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5ノ語 花子さんは三度呼ばれる

花子さんを知らない子どもは、少ない。


 学校のトイレ。

 3番目の個室。

 3回ノック。

 そして、呼びかける。


 花子さん、遊びましょ。


 返事が返ってきたら、扉を開けてはいけない。

 開けると引きずり込まれる。

 赤いスカートの女の子がいる。

 白い手だけが出てくる。

 水の音が止まらなくなる。

 鏡に映る。

 天井から覗く。

 個室の中から笑い声が聞こえる。


 場所によって話は違う。

 学校によって手順も違う。

 けれど、名前だけは同じだった。


 花子さん。


 その名前は、何十年も学校の廊下で囁かれてきた。

 怖がりながら、笑いながら、試すふりをしながら、子どもたちは何度もその名を呼んだ。


 大人になった者たちは、懐かしい怪談として語る。

 今の子どもたちは、動画やまとめ記事で知る。

 古い怪談なのに、まだ終わっていない。


 誰かが言う。


 うちの学校にもいた。


 別の誰かが言う。


 3番目じゃなくて、奥から2番目だった。


 さらに別の誰かが言う。


 呼んだら本当に返事がした。


 語りは重なる。

 手順は増える。

 姿は混ざる。

 そして、怪異は強くなる。


 東京都内の架空名称、桜谷小学校。


 昼休みの終わり、4年生の児童3人が、旧校舎1階の女子トイレに入った。


 最初は、ただの遊びだった。


 古い校舎には、来月から改修工事が入る予定だった。

 使われていない教室も多く、旧校舎の端にある女子トイレは、ほとんど閉鎖状態になっていた。


 それでも、噂は残っていた。


 旧校舎の女子トイレ。

 奥から3番目の個室。

 昼でも、そこだけ少し暗い。

 3回ノックして呼ぶと、返事がある。


 児童のひとりが、スマートフォンを構えた。

 学校に持ち込んではいけないものだったが、ランドセルの底に隠していた。


 動画を撮るためだった。


「やめようよ」


 ひとりが言う。


「大丈夫だって、どうせ誰もいないし」


 別のひとりが笑う。


「バズったらすごくない?」


 古いトイレの中は、昼間なのに薄暗かった。

 窓は高く、小さい。

 換気扇は止まっている。

 床のタイルには細かいひびが入っていた。


 3人は奥へ進む。


 1番目。

 2番目。

 3番目。


 扉の前で、スマートフォンを持った児童が息を吸った。


 こんこんこん。


 ノックが3回。


「花子さん、遊びましょ」


 何も起きなかった。


 3人は顔を見合わせる。

 笑いかけた、その時だった。


 個室の中から、返事がした。


「はあい」


 3人は動けなくなった。


 返事は、子どもの声だった。

 近い。

 薄い扉一枚の向こうに、誰かがいる。


 だが、その個室は、鍵が外からかかっていた。


 スマートフォンの画面が乱れる。

 録画時間の表示が、3秒、3秒、3秒と同じ数字で止まっている。


 扉の下から、水が流れ出した。


 その水の中から、小さな白い手が伸びた。


 ひとりが悲鳴を上げた。

 ひとりが逃げ出した。

 スマートフォンを持った児童は、扉の前で固まった。


 中から声がした。


「今度は、あなたが返事してね」


 その児童は、消えた。


 残されたスマートフォンには、11秒の動画が残っていた。

 画面には、3番目の個室の扉だけが映っている。


 最後の1秒。

 個室の中から、笑い声がした。


 そして画面の下に、文字が表示された。


 1回目。


 霞ヶ関地下封域の解析室に警報が鳴ったのは、午後1時33分だった。


 水瀬はモニターの前で、いつになく真顔だった。


「……これはまずいです」


 御影が入ってくる。


「状況を」


 水瀬はすぐに画面を切り替えた。

 桜谷小学校の校内図。旧校舎の平面図。SNS上の検索数。児童の安否情報。

 そのすべてに、赤い警告表示が重なっている。


「桜谷小学校旧校舎女子トイレで児童1名が消失、現地教員が確認に向かったところ、旧校舎内の全トイレで水が流れっぱなしになっています、現地封鎖班が入ろうとしましたが、1階女子トイレの入口から先が、別の階のトイレにつながる異常を確認」


 御影は表情を変えずに聞いている。


「分類は」


 水瀬は一瞬だけためらった。


「A級広域怪異相当、学校怪談集合体、通称は伏せますが、実質的には……花子さんです」


 解析室の空気が変わった。


 白羽が、扉のところで足を止めた。

 札束を抱えたまま、珍しく表情が硬い。


「花子さん、ですか」


 水瀬は頷く。


「はい、3回ノック、3番目の個室、呼びかけ、返事、手順が完全に成立しています、しかも児童が動画を撮っていて、校内の一部児童に共有済みです、検索数も急上昇中、大人世代の懐かし反応も入っています」


 戸張が壁にもたれながら、いつもの軽い調子を少し落として言った。


「有名すぎる相手だな」


 東雲は医療端末を確認している。


「消えた子は生存反応ありますか」


「あります、ただし、位置が固定できません、旧校舎内のどのトイレにも反応が出ます」


 上原が入ってきた。


「全トイレがつながっているのか」


「はい、旧校舎だけじゃありません、新校舎、体育館、職員用、保健室横まで、すべて一部接続されています、しかも、どのトイレにも“3番目の個室”が発生しています」


 白羽が低く言った。


「3番目が増えている」


 御影が白羽を見る。


「白羽、どう見る」


 白羽はいつもの子供っぽい表情を消していた。


「順序の怪異です、呼び出しの順番が強すぎます、1回目、2回目、3回目、ノック、呼びかけ、返事、扉、中へ入る、いったん始まると、途中で止めにくいです」


 水瀬が画面を拡大する。


「それだけじゃありません、残された動画の最後に“1回目”と出ています、つまり、呼び出しがまだ続いています」


 東雲の声が少し低くなる。


「2回目、3回目がある」


「はい、次に誰かが返事をしたら、2人目が取られる可能性があります」


 鷹宮が静かに映像を見ていた。


 御影が問う。


「何が見える」


 鷹宮は短く答えた。


「核が多い」


 水瀬が眉を寄せる。


「多い?」


「1人じゃない、扉の向こうに、いくつもいる」


 白羽の顔がさらに険しくなった。


「集合体ですね、学校ごとの花子さんが混ざってる」


 御影は言った。


「第一班で対応する、水瀬、現地への経路」


「霞ヶ関から桜田通り、内堀通り、首都高都心環状線、そこから5号池袋線に入り、環七通り方面へ、現場の桜谷小学校は架空名称です、周辺は住宅街なので、表向きは設備故障と校舎安全確認で閉鎖します」


 上原は短く言う。


「車を出す」


 白羽が札束を抱え直す。


「御影班長」


「なんだ」


「今回は、力で押したら負けます、順番を崩されたら、閉じられません」


 御影は頷いた。


「なら、順番はお前が決めろ」


 白羽は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、小さく頷いた。


「はい」


 黒麒麟は、霞ヶ関地下封域の車両庫を出た。


 上原が運転席。

 助手席には水瀬。

 後部に御影、戸張、東雲。

 さらに後ろに白羽と鷹宮、装備ラック。

 いつもと同じ配置だが、車内の空気は重かった。


 黒麒麟は桜田通りを抜け、内堀通りへ出た。

 昼過ぎの皇居外苑を横目に、霞が関入口から首都高都心環状線へ上がる。

 水瀬は助手席で端末を複数展開し、後部へ向けて説明を始めた。


「ブリーフィングします、今回の怪異は、学校怪談の代表格です、名前を出すだけで語りが強化される可能性があるので、現場報告では“対象H”とします」


 戸張が言う。


「名前を呼ぶな、か」


「はい、対象Hは“呼ばれること”で成立する怪異です、名前を呼ぶ、ノックする、返事をする、扉を開ける、この流れが一番危険です」


 白羽が膝の上で札を並べている。

 1番札、2番札、3番札。

 それをさらに裏返し、向きを変え、何度も確認していた。


 東雲がその様子を見る。


「佐月ちゃん、大丈夫ですか」


「大丈夫じゃないです、でも、やります」


 白羽は小さく息を吐いた。


「対象Hは、封印師から見ると本当に嫌な怪異です、手順が有名すぎる、全国で何度も呼ばれてきた、子どもたちが手順を知ってる、大人も懐かしがって話す、だから、こちらが封じる前に、向こうの順序が完成しているんです」


 御影が言う。


「逆に、その順序を使えるか」


「使えます、ただし危険です、呼び出しの順番を、帰す順番に組み替える必要があります」


 水瀬が画面を切り替える。


「現地状況です、桜谷小学校は全児童を校庭へ避難済み、表向きは水道管破裂と旧校舎安全確認、教員も退避、ただ、消えた児童の友達2人が保健室で保護されています、うち1人が、ずっと“2回目は私が呼ばれる”と言っています」


 東雲が顔を上げる。


「その子に霊障が入っていますね」


「はい、呼び出しの続きに巻き込まれています」


 上原が前を見たまま言った。


「保健室は校舎内か」


「新校舎1階です、ただし保健室横のトイレにも接続反応があります」


 御影が静かに指示する。


「到着後、東雲は保健室へ、上原は保健室前を押さえろ、水瀬は校内通信と拡散遮断、戸張は白羽の護衛、鷹宮は核を追え、白羽は封印順序の構築」


 白羽は札を握った。


「はい」


 水瀬の端末に、新しい警告が出た。


「まずいです、消えた児童の動画、共有アプリに流れました、校外の児童にも見られ始めています」


 御影の声が低くなる。


「遮断できるか」


「やってます、でも、もう切り抜きが出ています、タイトルが最悪です、“本物の花子さん呼んでみた”」


 白羽が目を閉じた。


「名前が広がってる」


 水瀬は指を止めない。


「検索誘導かけます、校内事故関連を上げて、怪談名の拡散を下げます、でも完全には無理です、対象が有名すぎます」


 戸張が静かに言う。


「有名すぎる怪異か、厄介だな」


 鷹宮が短く言った。


「もう見ている」


 御影が振り向く。


「誰が」


 鷹宮は窓の外を見ている。


「向こうが」


 黒麒麟の車内が、一瞬暗くなった。


 水瀬の端末画面が乱れる。

 黒い画面に、白い文字が浮かぶ。


 2回目。


 水瀬が息を呑む。


「車内端末に干渉してきました」


 次の瞬間、黒麒麟の後部座席のスピーカーから、子どもの声がした。


「花子さん、遊びましょ」


 上原が即座にブレーキを踏んだ。

 車両は首都高上ではなく、ちょうど出口へ向かう側道に入っていた。

 黒麒麟は安全な位置に滑り込むように停まる。


「誰も返事するな」


 御影の声が飛んだ。


 車内が静まり返る。


 スピーカーから、もう一度声がした。


「花子さん、遊びましょ」


 白羽の手が震えていた。


 だが、声は強い。


「返事をさせるための再生です、呼び出しの音だけを切ってください、水瀬さん」


「やってます!」


 水瀬が端末を叩く。

 だが、音声は車内回線ではなく、黒麒麟の封域ビーコン側から漏れていた。


「だめです、車両システムじゃない、封域の内側から声が出てます」


 白羽は札を1枚取り出した。


「順番を止めます」


 御影が言う。


「できるか」


「止めるんじゃなく、空白を挟みます」


 白羽は札を車内の床へ置いた。


「一つ目の呼び声、聞かず、二つ目の呼び声、届かず、三つ目の呼び声、返さず」


 札が青白く光る。


 スピーカーから、3回目の声が出かけた。


「花子さ……」


 途切れた。


 水瀬は大きく息を吐いた。


「車内干渉、遮断、白羽さん、今の何ですか」


「空白札です、順序の間に隙間を作りました、でも長く持ちません、対象H、もうこちらを呼び出しの中に入れようとしてます」


 御影は静かに言った。


「格が違うな」


 上原は再び車を出した。


「急ぐ」


 黒麒麟は環七通りを抜け、住宅街へ入った。

 桜谷小学校は、古い住宅地の中にある中規模の公立小学校だった。

 校門の前には、消防点検を装った現地封鎖班の車両が停まっている。

 校庭には避難した児童たちが集められていた。


 雨は降っていない。

 だが、旧校舎の窓だけが濡れているように見えた。


 黒麒麟が校門内へ入ると、現地封鎖班の隊員が駆け寄ってきた。


「御影班長、旧校舎への侵入を試みた隊員2名が戻っていません、新校舎側から入っても、同じトイレ前に出ます」


 御影が問う。


「返事をしたか」


「1名が、内部からの呼びかけに無線で“聞こえる”と答えました、その直後、通信途絶」


 白羽が小さく言った。


「返事として扱われたんだ」


 水瀬は端末を開く。


「校内ネットワーク、遮断します、児童の端末、教員用端末、監視カメラ、全部こちらで管理します、動画の外部流出も止めます」


 御影は頷いた。


「上原、保健室前、東雲、児童を診ろ」


「了解」


 上原と東雲は新校舎へ向かう。

 御影、白羽、戸張、鷹宮は旧校舎へ。

 水瀬は黒麒麟の横に移動端末を展開し、校内全体を監視する。


 旧校舎の廊下は、昼間とは思えないほど暗かった。


 壁には古い掲示物が残っている。

 給食当番表。避難訓練のお知らせ。色あせた図工の作品。

 床はきしみ、遠くから水の流れる音が聞こえた。


 白羽は廊下の入口に札を貼った。


「ここを起点にします、旧校舎をひとつの封印陣として扱います」


 戸張が周囲を見る。


「広いな」


「広いです、だから嫌なんです」


 白羽はいつになく真剣だった。


「対象Hは、トイレだけにいるわけじゃありません、学校という場所そのものに染みています、怖い話をした教室、肝試しした廊下、泣いて逃げた子、笑って試した子、全部が通り道になります」


 御影は頷く。


「順序は任せる」


「はい、まず、1階の水を止めます、次に2階、最後に3階、呼び出しの順番が“3番目”へ向かうなら、こちらは“1から3へ進んで帰す”順番を作ります」


 鷹宮が短く言った。


「上だ」


 全員が見上げる。


 天井から、水滴が落ちていた。


 水滴の間に、小さな声が混じる。


「こん」


 白羽が止まった。


 もう一度。


「こん」


 戸張が刀に手をかける。


 3回目が来る前に、白羽が札を天井へ投げた。


「三つ目を待たない」


 札が天井に張りつき、光る。


 3回目のノックは、鳴らなかった。


 だが、廊下の奥で別の音がした。


 こん。


 こん。


 こん。


 1階女子トイレの扉だった。


 白羽は唇を噛む。


「向こうの方が早い」


 御影が言う。


「焦るな」


「焦ってません」


「なら、息をしろ」


 白羽は一瞬だけ黙り、深く息を吸った。


「……はい」


 1階女子トイレの前に立つ。


 奥から水音がする。

 個室は3つ。

 すべての扉が閉まっている。


 白羽は床に札を並べた。


「1番、入口、2番、洗面、3番、個室、ここで閉じます」


 その瞬間、札の数字が変わった。


 1番札が3番に。

 3番札が1番に。

 向きも逆になっている。


 白羽の目が見開かれた。


「札の順番を触った」


 戸張が低く言う。


「そんなこともするのか」


「します、順序の怪異ですから」


 白羽は札を拾い直そうとした。


 だが、手を伸ばした瞬間、3番目の個室の中から声がした。


「はあい」


 返事だった。


 誰も呼んでいない。


 それでも返事が返ってきた。


 御影が言う。


「呼び出しの順序を省略したか」


 白羽は低く答える。


「違います、さっきの車内の呼び声を、ここにつなげています」


 個室の扉の隙間から、小さな白い手が出た。


 戸張が前に出る。


「斬るか」


「だめです!」


 白羽の声が鋭く響いた。


 戸張が止まる。


「それを斬ったら、手だけが別の個室に移ります、順番を崩さず閉じないと増えます」


 白い手は、床を這うように札へ伸びる。


 白羽は札巻き短刀を抜いた。


「触らせません」


 彼女は短刀の刃で床を軽く叩いた。

 墨糸が走り、札同士を結び直す。


「1番、ここ、2番、そこ、3番、戻れ」


 札の数字が元へ戻った。


 白い手が引っ込む。


 個室の中で、子どもの笑い声がした。


 水瀬の声がインカムに入る。


「旧校舎内、接続反応増加、1階トイレと2階トイレがつながりました、あと保健室横トイレにも反応」


 東雲の声が続く。


「保健室の児童が、“次は私が返事する”と言っています、かなり強く引かれています」


 御影が答える。


「東雲、名前を呼び続けろ、本人の名前で固定する」


「はい」


 上原の声が入る。


「保健室前に水が来た」


 水瀬が叫ぶ。


「上原さん、トイレ側のドアを開けないでください!」


「開けない」


 保健室前。


 上原は廊下に立ち、盾を構えていた。

 保健室の隣にある職員用トイレの扉の下から、水が流れ出している。

 水は廊下を広がり、保健室の入口へ向かっていた。


 中では、東雲が児童の手を握っている。


「美咲さん、私の声を聞いてください、あなたはここにいます、保健室にいます」


 美咲と呼ばれた少女は、涙を浮かべながら首を振った。


「でも、呼ばれてる」


「誰に?」


「わからない、でも、返事しないと、友達が戻ってこないって」


 東雲は静かに言った。


「返事はしなくて大丈夫です」


「でも、3回呼ばれたら、返事しなきゃ」


「その順番は、あなたのものではありません」


 扉の向こうから声がした。


「花子さん、遊びましょ」


 美咲の口が開きかける。


 上原が盾を床へ叩きつけた。


 岩楯に鎮め縄の紋が光り、水の流れを止める。


「後ろには行かせない」


 トイレの扉が内側から激しく揺れた。


 こん。


 こん。


 こん。


 保健室の空気が震える。


 美咲が泣きながら言う。


「返事しなきゃ」


 東雲は彼女の両手を包む。


「あなたの名前は美咲さんです、花子さんではありません、返事をする必要はありません」


 上原の盾に、白い手が何本も触れた。

 盾の表面に、水滴ではなく小さな手形が増えていく。


 上原は動かない。


「班長、保健室側、押さえる、だが長くない」


 御影はインカムで答える。


「白羽、急げ」


 白羽は1階トイレの入口で、額に汗を浮かべていた。


「急いだら順番が崩れます」


 彼女は床に膝をつき、墨糸を伸ばす。


「1階、入口を閉じる、2階、声を閉じる、3階、返事を閉じる、最後に、個室を帰す」


 戸張が廊下の奥を見る。


「来るぞ」


 廊下の向こうに、赤いスカートの少女が立っていた。


 小学生くらいの背丈。

 白いブラウス。赤いスカート。

 顔は見えない。

 髪の隙間から、笑う口元だけが見える。


 その背後に、もうひとり。

 さらに、その背後にもうひとり。


 同じようで、少しずつ違う花子さんたち。

 ある者は手だけ。

 ある者は首を傾けている。

 ある者は濡れた髪で顔を隠している。

 ある者は個室の扉を背負うように立っている。


 水瀬が震える声で言った。


「校内反応、増加、対象H、複数顕現、いや、複数じゃないです、全部、同じ名前に集約されてます」


 鷹宮が狙撃銃を構えず、目だけで見ていた。


「核が散っている、撃てない」


 戸張は刀を抜いた。


「縁は斬れるか」


 鷹宮が短く言う。


「多すぎる」


 御影が前に出る。


「倒すな、名前で集まったものを壊せば、学校中に散る」


 少女たちが同時に口を開いた。


「遊びましょ」


 声が重なる。


「遊びましょ」


「遊びましょ」


「遊びましょ」


 白羽の札が揺れる。

 1番、2番、3番。

 数字が勝手に入れ替わろうとする。


 白羽は両手で札を押さえた。


「やめてください、今、順番を組んでるんです」


 少女たちは笑う。


「遊びましょ」


 白羽の指先から血がにじんだ。

 墨糸を強く握りすぎている。


 東雲の声が入る。


「佐月ちゃん、無理をしすぎないで」


「無理します」


 白羽は顔を上げた。


 いつもの柔らかさはない。

 封札師の顔だった。


「封印は、力ではなく順序です、向こうが順番を奪うなら、こっちで順番を作り直します」


 御影は静かに頷く。


「任せる」


 白羽は立ち上がった。


「1階を閉じます、戸張さん、廊下の花子さんたちを足止めしてください、斬らないで、線だけ切ってください」


「難しいな」


「できますよね」


 戸張は笑った。


「できる」


 彼は刀を構え、廊下を走った。

 赤いスカートの少女たちの間を抜けるように刃が走る。

 斬るのは体ではない。

 個室と廊下を結ぶ線。

 呼び声と返事を結ぶ糸。


 少女のひとりが消え、別の個室の扉に吸い込まれた。


 白羽が札を打つ。


「1階、入口閉じ」


 トイレの入口に、青白い輪が浮かんだ。


 水の音がひとつ止まる。


 水瀬が叫ぶ。


「1階女子トイレ、接続低下、でも2階が強くなりました!」


 御影が言う。


「上へ」


 階段を上がる。


 だが、2階へ着いたはずなのに、そこはまた1階の廊下だった。


 同じ掲示物。

 同じトイレ。

 同じ床のひび。


 白羽が舌打ちした。


「階数を戻された」


 水瀬が端末で確認する。


「空間ループです、旧校舎の階段が、3番目の個室へ向かう順番に組み替えられています」


 鷹宮が天井を見る。


「上じゃない、横だ」


 彼は廊下の窓を指した。


 窓ガラスの向こうに、2階の廊下が映っている。

 現実には外の校庭があるはずなのに、ガラスの反射だけが別の階を映していた。


 御影が言う。


「反射を通る」


 白羽が即座に札を取り出す。


「鏡道を作ります、水瀬さん、黒麒麟から封域ビーコンを廊下反射に合わせてください」


「了解!」


 水瀬は校庭の黒麒麟横で端末を叩いた。


 旧校舎の窓が青白く光る。


 白羽が窓枠に札を貼った。


「1番、こちら、2番、向こう、3番、通る」


 窓ガラスの向こうの廊下が、こちらへ近づいた。


 戸張が言う。


「窓を通るのか」


「反射を通るんです、落ち着いてください」


「落ち着いている」


「顔が少し楽しそうです」


「否定はしない」


 御影が先に進む。

 窓をくぐるようにして、全員が2階の廊下へ移った。


 そこでは、すべてのトイレの扉が開いていた。


 ただし、中は真っ暗だった。


 奥から、消えた児童の声がする。


「だれか」


 東雲がインカム越しに息を呑む。


「その声、消えた子です」


 御影が答える。


「名前は」


 水瀬が資料を見る。


「篠原莉子、4年生です」


 御影は廊下の奥を見る。


「莉子さん」


 白羽がすぐに言った。


「名前を呼ぶのは危険です、でも、本人固定には必要です」


 御影は頷く。


「わかっている」


 廊下の奥で、個室の扉がひとつ閉まった。


 こん。


 別の扉が閉まる。


 こん。


 3つ目の扉が閉まる。


 こん。


 同時に、莉子の声がした。


「返事しないと、出られない」


 白羽は拳を握った。


「返事をさせたら、莉子さんが花子さんの代わりになります」


 御影が言う。


「なら、こちらが返事の順番を奪う」


 白羽は首を振る。


「いいえ、返事はしません、返事ではなく、迎えに行きます」


 彼女は2階女子トイレの前に立った。


「ここで2番目を閉じます、声を閉じます」


 個室の中から、何人もの声が聞こえる。


「はあい」


「はあい」


「はあい」


「はあい」


 同じ返事が、違う声で重なる。


 白羽の札が震える。

 数字がまた入れ替わる。


 1番が2番に。

 2番が3番に。

 3番が赤く染まる。


 白羽は歯を食いしばった。


「違います、あなたたちの順番じゃない」


 札巻き短刀で、自分の親指を軽く切る。

 血を一滴、札に落とした。


 東雲の声が鋭くなる。


「佐月ちゃん」


「大丈夫です、血止めはあとでお願いします」


 白羽は血のついた札を床へ貼った。


「白羽家、三枚羽に封じ輪、声の入口を閉じます」


 2階のトイレから、返事が消えた。


 水瀬が叫ぶ。


「2階接続低下! でも3階に全部集まってます、あと、保健室側が限界です!」


 保健室前では、上原が盾でトイレの扉を押さえていた。


 扉の隙間から、何本もの白い手が伸びている。

 その手が盾を叩く。


 こん。


 こん。


 こん。


 まるで盾をノックしているようだった。


 上原の足元まで水が来ている。

 岩楯に鎮め縄の紋が何度も光るが、手形は増え続ける。


 保健室の中で、美咲が泣きながら耳を塞いでいた。


「呼んでる、呼んでるよ」


 東雲は彼女を抱き寄せる。


「呼ばれても、あなたは行かなくていい」


「でも、莉子ちゃんが」


「莉子さんは、こちらが迎えに行きます」


 美咲は泣きながら言った。


「本当に?」


「はい」


 上原がインカムに言う。


「白羽、あとどれくらいだ」


 白羽は3階へ向かいながら答えた。


「最後です、でも、ここが一番強いです」


「了解」


 上原は盾をさらに押し込んだ。


「なら、持たせる」


 3階へ上がる階段は、今度は普通に続いていた。


 だが、階段の数がおかしい。


 1段。

 2段。

 3段。


 また1段。

 2段。

 3段。


 何度上がっても、3段ごとに同じ踊り場へ戻る。


 白羽は足を止めた。


「階段まで3で組んでる」


 戸張が刀を肩に置く。


「斬るか」


「斬ったら階段が崩れます」


「今日は俺の刀が本当に制限されるな」


 鷹宮が上を見た。


「4段目がある」


 白羽が顔を上げる。


「4段目?」


「見えていないだけだ」


 御影が言う。


「3の順序から外れる段か」


 白羽はすぐに理解した。


「そうか、呼び出しが3なら、帰すには4が必要なんだ」


 彼女は階段の手前に札を置いた。


「1、呼ばれる、2、返事をする、3、扉を開ける」


 そして、何もない空間に4枚目の札を貼る。


「4、帰る」


 見えない段が浮かび上がった。


 4段目。


 そこを踏むと、階段は3階へ続いた。


 水瀬がインカムで叫んだ。


「すごいです白羽さん! 空間ループ解除!」


「褒めるのはあとでお願いします、今、かなり怖いです」


 3階の廊下は、すべてが水浸しだった。


 廊下の奥に、女子トイレがある。

 その前に、赤いスカートの少女が立っていた。


 今度は、ひとりだけだった。


 だが、今までで一番濃い。


 顔は見えない。

 髪の隙間から、口だけが笑っている。


「遊びましょ」


 白羽は震える息を吐いた。


「遊びません」


 少女が首を傾げる。


「どうして」


「帰ってもらうからです」


 トイレの3番目の個室から、莉子の声がした。


「出たい」


 東雲がインカム越しに言う。


「莉子さんの意識反応、確認できています、まだ戻せます」


 御影が一歩前に出る。


「白羽、手順を」


 白羽は札を並べる。


「1階で入口を閉じました、2階で声を閉じました、3階で返事を閉じます、最後に、3番目の個室を“呼び出しの場所”から“帰る場所”へ変えます」


 少女が笑った。


「花子さん、遊びましょ」


 3階のすべての扉が震える。


 こん。


 こん。


 こん。


 水が一気に溢れ出す。


 戸張が前へ出て、廊下に走る赤い線を斬る。

 鷹宮が目を細め、個室の奥を見抜く。


「核は莉子の後ろ、そのさらに後ろ、名前の束だ」


 御影が問う。


「束?」


「全国の呼び声、多すぎる」


 水瀬の声が震える。


「対象H、検索数がまた上がっています、誰かが動画を再投稿しました、“本当に消えた子がいる学校”ってタイトルで拡散中」


 御影の表情がわずかに厳しくなる。


「遮断」


「やってます、でも、外部から別アカウントが増やしてます、これ、人為的です、語りを売る者たちかもしれません」


 白羽が叫んだ。


「今それ言わないでください!」


「すみません!」


 少女が、白羽の目の前に立っていた。


 いつ移動したのか、誰にも見えなかった。


「はあい」


 少女が返事をした。


 その瞬間、白羽の周囲の札がすべて裏返った。


 御影が動く。


 だが、白羽は先に叫んだ。


「触らないでください!」


 裏返った札の一枚に、白い手が乗っていた。

 誰かが触れれば、その者が3番目にされる。


 白羽は膝をつき、震える指で札の向きを読み取る。


「逆順……」


 戸張が背後の少女を牽制する。


「白羽、いけるか」


「いけます、いけないと困ります」


 彼女は息を吸った。


「呼び出しが、1、2、3なら」


 裏返った札を、そのまま使う。


「帰す順番は、3、2、1」


 白羽は3番札を押さえた。


「3番目の個室を閉じる」


 次に2番札。


「2回目の返事を戻す」


 最後に1番札。


「1回目の呼び声をほどく」


 裏返った札が、青白く燃えた。


 少女が初めて笑うのをやめた。


 御影が御影札を出す。


「今だな」


 白羽が頷く。


「今です」


 御影が札を掲げる。


「御影紋、開帳」


 八咫鏡に三つ藤の紋が、3階廊下全体に浮かび上がった。


 鏡は、怪異の正体を映す。

 そこに映ったのは、ひとりの少女ではなかった。


 無数の個室。

 無数の学校。

 無数の声。


 呼ばれたから、返事をした。

 遊ぼうと言われたから、遊ぼうとした。

 けれど、扉を開けられるたびに悲鳴を上げられ、怖がられ、逃げられた。

 また閉じ込められ、また呼ばれた。


 花子さんは、呼ばれ続けた怪異だった。


 白羽の表情が少しだけ歪む。


「呼ばれたら、出るしかなかったんですね」


 少女は何も言わない。


 白羽は札巻き短刀を個室の扉に当てた。


「だったら、今日は帰ってください」


 3番目の個室の扉が、ゆっくり開いた。


 中に、莉子がいた。


 床に座り込み、泣いている。

 その後ろに、無数の白い手が伸びている。


 東雲が叫ぶ。


「莉子さん、名前を言ってください!」


 インカム越しの声が、校内放送に乗る。


 莉子は泣きながら言った。


「しのはら、りこ」


 白い手が止まる。


 御影が言う。


「上原」


 保健室前から走ってきた上原が、3階廊下に到着した。

 盾は手形だらけだったが、まだ光を失っていない。


 上原は個室の前に立ち、盾を構えた。


「こっちだ」


 白い手が上原の盾に殺到する。

 上原は踏みとどまった。


「後ろには行かせない」


 戸張が横から入り、莉子と個室の奥を結ぶ糸を斬る。


「直城、あと3秒」


「持つ」


 鷹宮が言った。


「左じゃない、上だ」


 全員が見上げる。


 天井から、赤いスカートの少女が逆さにぶら下がっていた。


 口元が笑う。


「もう一回」


 水瀬が叫ぶ。


「対象H、再呼び出し来ます!」


 少女が言う。


「花子さん、遊びましょ」


 白羽が、最後の札を天井へ投げた。


「遊びは終わりです」


 札が少女の額に貼りつく。


「3、帰る」


 少女の姿が薄れる。


「2、忘れない」


 水の音が止まる。


「1、呼ばない」


 トイレの扉が一斉に閉じた。


 白羽は両手で印を結んだ。


「お帰りください」


 3番目の個室の奥に、青白い輪が開く。

 そこは暗い穴ではなく、どこかの古い学校の廊下のようだった。

 懐かしいようで、寂しい場所。


 赤いスカートの少女は、扉の前で立ち止まった。


 そして、初めて小さく言った。


「また、呼ぶ?」


 白羽は首を振った。


「呼ばれないようにします」


 少女は少しだけ笑ったように見えた。


「うそつき」


 扉が閉じた。


 校内の水音が、完全に止まった。


 水瀬の端末から警告表示が消えていく。


「接続反応、低下、旧校舎トイレ、新校舎トイレ、体育館、保健室横、すべて通常空間へ戻っています、消えた児童、位置固定、3階女子トイレ内です」


 東雲がすぐに莉子へ駆け寄る。

 莉子は泣いていたが、意識はある。

 大きな怪我はない。


 白羽はその場に座り込んだ。


 戸張が刀を納め、近づく。


「見事だった」


 白羽は顔を上げない。


「順番、ちょっと危なかったです」


「勝ったならいい」


「勝ってません、帰ってもらっただけです」


 御影が白羽の前に立つ。


「それでいい」


 白羽はようやく顔を上げた。


「でも、また呼ばれます」


 御影は頷いた。


「有名すぎる、完全には閉じられない」


 水瀬が黒麒麟の横から通信する。


「外部の再投稿、かなり抑えました、でも完全削除は無理です、もう昔からある話なので、検索すればいくらでも出ます」


 御影は静かに言う。


「対処法は公表しない、今回の件は、旧校舎設備故障と児童の一時行方不明として処理、校内での怪談遊びは禁止ではなく、注意喚起に留める」


 白羽が少し驚いた顔をする。


「禁止にしないんですか」


「禁止すれば、余計に試す」


 水瀬が苦笑する。


「それは確かに」


 東雲は莉子を抱き起こしながら言った。


「怖い話は、なくなりませんからね」


 御影は3番目の個室を見た。


「だから、形を変える、呼ぶ話ではなく、呼んではいけない理由を伝える話にする」


 白羽はゆっくり立ち上がった。


「じゃあ、学校には何て言いますか」


 御影は少し考えた。


「古い校舎には、古い約束が残っている、試すものではない、と」


 白羽は小さく頷いた。


「それなら、少しはいいです」


 校庭へ戻ると、児童たちは不安そうに旧校舎を見上げていた。


 保健室にいた美咲は、莉子の姿を見ると泣きながら駆け寄った。

 莉子も泣き出し、ふたりは抱き合った。


 東雲がそばで見守る。

 上原は少し離れた場所で、盾の手形を拭っていた。

 戸張はその手形を見て、少し顔をしかめる。


「直城、それ本当に大丈夫か」


「問題ない」


「またそれか」


 白羽が近づいて、上原の盾に札を貼った。


「その手形、放っておくと夜にノックします」


 上原の動きが止まった。


「先に言え」


「今言いました」


 水瀬が端末を抱えて笑った。


「白羽さん、今回ちょっと怖いです」


「相手が悪いです」


 白羽は旧校舎を見る。


「有名すぎる怪異は、やっぱり強いですね」


 鷹宮が短く言った。


「まだ奥にいた」


 御影が振り向く。


「見えたか」


「扉の奥に、別の扉があった」


 白羽の表情が固まる。


「別の花子さんですか」


「違う、学校怪談そのものだ」


 御影はしばらく黙っていた。


 学校という場所には、怪談が集まる。

 トイレ、理科室、音楽室、階段、体育館、校庭の隅。

 子どもたちが怖がり、試し、走って逃げ、翌日また誰かに話す。

 その繰り返しが、怪異の土壌になる。


 花子さんは、その入口のひとつにすぎない。


 水瀬の端末に、新しい通知が入った。


 削除されたはずの動画のコメント欄。

 そこに、ひとつの書き込みが残っていた。


『次は音楽室?』


 水瀬は画面を見て、顔をしかめる。


「班長」


 御影が見る。


「また、誰かが誘導してます」


 書き込み主のアカウント名は、文字化けしていた。

 だが、その中にまた、ひと文字だけ読める。


 語。


 戸張が目を細める。


「例の連中か」


 御影は答えない。


 ただ、報告書に一文を加えた。


 A級広域怪異。

 通称、対象H。

 桜谷小学校再顕現事案。

 被害児童救出。

 校内封異完了。

 残存語り、継続監視。

 外部干渉の疑い、強。


 白羽は旧校舎を見上げた。


「呼ばれないようにするって、言っちゃいました」


 東雲がそっと言う。


「嘘ではありませんよ」


「でも、完全には無理です」


「完全じゃなくても、今日呼ばれた子は戻りました」


 白羽は少しだけ目を伏せた。


「はい」


 御影が言った。


「白羽」


「はい」


「よく閉じた」


 白羽は一瞬だけ固まった。


 それから、少しだけ照れたように札束を抱え直した。


「……順番が良かっただけです」


 水瀬が小さく笑う。


「その順番を作ったの、白羽さんです」


 黒麒麟に戻る時、旧校舎の3階の窓に、赤いものが揺れたように見えた。


 赤いスカートの裾。

 あるいは、夕日の反射。


 誰も声には出さなかった。


 上原が運転席に乗り、水瀬が助手席に座る。

 御影、戸張、東雲、白羽、鷹宮が順に乗り込む。


 黒麒麟は校門を出て、環七通りへ向かった。

 そこから首都高5号池袋線へ戻り、霞ヶ関へ向かう。


 水瀬は助手席で端末を見ながら言った。


「今回、かなり危なかったですね」


 戸張が後部座席から答える。


「今までで一番、相手の格が高かった」


 白羽は窓の外を見ている。


「有名な怪談は、強いです、みんなが知ってるって、それだけで力なんです」


 御影は静かに言った。


「だから、語りは慎重に扱う」


 東雲が頷く。


「怖がることも、面白がることも、形を作ってしまう」


 上原が前を見たまま言う。


「それでも、子どもは話す」


 御影は少しだけ目を伏せた。


「だから我々がいる」


 黒麒麟は首都高を走る。

 窓の外に、夕方の東京が流れていく。


 その頃、桜谷小学校では、教員たちが児童を帰宅させる準備をしていた。

 旧校舎は立入禁止になり、問題のトイレには新しい鍵がかけられた。


 けれど、校庭の端で、ひとりの児童が友達に小声で言った。


「ねえ、知ってる? 旧校舎のトイレ、ほんとに返事したんだって」


 友達は目を丸くする。


「うそ」


「ほんとだよ、でも、もう呼んじゃだめなんだって」


「なんで?」


 児童は少し考えた。


「帰れなくなるから」


 その言葉は、怖がらせるための噂ではなかった。

 少なくとも、その時は。


 夕方の旧校舎の3階。


 3番目の個室の中で、水が一滴だけ落ちた。


 ぽたり。


 それきり、何も聞こえなかった。

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