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6ノ語 水辺の呼び声

 水辺では、名前を呼ばれても返事をしてはいけない。


 昔から、そう言われていた。


 川。

 池。

 用水路。

 ため池。

 学校の近くにある小さな水路。

 夏になると子どもたちが遊びに行きたがる場所。


 そこには、いくつもの話があった。


 川には河童がいる。

 池には主がいる。

 水神様に失礼なことをしてはいけない。

 夕方、水辺で名前を呼ばれたら、振り向いてはいけない。

 水の中から手が出たら、握ってはいけない。

 お盆の頃に水辺へ行くと、帰ってこられなくなる。


 大人たちは、危ないから近づくなという意味で語った。

 子どもたちは、怖い話として覚えた。

 そして今の子どもたちは、そこにスマートフォンを向ける。


 東京都内の架空名称、浅波川親水公園。


 昼間は、散歩をする人や小さな子ども連れで賑わう場所だった。

 浅い水辺が整備され、石段があり、夏には足を水に浸して遊ぶ子どもも多い。

 川沿いには遊歩道が続き、近くには住宅街と小学校がある。


 だが、地元では昔から、夕方以降は水辺に近づくなと言われていた。


 浅波川には、呼ぶ声がある。


 名前を呼ばれて返事をすると、水の中から誰かが手を伸ばす。

 その手を取ると、川底へ引かれる。

 助けようとして入った者も、同じように沈む。


 子どもたちの間では、それは河童の話になっていた。

 祖父母世代には、水神様の話として残っていた。

 そして数年前からは、溺れた子の声だと言われるようになっていた。


 その夕方、親水公園にいた小学3年生の男の子は、川の中から自分の名前を呼ばれた。


「悠斗」


 最初は、友達が呼んだのだと思った。


 男の子は水辺の石段に座り、靴を脱いでいた。

 友達は少し離れた場所で、スマートフォンを持って動画を撮っている。


「悠斗」


 もう一度、声がした。


 水の中からだった。


 川は浅い。

 膝下くらいしかない。

 底の石も見えている。


 けれど、水面の奥に、黒い影があった。


 男の子は覗き込んだ。


 水の中に、誰かの顔が見えた。


 同じくらいの年の子ども。

 濡れた髪。

 白くふやけたような頬。

 こちらを見上げている。


「悠斗、こっち」


 男の子は返事をしてしまった。


「なに?」


 水面から、手が出た。


 細く、小さな手だった。


 友達が叫んだ。


「触るな!」


 だが、遅かった。


 男の子の足首に、水の中から別の手が絡みついた。

 浅いはずの川が、急に深くなったように見えた。

 水面が黒く沈み、石段の下に穴が開いたように渦を巻く。


 友達は動画を撮ったまま、泣きながら叫んでいた。


 その映像には、男の子が水に引き込まれる瞬間が残っていた。


 ただし、水は膝ほどの深さしかない。


 男の子の体は、まるで床の下へ落ちるように、水面の下へ消えた。


 動画の最後に、川の中から声がした。


「次は、だれ?」


 霞ヶ関地下封域に通報が入ったのは、午後5時42分だった。


 東雲は霊障医療室で、搬送されてきた別件の現地隊員の処置を終えたばかりだった。

 濡れた護符包帯を外し、鎮札を貼り替え、霊障値が下がったことを確認してから、ようやく息をつく。


 そこへ、水瀬の声が館内通信で響いた。


「第一班、緊急招集です、浅波川親水公園で児童1名が水中消失、現地封鎖班が救助に入りましたが、隊員1名に呼名反応、もう1名が足首を掴まれています」


 東雲は手を止めた。


 水辺。

 児童。

 呼名反応。


 彼女はすぐに医療キットを閉じ、浄化札と鎮魂鈴を腰に下げた。


 解析室では、水瀬がすでに動画を解析していた。


 御影、上原、戸張、白羽、鷹宮も集まっている。

 モニターには、夕方の川と、泣き叫ぶ子どもの映像が映っていた。


 水瀬は振り返らずに言った。


「浅波川親水公園で児童1名が消失、名前は森下悠斗、9歳、現時点で生体反応はあります、ただし位置が水中ではなく、川底の下に出ています」


 御影が静かに聞く。


「川底の下?」


「はい、物理的にはありえません、水深は最大でも40センチ、でも霊障測定では地下3メートル相当の深度に反応があります、あと、川沿い一帯に古い水神信仰と河童伝承、それに過去の溺水事故の記録が混ざっています」


 東雲がモニターに近づいた。


 映像の中で、男の子が水へ引き込まれる。

 その足首に絡んでいる手は、子どものものに見えた。


「生存反応は弱いですか」


「まだ強いです、ただし呼吸状態が不安定、普通の溺水とは違って、肺に水が入っている反応と入っていない反応が交互に出ています」


 東雲の表情が少し険しくなる。


「水の中にいるのではなく、水の記憶に沈められているのかもしれません」


 戸張が腕を組んだ。


「水の記憶?」


 東雲は答える。


「溺れた場所には、助けを求めた声が残ることがあります、それが呼び声になって、今いる子を引っ張る」


 白羽が札束を確認しながら言った。


「河童、水神、溺死者、混ざってますね、嫌な混ざり方です」


 上原が短く言う。


「救助対象がいるなら急ぐ」


 御影は頷いた。


「分類は」


 水瀬が画面を切り替える。


「B級伝承怪異、ただし児童消失中のためA級相当対応、現地の語りが多層化しています、昔は水神様の禁忌、昭和後期には河童、近年は溺れた子の声として語られています」


 鷹宮は映像を見たまま、低く言った。


「手じゃない」


 御影が振り返る。


「何が見える」


「水面だ、手は水面が作っている」


 東雲は頷く。


「本体は、水そのものに近いですね」


 水瀬が地図を出す。


「移動は霞ヶ関から桜田通り、内堀通り、霞が関入口から首都高都心環状線、そこから6号向島線方面、隅田川沿いを抜けて一般道へ入ります、現場名の浅波川親水公園は架空名称です、実在の川沿い親水公園をモデルにしますが、固有名は出しません」


 御影が指示する。


「黒麒麟を出す、東雲」


「はい」


「今回はお前が中心だ、救助対象の意識をこちら側へ戻せ」


 東雲は静かに頷いた。


「戻します」


 黒麒麟は霞ヶ関地下封域を出た。


 上原が運転席に座り、水瀬が助手席で端末を展開する。

 後部座席には御影、戸張、東雲。

 さらに後ろに白羽と鷹宮、装備ラック。

 東雲の足元には、霊障医療キットと護符包帯、鎮魂鈴が置かれていた。


 黒麒麟は桜田通りを抜け、内堀通りへ出る。

 夕方の霞ヶ関はまだ車が多く、ビルの窓に低い陽が反射していた。

 霞が関入口から首都高へ入り、都心環状線を回って6号向島線方面へ向かう。


 水瀬は助手席から後部へ振り返った。


「ブリーフィングします、今回の怪異は水辺の伝承が複合化しています、河童、水神、溺死者の霊、そして“名前を呼ばれて返事をすると引かれる”という呼名型のルールです」


 戸張が言う。


「名前を呼ばれたら返事をするな、か」


「はい、ただし今回は子どもの名前を呼んできます、自分の名前を呼ばれると、どうしても反応しやすいです、特に友達や家族の声に似せてくる可能性があります」


 東雲は医療キットの中身を確認しながら言った。


「呼ばれた側は、自分が助けられると思ってしまうかもしれません」


「そうです、最初の映像では“悠斗、こっち”と呼んでいます、誘うというより、知っている相手が呼んでいるように聞こえる」


 白羽が札を整えながら言う。


「水場は札が流されるので嫌いです」


 水瀬が少しだけ振り返る。


「今回は防水札ですよね?」


「あります、でも濡れるのは嫌です」


 戸張が笑う。


「白羽ちゃんにも苦手分野があるんだな」


「水辺で札を貼るのが得意な封札師なんて、たぶん性格が変です」


「なかなかの偏見だ」


 上原が前を見たまま言う。


「現地まで」


「あと18分です、ただ、親水公園周辺に野次馬が増えています、子どもが消えたという話が近隣で広まり始めました」


 御影が言う。


「水瀬、拡散遮断」


「やっています、ただ今回は動画より現地の口コミが早いです、近所の保護者連絡網と地域SNSで広がっています」


 東雲が顔を上げる。


「消えた子の家族は?」


「母親が現場へ向かっています、父親は勤務先から移動中、現地封鎖班が保護予定です」


 御影は少し考えた。


「家族の声を怪異が使う可能性がある、接触は東雲が管理しろ」


「はい」


 鷹宮が窓の外を見ていた。


「川が近い」


 水瀬が端末を見る。


「まだ現場まで距離ありますけど」


「水の線が伸びている」


 その直後、黒麒麟の車内に水音が響いた。


 ぽちゃん。


 誰も何も言わなかった。


 ぽちゃん。


 足元に、水たまりができている。


 東雲の靴の先に、小さな水面が広がっていた。

 車内に水が入るはずがない。

 だが、床の上で水が揺れている。


 その水面から、声がした。


「真白さん」


 水瀬が息を呑んだ。


 東雲は動かなかった。


 声は続く。


「真白さん、こっち」


 それは、水瀬の声に似ていた。


 助手席の水瀬が青ざめる。


「私じゃないです」


 東雲は静かに答えた。


「わかっています」


 水面から、白い指が出た。


 上原がブレーキを踏みかける。


 御影が言う。


「止まるな、上原」


「了解」


 黒麒麟は走り続ける。


 東雲は鎮札を取り出し、水たまりの端へ置いた。


「私を呼んでも、私は行きません」


 水面が揺れる。


「真白さん」


 今度は白羽の声に似ていた。


「助けてください」


 白羽が顔を強張らせる。


 東雲は水面を見たまま言った。


「助けが必要なら、こちらへ来なさい、私は水の中へは入りません」


 水たまりから伸びた指が止まる。


 東雲は続ける。


「呼ぶのではなく、戻りなさい」


 鎮札が青白く光り、水たまりが蒸発するように消えた。


 水瀬が息を吐く。


「車内干渉、消えました、今の、東雲さん狙いですか」


 御影が答える。


「救える者を先に引き込もうとした」


 東雲は静かに医療キットを閉じる。


「なら、まだ悠斗さんは戻せます」


 黒麒麟は首都高を下り、川沿いの道路へ入った。

 夕方の空は青黒く沈み始め、街灯が水面に細く伸びている。

 浅波川親水公園の周辺には、警察車両に偽装した現地封鎖班の車両が数台停まっていた。

 表向きは水難事故と安全確認。

 公園入口には規制線が張られ、近隣住民が不安そうに見ている。


 黒麒麟が止まると、現地封鎖班の隊員が駆け寄った。


「御影班長、救助に入った隊員1名が足首を掴まれ、現在も岸で固定中です、もう1名は呼び声に反応しかけましたが、こちらで拘束しています」


 御影が頷く。


「水辺へ近づく者を下げろ、名前を呼ばれても返事をするなと伝達、ただし怪異名や対処法として外へ出すな」


「了解」


 東雲はすぐに岸へ向かった。


 親水公園の石段では、現地封鎖班の隊員がひとり、仰向けに倒れていた。

 足首から先が水に入っている。

 浅い水なのに、その足だけが深く沈んで見えた。


 上原が盾を持って前に出る。


「引き上げるか」


 東雲は隊員の顔を見る。


 呼吸は浅い。

 目は開いているが、焦点が合っていない。


「無理に引くと、足だけではなく意識が残ります」


「どうする」


「先に名前を戻します」


 東雲は隊員の胸元の名札を見る。


「坂下さん、聞こえますか、あなたは岸にいます、浅波川親水公園の石段にいます、水の中ではありません」


 隊員の唇が動く。


「……母さんが」


 東雲は穏やかに言う。


「その声は、お母様ではありません」


「呼んでる」


「呼ばれても、返事はしないでください」


 水面が揺れた。


 隊員の足首を掴んでいたものが、水の中で動く。

 小さな手だった。

 子どもの手に見える。


 だが、その手の指の間には、水かきのような膜があった。


 白羽が顔をしかめる。


「河童の形を借りてますね」


 鷹宮が水面を見て言った。


「借りているだけだ」


 東雲は護符包帯を隊員の足首に巻いた。


「上原さん、私が合図したら、ゆっくり引いてください」


「了解」


 東雲は鎮魂鈴を一度だけ鳴らした。


 りん。


 水面が震える。


「坂下さん、名前を言ってください」


「……坂下、健司」


「もう一度」


「坂下健司」


「はい、戻ります」


 東雲が護符包帯を引いた。


「今です」


 上原が隊員の肩を掴み、ゆっくりと岸側へ引く。

 水の中の手が抵抗する。

 足首に絡む指が増える。


 上原の腕に力が入る。


「重い」


 戸張が横から言う。


「手を斬るか」


 東雲がすぐに答える。


「だめです、掴んでいるのは手の形をした水です、斬っても増えます」


 白羽が水際に札を打つ。


「なら、水際を閉じます」


 札は濡れた石に貼りつき、青白く光った。

 水の手が一瞬だけ弱まる。


 東雲は隊員の額に鎮札を貼る。


「坂下さん、岸です、水の中ではありません」


 上原が一気に引き上げた。


 隊員の足が水から抜ける。


 足首には、赤い手形がいくつも残っていた。


 水瀬の声がインカムに入る。


「救助隊員の霊障反応、低下、ただし水中側の反応が増えています、悠斗くんの反応、川の中央付近に移動」


 御影が川を見る。


 浅い川の中央に、黒い円ができていた。


 水がそこだけ深い。

 底が見えない。

 黒い穴のように、夕方の空を吸い込んでいる。


 水面から声がした。


「悠斗」


 その場にいた全員が動きを止める。


 声は、悠斗本人の声だった。


 続いて、別の声。


「お母さん」


 規制線の向こうで、女性が叫んだ。


「悠斗!」


 母親だった。


 現地封鎖班が止めるより早く、彼女は規制線をくぐろうとした。


 御影が言う。


「止めろ」


 上原がすぐに前へ出た。

 母親の前に立ち、低い声で言う。


「ここから先は危険です」


「息子がいるんです、どいてください!」


 川から、悠斗の声がする。


「お母さん、こっち」


 母親の表情が崩れた。


「悠斗!」


 東雲が上原の横へ来た。


「お母さん、私の声を聞いてください」


「離してください、悠斗が呼んでるんです!」


「呼んでいる声は、本物とは限りません」


「でも、悠斗の声です!」


 東雲は母親の肩に手を置いた。


「だから危険なんです」


 母親は泣きながら東雲を見る。


 東雲はゆっくりと言った。


「お母さんの声は、悠斗さんを戻すために必要です、でも、川へ向けて返事をしてはいけません、こちらから、私の合図で名前を呼んでください」


 母親は震えながら頷いた。


 御影が東雲を見る。


「いけるか」


「家族の声で、本人をこちら側に固定します」


 水瀬が黒麒麟横で端末を操作する。


「悠斗くんの反応、川底下2・8メートル、移動しています、でも呼名反応で一瞬浮きます、東雲さん、タイミング合わせます」


 白羽が水辺に札を並べる。


「水際封印、組みます、ただし川全体は閉じられません、親水公園の範囲だけです」


 戸張が刀を抜く。


「縁はどこだ」


 鷹宮が川を見た。


「声と足首、二本ある」


「なら、二本斬る」


 鷹宮は首を振る。


「足首は斬るな、沈む」


 東雲が言う。


「声の縁だけお願いします、足首は私が戻します」


 戸張は軽く息を吐いた。


「了解、今日は医者の指示に従う」


「医者ではありません、霊障治療です」


「似たようなものだ」


 東雲は川の黒い円の前に膝をついた。


 水面から、無数の声が聞こえ始める。


「悠斗」


「健司」


「真白」


「佐月」


「直城」


「玲央」


「龍一」


 全員の名前だった。


 水瀬が顔を強張らせる。


「名前、拾われてます」


 御影が言う。


「誰も返事をするな」


 水の中から、今度は子どもの声が重なる。


「遊ぼう」


「こっち」


「冷たくないよ」


「見つけて」


「助けて」


 東雲は目を閉じた。


 いくつもの声がある。

 溺れた子。

 川に近づくなと言われた子。

 水神への供え物を忘れた人。

 河童の話を聞いて育った子ども。

 水辺で泣いた誰か。

 助けを求めたまま届かなかった声。


 それらが混ざって、呼び声になっている。


 東雲は鎮魂鈴を鳴らした。


 りん。


「私は、あなたたち全員を連れて帰ることはできません」


 水面がざわつく。


 りん。


「でも、今沈んでいる子は、まだ戻せます」


 黒い円の中で、白い手がいくつも伸びる。

 子どもの手。

 老人の手。

 水かきのある手。

 泥に汚れた手。


 そのすべてが、悠斗を掴んでいるように見えた。


 母親が泣きながら口を押さえる。


 東雲は母親に言った。


「私が合図したら、名前を呼んでください、返事を求めるのではなく、帰る場所を教えるように」


 母親は震える声で言う。


「はい」


 水瀬がカウントする。


「反応、浮きます、3、2、1、今です!」


 東雲が言う。


「呼んでください」


 母親が叫んだ。


「悠斗、帰ってきて!」


 黒い水面が大きく揺れた。


 水の中から、悠斗の手が出た。


 だが、その手をつかんではいけない。

 水の怪異は、手を取らせることでこちらを引き込む。


 東雲は護符包帯を投げた。


 包帯が悠斗の手首に巻きつく。


「森下悠斗さん、あなたは水の中の子ではありません、浅波川親水公園に来た、9歳の男の子です」


 水の奥から声がした。


「でも、呼ばれた」


「返事をしてしまっただけです」


「手を取った」


「間違えただけです」


「帰れる?」


 東雲の声は、揺れなかった。


「帰れます」


 水面が盛り上がる。


 悠斗の顔が見えた。

 青ざめている。

 目は閉じている。

 だが、息はある。


 その背後から、何かが現れた。


 子どものような形。

 背中の丸い影。

 頭の皿のようなもの。

 しかし顔はなく、全身が水でできている。


 河童の形をした、水の塊。


 白羽が叫ぶ。


「形が来ます!」


 上原が盾を構える。


 水の河童が、悠斗を引き戻そうとする。

 細い腕がいくつも伸び、護符包帯に絡む。


 上原が川へ一歩入った。


 水深は浅い。

 だが、彼の足元だけが沈む。


 水瀬が叫ぶ。


「上原さん、それ以上入ると引かれます!」


「わかってる」


 上原は盾を水面に叩きつけた。


 岩楯に鎮め縄の紋が青白く光り、黒い円の広がりを押し返す。


「こっちだ、後ろには行かせない」


 水の手が上原の盾に殺到する。


 戸張が横へ走った。


「声の縁、見えた」


 鷹宮が短く言う。


「右じゃない、下だ」


 戸張の刃が、水面すれすれを走る。

 悠斗の名前を呼ぶ声と、水底を結ぶ細い糸が切れた。


 水面から、いくつもの声が上がる。


「どうして」


「置いていくの」


「一緒に」


 東雲は護符包帯を両手で握った。


「置いていきません」


 彼女は鎮魂鈴を鳴らす。


「でも、連れていかせません」


 水の河童が東雲へ向かって口を開けた。


 声が出る。


「真白さん」


 東雲の表情が一瞬だけ変わった。


 それは、水瀬の声だった。

 疲れた時に甘えるような、少し情けない声。


「真白さん、助けて」


 水瀬が叫ぶ。


「私じゃないです!」


 東雲は目を閉じた。


「知っています」


 彼女は水の河童を見据える。


「その声を、勝手に使わないでください」


 鎮札を水面へ投げる。


 札が水に沈まず、表面に浮いたまま光った。


「水に残った声を、返します」


 東雲は母親に言う。


「もう一度です」


 母親が叫ぶ。


「悠斗、帰ってきて!」


 悠斗の体が水面から半分出る。

 東雲が護符包帯を引く。

 上原が盾で黒い円を押さえる。

 戸張が声の縁を斬る。

 白羽が水際の札を結び、鷹宮が核を見抜く。


 鷹宮が言った。


「核は子どもじゃない、石だ」


 御影が問う。


「どこだ」


「川底、親水階段の下、古い祠石」


 水瀬が地図を重ねる。


「ありました、ここ、昔は水神祠があった場所です、親水公園整備の時に撤去記録があります、でも基礎石だけ残ってる」


 御影が頷く。


「水神の場所に、溺水の語りと河童が重なった」


 白羽が言う。


「祠石を封じ直せば、水の入口を閉じられます」


 御影は御影札を取り出した。


「鷹宮、位置を示せ」


 鷹宮は水面を見たまま指を向ける。


「そこだ」


 御影は川へ札をかざした。


「御影紋、開帳」


 八咫鏡に三つ藤の紋が水面に浮かぶ。

 水が鏡のように静まり、川底の石が見えた。


 古い石。

 割れた角。

 苔と泥に覆われた、小さな祠の基礎。


 その周りに、無数の手形が残っている。


 御影は言った。


「これは、水に引くための場所ではない」


 東雲が続ける。


「水に近づく人を、止めるための場所です」


 白羽が水際に最後の札を打つ。


「水際、封じます」


 戸張が最後の声の縁を斬る。


「帰れ、とは言わない、戻れ」


 上原が盾を押し込む。


「悠斗を離せ」


 東雲は護符包帯を引いた。


「森下悠斗さん、戻ります」


 水が弾けた。


 悠斗の体が岸へ引き上げられる。

 東雲はすぐに彼を抱きとめ、石段に寝かせた。


 呼吸がない。


 母親が悲鳴を上げる。


「悠斗!」


 東雲は母親を見ず、悠斗の胸に手を置いた。


「まだ戻せます」


 彼女は浄化札を胸元に置き、鎮魂鈴を一度鳴らす。


 りん。


「悠斗さん、吸ってください」


 反応はない。


 水面がまた揺れる。


 水の中から、声がする。


「返して」


 東雲の表情が変わる。


「返しません」


 彼女は護符包帯で悠斗の手首と自分の手を結ぶ。


 水瀬が震える声で言う。


「東雲さん、霊障がそっちへ流れます!」


「構いません」


 御影が言う。


「東雲」


「戻します」


 東雲は悠斗の額に手を当てた。


「あなたの名前は、森下悠斗」


 胸に置いた浄化札が濡れていく。


「帰る場所は、水の中ではありません」


 悠斗の口から、水が少し溢れた。


 東雲は続ける。


「お母さんが呼んでいます」


 母親が泣きながら言う。


「悠斗、お願い、帰ってきて」


 悠斗の胸が、小さく動いた。


 東雲はもう一度、鎮魂鈴を鳴らす。


 りん。


 悠斗が咳き込んだ。


 水を吐き、空気を吸う。


 母親が泣き崩れる。

 東雲は悠斗の脈を確認し、すぐに護符包帯を外した。


「呼吸、戻りました、救急搬送を」


 現地封鎖班が動く。


 東雲は立ち上がろうとして、少しよろめいた。


 上原がすぐに支える。


「大丈夫か」


「大丈夫です」


 水瀬が駆け寄ってきた。


「大丈夫じゃないです、東雲さんの霊障値、上がってます」


 東雲は小さく笑った。


「少しだけです」


 上原が低く言う。


「その言い方は信用できない」


 戸張が濡れた刀を払う。


「直城がそれを言うのは面白いな」


 白羽が東雲の腕に札を貼った。


「真白さん、あとでちゃんと処置してください」


「はい、佐月ちゃん」


 水瀬が涙目になりかけながら言った。


「あとで寝てくださいね、って今日は私が言う番です」


 東雲は少し驚いて、それから柔らかく微笑んだ。


「はい、玲央ちゃん」


 川の黒い円は消えていた。


 浅波川は、ただの浅い川に戻っている。

 夕方の光が水面に反射し、小さな魚が石の間を泳いでいた。


 だが、川底の祠石だけは、青白く光を残している。


 御影は水際に立った。


「祠石は撤去せず、現地で鎮め直す、表向きは水難事故防止の安全工事として処理、親水区域は当面閉鎖する」


 水瀬が端末に入力する。


「了解です、怪異名はどうしますか」


「水辺の呼び声」


「分類は」


「B級伝承怪異、複合型、発祥地再封印案件」


 白羽が言う。


「河童でも、水神でも、溺れた子でもないんですね」


 御影は頷く。


「その全部が混ざったものだ」


 東雲は川を見る。


「でも、最初はたぶん、危ない水辺に近づかせないための語りだったんです」


 御影は静かに答える。


「それが、助けを求める声になり、引き込む声になった」


 川の向こうで、救急車のサイレンが近づいてくる。

 悠斗は母親に手を握られたまま、現地封鎖班と救急隊に引き継がれた。

 意識は朦朧としていたが、命は戻った。


 母親は何度も東雲に頭を下げた。


「ありがとうございます、本当に、ありがとうございます」


 東雲は静かに首を振った。


「戻ってくれたのは、悠斗さんです、お母さんの声が届きました」


 母親は泣きながら頷いた。


 その日の夜、浅波川親水公園は水難事故防止工事のため、一時閉鎖された。

 表向きには、川底の破損と急な水位変化の危険性が確認されたことになった。

 地域SNSでは、浅い川でも危険だから近づくなという注意喚起が広がった。


 だが、その中にひとつ、妙な投稿があった。


『浅波川で名前を呼ばれたら返事するな、次は動画撮る』


 水瀬はそれを見つけ、すぐに削除誘導をかけた。


「懲りないですね、本当に」


 黒麒麟は川沿いの道を離れ、首都高へ戻るために一般道を走っていた。


 上原が運転席。

 水瀬が助手席。

 後部座席には御影、戸張、東雲。

 白羽と鷹宮は後ろで装備を片づけている。


 東雲は窓の外を見ていた。

 水面の反射が、まだ目に残っている。


 水瀬が助手席から振り返る。


「真白さん、本当に大丈夫ですか」


「はい、少し声が残っているだけです」


 上原が前を見たまま言った。


「それは大丈夫じゃない」


 東雲は苦笑した。


「上原さんに言われると、少し説得力がありますね」


 戸張が笑う。


「直城、言われてるぞ」


「うるさい」


 白羽が後ろから言う。


「水辺の怪異は、しばらく嫌です」


 水瀬が即答する。


「私はネット怪異の方が嫌です」


「じゃあ、次は乾いた場所がいいです」


 戸張が言う。


「砂漠か?」


「そういう意味じゃないです」


 車内に、少しだけ笑いが戻った。


 御影は報告書を開き、最後の一文を入力する。


 B級伝承怪異。

 通称、水辺の呼び声。

 浅波川親水公園消失事案。

 児童救出。

 祠石仮封印。

 親水区域閉鎖。

 残存語り、監視継続。


 その時、東雲の耳に小さな声が聞こえた。


「ありがとう」


 彼女は窓の外を見た。


 車はもう川から離れている。

 水面は見えない。

 ただ、雨でもないのに、窓の端に小さな水滴がひとつだけついていた。


 東雲は指でそっと拭った。


「どういたしまして」


 水瀬が首を傾げる。


「真白さん?」


 東雲は微笑んだ。


「何でもありません」


 黒麒麟は夜の道路を霞ヶ関へ向かって走っていく。


 その頃、浅波川親水公園の水際では、封鎖された石段の下で、小さな泡がひとつ浮かんだ。


 ぽこり。


 そして、誰にも聞こえないほど小さな声がした。


「もう、呼ばない」


 川は静かに流れていた。


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