雑な受けだった。

 だが、東雲には届いていない。


 上原が東雲の横へ入り、盾で周囲を押さえる。

 白羽が鎮魂札を骨の周りに置く。


 土の中から、作業員の腕が見えた。


 東雲がその手を握ろうとする。


 御影が止めた。


「素手で握るな」


 東雲は頷き、護符包帯を巻いてから手を取る。


「吉成さん、名前を言ってください」


「……吉成、悟」


「戻ります」


 上原が土を払う。

 吉成の体が、ゆっくりと掘り出される。

 首の後ろには、浅い切創があった。


 その傷から、黒い糸が武者へ伸びている。


 戸張が言う。


「縁か」


 鷹宮が答える。


「違う、首実検だ」


 水瀬が顔をしかめる。


「首実検って、討ち取った首を確認するやつですよね」


 御影が低く言った。


「吉成氏を、斬られた者として認定しようとしている」


 戸張は刀を握り直した。


「なら、その確認を斬る」


 御影はまだ首を振る。


「待て、切れば吉成氏の認識が切れる」


「じゃあどうする」


 御影は武者を見る。


 首のない武者は、吉成を見ているようだった。

 首がないのに、確かに見ている。


 その視線は、恨みではない。


 探している。

 誰が斬ったのか。

 誰が命じたのか。

 誰が埋めたのか。

 誰がなかったことにしたのか。


 御影は言った。


「斬った者を示す」


 水瀬がすぐに南側の地中をスキャンする。


「折れた刀、深度1・2メートル、重機で掘るには危険です」


 上原が言う。


「俺が開ける」


 白羽が慌てる。


「待ってください、そこ骨が近いです、雑にやったら怒られます」


 戸張が武者と向き合ったまま言う。


「佐月ちゃん、道を作れ」


「作ってます!」


 白羽は札を連続で投げた。

 骨を避け、折れた刀までの細い道を示す。

 上原は盾を地面に立て、護符プレート付きのガントレットで土を掻き分けた。


 見えない刃が上原へ向かう。


 戸張が止める。


 今度は刀で受けず、体をずらし、刃を地面へ落とすように誘導した。

 美しい受けではない。

 泥が跳ね、袖が裂ける。


 戸張は舌打ちした。


「本当に美しくない」


 御影が言う。


「美しくなくていい」


 戸張は少しだけ笑った。


「班長に言われると腹が立つな」


 上原が土の中から何かを掴んだ。


「出た」


 折れた刀だった。


 錆びて、刃は半ばから失われている。

 柄の部分には、黒く変色した布が巻かれていた。


 その瞬間、首のない武者が動きを止めた。


 空気が重くなる。


 水瀬の端末が警告を鳴らす。


「霊障圧、最大、来ます!」


 武者の周囲に、無数の刃が浮かび上がった。

 見えないはずの刃が、今だけ黒い線として見える。


 それは、きれいな刀ではなかった。


 斧。

 鋸。

 折れた刃。

 欠けた刀。

 首を落とすためだけの、乱暴な道具。


 戸張の顔から、完全に笑みが消えた。


「処刑じゃない、処分だな」


 御影が御影札を取り出す。


「人として斬られなかった者たちか」


 東雲が吉成を支えながら言う。


「名前も、弔いも、残されなかった」


 白羽は鎮魂札を握った。


「だから、首がない」


 武者が、折れた刀へ手を伸ばす。


 上原が盾で遮る。


「渡すのか」


 御影は答えた。


「そのまま渡せば、また斬る」


 戸張が前に出た。


「なら、俺が斬る」


 御影は戸張を見る。


「何を斬る」


「刀の役目だ」


 首を落とすための刀。

 命令で振られ、記録から消され、土の中で錆びた道具。

 それがまだ、斬る役目を持っている。


 戸張は折れた刀の前に立った。


 首のない武者が迫る。

 無数の刃が一斉に動く。


 戸張は退魔刀を構えた。


 本当なら、もっと美しく斬りたかった。

 刃筋を合わせ、無駄なく、静かに。

 そういう斬り方を、自分は好む。


 だが、これは違う。


 相手は美しく斬られなかった。

 きれいな死に方など、与えられなかった。

 なら、こちらだけが美しい斬り方を選ぶのは違う。


 戸張は刀を逆手に持ち替えた。


 上原が眉を動かす。


「龍一」


「わかってる」


 戸張は、折れた刀を刃で斬らなかった。


 柄頭で叩きつけた。


 鈍い音がした。


 もう一度。


 刀の美しさも、刃筋も関係ない。

 土に膝をつき、泥を浴び、柄で折れた刀の役目を砕く。


 戸張は低く言った。


「こんなもので、人を終わらせるな」


 折れた刀に亀裂が入った。


 首のない武者が、初めて揺れた。


 御影が札を掲げる。


「御影紋、開帳」


 八咫鏡に三つ藤の紋が、掘削穴の底に浮かび上がる。

 鏡は、武者の正体を映した。


 そこにいたのは、ひとりの武者ではなかった。


 縄をかけられた者。

 膝をつかされた者。

 名を呼ばれなかった者。

 罪状すら曖昧なまま斬られた者。

 弔われず、移されず、掘り返されるまで土の下にいた者たち。


 首のない武者は、彼らの怒りを背負った形だった。


 白羽が震える声で言う。


「鎮魂札、置きます」


 東雲が吉成の傷に札を貼った。


「あなたは、斬られた者ではありません、戻る人です」


 吉成の首の後ろから伸びていた黒い糸が薄くなる。


 戸張は最後にもう一度、柄頭を振り下ろした。


 折れた刀が砕けた。


 美しくない音がした。


 だが、その音が響いた瞬間、無数の刃が消えた。


 首のない武者は、戸張の前に立っていた。


 斬りかかってこない。

 ただ、首のないまま、折れた刀の欠片を見下ろしている。


 戸張は息を整えた。


「斬った奴はもういない、命じた奴も、埋めた奴も、逃げた奴もな」


 武者は動かない。


「だが、これ以上、関係ない奴の首を取るな」


 言葉として正しいかどうかは、わからなかった。

 でも、戸張はそう言った。


 御影が静かに続ける。


「名を戻す、骨を分け、弔い直す、この場所は閉じる」


 白羽が鎮魂札を骨の周囲に置く。


「首塚として、もう一度場所を作ります、順番に、ひとつずつ、雑には扱いません」


 東雲が吉成を支えながら言った。


「生きている人は、戻します」


 首のない武者の体が、少しずつ土へ戻っていく。


 鎧が崩れ、泥になり、黒い影が骨の周囲へ沈む。

 最後まで首は戻らなかった。


 けれど、消える直前、武者は戸張へ向けて、わずかに刀を下げるような仕草をした。


 刀は持っていない。


 それでも戸張には、礼のように見えた。


 武者は消えた。


 掘削穴に、ようやく工事現場の音が戻ってくる。

 風の音。

 仮囲いのシートが揺れる音。

 遠くの道路を走る車の音。


 水瀬が端末を見る。


「霊障反応、低下、吉成さんの生体反応安定、現場全体の斬撃反応も消えています」


 東雲が吉成の脈を確認する。


「救急搬送できます」


 上原が現地封鎖班を呼ぶ。


「担架を」


 白羽は骨の前に膝をつき、鎮魂札を一枚ずつ置いていた。


「これは、時間がかかります」


 御影は頷いた。


「工事は止める、現地は埋蔵人骨の調査と慰霊手続きで封鎖、表向きもそれでいい」


 水瀬が少し驚いたように顔を上げる。


「隠さないんですか」


「完全には隠せない、それに今回は隠すことが再発になる」


 戸張は泥のついた刀の柄を見ていた。


 刃ではなく、柄が汚れている。


 上原が横に来る。


「珍しいな」


「何が」


「汚した」


 戸張は苦笑した。


「最悪だ、柄で叩くなんて」


「助かった」


「美しくないだろ」


 上原は少しだけ考えた。


「必要だった」


 戸張は上原を見た。


 それから、小さく笑った。


「お前は時々、褒め方が下手すぎる」


「褒めてない」


「なお悪い」


 東雲が近づき、戸張の手首を見る。


「痛めていますね」


「大したことない」


「その言い方は信用できません」


「今日はみんな、そればかりだな」


 東雲は戸張の手首に護符包帯を巻いた。


「きれいに斬らない方がいい時もあります」


 戸張は視線を落とす。


「そういうのは、直城の役目だと思ってた」


 上原が言う。


「俺は斬らない」


「知ってる」


 戸張は泥に汚れた柄を布で拭った。

 落ちきらない汚れが、少しだけ残った。


 その日の夜、旧火除坂再開発地区の工事は全面的に停止された。

 表向きには、埋蔵人骨の発見と安全確認のため。

 現場には仮設の慰霊所が設けられ、専門機関による調査が入ることになった。


 怪異の名は、公表されない。


 だが、現地で働いていた作業員たちの間には、すぐに噂が広まった。


 あの穴には、首のない武者が出た。

 見えない刀で、鉄骨を斬った。

 でも、黒い服の男たちが来て、何かを鎮めた。


 噂は、完全には止められない。


 それでも、水瀬が監視した限り、動画や写真はほとんど残っていなかった。

 現場が地下で、封鎖が早かったこともある。

 何より、そこにいた作業員たちは、面白がって広める気になれなかったのだろう。


 黒麒麟は、深夜の墨田区を離れ、首都高へ向かった。


 車内は静かだった。


 水瀬は助手席で報告書の下書きをしている。

 白羽は後部で札の残数を確認しながら、珍しく何も喋らない。

 東雲は戸張の手首の状態を見て、追加の処置が必要か考えている。

 鷹宮は窓の外を見ている。

 上原はいつも通り、無言で運転していた。


 御影が戸張に言った。


「今回は、お前でなければ止められなかった」


 戸張は窓に映る自分の顔を見た。


「美しくなかったけどな」


「必要な斬り方だった」


 戸張は少しだけ黙った。


 そして言った。


「それ、直城にも言われた」


 御影がわずかに目を細める。


「なら、そういうことだ」


 水瀬が助手席から振り返る。


「戸張さん、今日かっこよかったですよ、泥だらけでしたけど」


「玲央ちゃん、それは褒めてるのか」


「かなり褒めてます」


「なら、ちゃん付けは許してくれるか」


「それは別です」


 白羽が小さく笑った。


 車内に、少しだけ空気が戻る。


 御影は報告書に最後の一文を加えた。


 B級伝承怪異。

 通称、首を探す武者。

 旧火除坂再開発地区発症事案。

 行方不明者救出。

 折刀破砕。

 人骨調査および慰霊手続きへ移行。

 残存語り、監視継続。


 黒麒麟は、夜の都心へ戻っていく。


 その頃、旧火除坂の工事現場では、封鎖された掘削穴の底に、小さな布が一枚落ちていた。


 戸張が折れた刀の柄から剥がした、黒く変色した布だった。


 風もないのに、それがわずかに動く。


 近くにいた現地封鎖班の隊員が、懐中電灯を向けた。


 布の下には、泥で半分隠れた文字があった。


 誰かが新しく書いたものではない。

 古い木札の欠片に、墨で残された名前だった。


 隊員は無線を取る。


「追加で木札を発見、名前らしき文字があります」


 少しの沈黙の後、御影の声が返った。


「回収するな、その場で保全しろ、白羽を戻す」


 隊員は木札を見下ろした。


 泥の中に残ったその名前は、首を失った誰かが、ようやく取り戻したもののように見えた。


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