4ノ語 峠に立つ女
その峠では、雨の日に女が立つ。
白い服を着て、髪を濡らし、カーブミラーの下でうつむいている。
夜中、車のヘッドライトがその姿を照らすと、女はゆっくり顔を上げる。
助けてください。
そう言われても、車を止めてはいけない。
止めると、助手席に乗ってくる。
乗せたら最後、次のカーブでブレーキが効かなくなる。
無視して通り過ぎても、バックミラーを見ると後部座席に座っている。
名前を聞けば、答えない。
家を聞けば、山を指す。
そして最後に、こう尋ねる。
どうして、置いていったの。
それは、古い峠の怪談だった。
昔、雨の夜に起きた事故。
転落した車。
助けを呼びに行くと言って戻らなかった男。
あるいは、山へ嫁いだ女が帰れなくなった話。
あるいは、峠の開通工事で埋められた何かの話。
語る人によって、由来は違った。
けれど、ひとつだけ共通している。
雨の日、女が立つ。
そこにいるはずのない女が、峠で車を待っている。
東京都と山梨県の境に近い山間部。
架空名称、黒妻峠。
近くには集落も少なく、夜になると道は急に暗くなる。
昼間はツーリングやドライブで通る者もいるが、雨の日の夜だけは、地元の人間もあまり近づかない。
その夜も、雨だった。
軽自動車が、黒妻峠の旧道を走っていた。
運転していたのは、配送業の男性。
道に迷ったわけではない。
ナビが示した最短経路に従っただけだった。
山道に入ってから、スマートフォンの電波は不安定になった。
カーナビの地図は、数年前の道路情報のまま更新されていない。
新道へ向かうはずが、古い峠道へ誘導されていた。
ワイパーが雨を払う。
ヘッドライトの先に、濡れたアスファルトと白いガードレールが浮かぶ。
カーブミラーの下に、人影が見えた。
女だった。
白い服。
長い髪。
傘はない。
雨に濡れたまま、道の端に立っている。
男性はブレーキを踏みかけた。
だが、直前で足を離した。
何かがおかしい。
こんな時間に。
こんな雨の山道で。
ひとりで。
車は女の横を通り過ぎた。
その瞬間、助手席のドアロックが音を立てた。
かちり。
男性は息を止めた。
助手席には誰もいない。
それなのに、濡れた匂いが車内に広がった。
次のカーブに入った時、後部座席から声がした。
「どうして」
男性は叫んだ。
車はガードレールに接触し、フロント部分を大きく潰して停まった。
幸い、谷へ落ちることはなかった。
男性は命を取り留めたが、救助された時、彼は何度も同じことを繰り返していた。
「乗せてない」
「乗せてないのに、いた」
「後ろにいた」
現地警察は、雨天時のスリップ事故として処理しかけた。
だが、事故車両の後部座席から、水滴が検出された。
座席の中央に、誰かが座っていたような跡があった。
さらに、ドライブレコーダーには、奇妙な映像が残っていた。
女は、車の外には映っていない。
だが、カーブミラーの中にだけ、白い女が映っていた。
霞ヶ関地下封域に報告が入ったのは、午前2時13分だった。
水瀬は解析室の椅子に沈み込むように座り、ドライブレコーダーの映像を何度も再生していた。
「これはネット怪異じゃないですね。投稿も拡散もほぼありません。地元掲示板に昔の噂が少し残ってるだけです」
御影は背後から画面を見ている。
映像には、雨の峠道が映っていた。
ワイパーの音。
ライトに照らされたカーブ。
濡れたカーブミラー。
車外には、誰もいない。
だが、ミラーの中には女がいた。
白い服の女。
うつむいて、車の方を見ている。
御影は静かに言った。
「鏡面ではない。反射だけに映るのか」
「はい。カメラ本体には映らず、カーブミラー内にのみ確認できます。あと、事故車の後部座席に強い霊障反応。男性は軽傷ですが、ずっと同じ言葉を繰り返しています」
東雲が医療端末を確認した。
「精神汚染は軽度。ただ、強い罪悪感を植えつけられています。本人には心当たりがないのに、“置いていった”という感覚だけが残っています」
戸張が映像を見て、わずかに眉を寄せた。
「車に乗せる怪談か。昔からあるな」
白羽は札束を数えながら言った。
「峠系はやっかいです。道そのものに染みている場合、入口と出口を押さえないと閉じません」
上原は壁際で腕を組んでいた。
「現地は山道か」
水瀬が地図を出す。
「はい。黒妻峠。名称は架空処理です。場所は東京西部から山梨県境にかけての山間部。移動は霞ヶ関から桜田通り、内堀通り、首都高4号新宿線に入って、そのまま中央自動車道。八王子方面を抜けて、国道20号、そこから都道と県道を経由して旧道へ入ります」
上原は短く言った。
「雨だな」
「はい。現地は今も雨。しかも事故後から、黒妻峠付近だけ降雨が止まっていません」
鷹宮が画面を見ていた。
いつもより長く、黙っている。
御影が振り向く。
「鷹宮」
鷹宮はゆっくり言った。
「女じゃない」
水瀬が目を瞬かせる。
「え?」
「女の姿は、後から貼られたものだ」
戸張が問いかける。
「本体は?」
鷹宮は、ドライブレコーダー映像のカーブミラーを指した。
「道の下だ」
解析室が静かになった。
御影はモニターに近づく。
「埋まっているのか」
「たぶん」
水瀬がすぐに古い地図を開いた。
現在の道路図、20年前の航空写真、50年前の地形図、工事記録。
画面にいくつもの線が重なる。
「黒妻峠の旧道は、昭和期に拡張工事されています。事故地点のカーブは、もともと山側を削って道を広げた場所です。あ、待ってください。工事前の地図だと、ここに小さな祠があります」
白羽の手が止まる。
「祠?」
「はい。現在の道路上に重なっています。移設記録は……ないです」
東雲が小さく息を吸った。
「埋めた、ということですか」
御影は画面を見たまま言った。
「女の怪談は、後からついた語りだ。もとの由来は、祠かもしれない」
水瀬が別の資料を開く。
「地元の郷土史に断片があります。黒妻峠には、昔“道返しの女”という話があったみたいです。山へ入る者を止める女神とも、迷い人を返す霊とも言われています。事故を防ぐための守り神に近い話です」
戸張が目を細めた。
「守り神が、なぜ事故を起こす」
御影は言った。
「守っていた場所を潰された。道を返すものが、道を奪われた」
上原が身を起こす。
「出るぞ」
御影は頷いた。
「第一班、黒妻峠へ向かう。水瀬、現地封鎖班に連絡。表向きは土砂災害警戒と道路点検で旧道を閉鎖しろ」
「了解です」
黒麒麟は、夜明け前の霞ヶ関地下封域を出た。
上原が運転席に座る。
助手席には水瀬。
後部には御影、戸張、東雲。
さらに後ろに白羽と鷹宮、装備ラック。
雨具、結界杭、発光札、霊障測定器、予備の防御札が積み込まれている。
黒麒麟は桜田通りへ出て、まだ車の少ない官庁街を抜けた。
内堀通りを走る頃には、空がわずかに白み始めていたが、雲は低い。
霞が関入口から首都高都心環状線へ入り、4号新宿線へ向かう。
新宿のビル群を抜けるころ、雨粒がフロントガラスに当たり始めた。
水瀬は助手席で端末を開き、後ろへ振り返る。
「ブリーフィングします。今回の怪異は、黒妻峠に残る地域伝承型です。ネット上の拡散は限定的。なので急成長はしていませんが、発祥地に近いぶん現地では強いです」
白羽が頷く。
「発祥地型ですね」
「はい。倒してもまた出ます。場所そのものが怪異の本籍地みたいになってます。特に今回は、道路工事で祠が消えた可能性があります」
戸張が腕を組む。
「女の姿は後付けか」
「おそらく。もともとは“道返し”の性質があった。危ない道へ行く人を止める、あるいは戻す。そこに、雨の夜に女が出る事故怪談が重なった結果、“乗せたら事故る女”に変質した可能性があります」
東雲が言った。
「助けて、と言うのは?」
「それも後から混ざった語りかもしれません。事故現場で助けを求める女。置いていった男。そういう話が合流しています」
御影は黙って聞いていた。
水瀬は画面を切り替える。
「問題は、現地に残っている罪悪感の霊障です。車に乗せても乗せなくても、“置いていった”感覚を植えつけられる。運転手がパニックを起こす。結果、事故が起きる」
上原が前を見たまま尋ねる。
「物理的な干渉は」
「あります。ブレーキ異常、ハンドル操作の遅延、ドアロックの誤作動。ただし車両側の故障ではなく、運転者の認識に介入している可能性が高いです」
上原は短く返した。
「なら、俺が運転する」
水瀬が少しだけ笑う。
「もともと上原さんが運転です」
「そうだったな」
戸張が後ろから言った。
「直城、峠道で霊障に引っ張られるなよ」
「お前よりは安定している」
「ひどいな。俺の運転は美しいぞ」
「速いだけだ」
「それを美しいと言う」
白羽が低い声で言った。
「峠道で喧嘩しないでください」
東雲が微笑む。
「佐月ちゃんが一番正しいです」
黒麒麟は首都高4号新宿線から中央自動車道へ入った。
調布、府中、国立府中を過ぎる頃には雨が強くなり、路面は鈍く光っていた。
八王子方面へ向かうにつれ、街の明かりは少しずつまばらになる。
水瀬の端末に現地封鎖班からの通信が入る。
「班長、旧道入口は封鎖完了。表向きは土砂災害警戒。警察と道路管理者には特異災害対策局経由で通達済みです。ただ、地元の男性がひとり、現場に残ってます」
御影が顔を上げる。
「誰だ」
「黒妻峠の旧道沿いに住んでいた元自治会長。事故の話を聞いて、“あそこは触るなと言ったのに”と怒っているそうです」
御影は少し考えた。
「由来を知っている可能性がある。保護して話を聞く」
「了解です」
黒麒麟は中央道を下り、国道20号へ入った。
朝の車は少ない。
雨に濡れた道路の向こうに、山の影が近づいてくる。
そこから都道を抜け、さらに狭い県道へ入ると、道路は一気に山道らしくなった。
カーブが増える。
木々が道に覆いかぶさる。
ガードレールの向こうは、深い谷になっている。
上原の運転は変わらなかった。
速度は出しすぎない。
ブレーキは早い。
カーブの手前で、黒麒麟の重い車体を安定させる。
水瀬が助手席で地図を見ながら言う。
「この先、旧道入口です。右側に封鎖班。そこから黒妻峠まで約4キロ。通信が不安定になります。黒麒麟の封域ビーコンを中継にします」
「了解」
旧道入口には、現地封鎖班の車両が2台停まっていた。
道路には仮設ゲートと警告灯。
その横に、雨合羽を着た老人が立っていた。
御影たちが降りると、老人は濡れた帽子を握りしめたまま、強い目でこちらを見た。
「あんたらか。国の人間ってのは」
御影は静かに答える。
「内閣府の者です。黒妻峠について話を聞かせてください」
老人は顔を歪めた。
「あそこは、道じゃねえ。通しちゃいけねえ場所だった」
水瀬が端末を構える。
「昔、祠がありましたね」
老人の表情が変わった。
「あった。道返し様だ」
白羽が小さく呟く。
「道返し様」
老人は雨の向こうに続く旧道を見た。
「山はな、人を呼ぶんだよ。昔から、雨の日は道が変わる。知ってる道でも知らねえ場所へ行っちまう。だから、あの祠に手を合わせてから峠を越えた。危ねえ時は、道返し様が人を戻してくれるって言われてた」
東雲が尋ねる。
「女の人が立つという話は?」
「後の話だ。事故が増えてから、そう言われるようになった。白い服の女だの、乗せたら落ちるだの。だが、ありゃ違う」
「何が違うんですか」
老人は声を落とした。
「止めてたんだ。行くなって。なのに、みんな怖がって逃げた。逃げた車が落ちた。それをいつの間にか、女が事故を起こす話に変えちまった」
雨が強くなった。
御影は頷く。
「祠はどうなりました」
老人は唇を噛んだ。
「道を広げる時に、動かすはずだった。だが、工期が遅れてな。業者が面倒がって、そのまま埋めた」
上原の目が少し鋭くなった。
「道路の下か」
「ああ。事故が起きるカーブの下だ」
鷹宮が旧道の奥を見た。
「呼んでる」
全員がそちらを見る。
雨の旧道。
カーブの先。
白い何かが、一瞬だけ見えた。
老人が震える声で言った。
「見ちまったな」
御影は老人に向き直る。
「ここから先は我々が対応します。封鎖班と一緒に下がってください」
老人は御影の目を見た。
「あれを、悪いもんにするな」
御影は静かに頷いた。
「由来を間違えなければ、まだ戻せます」
老人は何か言いたげに口を開き、結局何も言わずに下がった。
御影は第一班を見た。
「ここから先は徒歩で確認する。黒麒麟は旧道入口に置き、封域ビーコンを中継。上原、前に出ろ」
「了解」
上原が盾を構え、先頭に立つ。
その後ろに御影と白羽。
戸張は右側の山肌、鷹宮は左側の谷側を見ながら進む。
水瀬は端末で霊障濃度を測り、東雲は全員の霊障反応を確認していた。
雨が強い。
アスファルトを叩く音が、山の中で大きく響く。
旧道の脇には、古いカーブミラーが点々と立っている。
どれも錆び、歪み、雨粒をまとっていた。
最初のカーブミラーに、白い女が映った。
現実の道には誰もいない。
だが、ミラーの中だけに、女が立っている。
白い服。
濡れた髪。
うつむいた顔。
水瀬が小さく言った。
「反射面にだけ顕現」
白羽が札を取り出す。
「ミラー、封じますか」
御影は首を振る。
「まだだ。道を見せている可能性がある」
女はミラーの中で、ゆっくり手を上げた。
峠の奥を指している。
戸張が眉を寄せる。
「誘っているようにも見えるな」
鷹宮が言った。
「違う」
御影が振り向く。
「何が見える」
「指しているのは奥じゃない。手前だ」
水瀬がミラー映像を拡大する。
「あ……反射だから向きが逆なんですね」
上原が前を見る。
「戻れと言っているのか」
その瞬間、道の奥から声がした。
『助けてください』
雨に混じる女の声。
東雲が静かに言った。
「返事はしないでください」
御影が頷く。
「この怪異の問いは、助けを求める声だ。答えれば、置いていった者になる」
声は続く。
『どうして』
カーブミラーの女が顔を上げる。
『どうして、置いていったの』
上原の盾に、重い何かがぶつかった。
見えない圧だった。
盾の中央で岩楯に鎮め縄の紋が光る。
上原は一歩だけ後ろへ滑ったが、すぐに踏みとどまった。
「こっちだ。後ろには行かせない」
雨が盾に弾かれる。
青白い紋が、濡れた道に反射した。
水瀬の端末が警告を鳴らす。
「霊障濃度上昇。上原さんに罪悪感干渉、来てます」
上原は低く言った。
「問題ない」
東雲がすぐに鎮札を投げた。
「問題なくはありません。上原さん、自分の記憶と混ざらないようにしてください」
上原は一瞬だけ目を細めた。
何かが見えているのだろう。
置いていった。
守れなかった。
間に合わなかった。
怪異は、そういう感覚を差し込んでくる。
戸張が上原の横に出た。
「直城」
「問題ないと言った」
「お前の問題ないは、だいたい問題ある」
上原は短く息を吐いた。
「龍一、前を見るな。ミラーだけ見ろ」
戸張は笑った。
「了解」
白羽が道路の端に結界杭を打つ。
「旧道の入口から出口まで線を引きます。水瀬さん、道路図ください」
「出します。昔の祠の位置も重ねます」
水瀬が端末から投影した地図に、白羽は札の配置を決めていく。
「ここ、ここ、あとカーブの内側。順番を間違えると道が閉じません。上原さん、あと3メートルだけ前へ出られますか」
「出る」
上原は盾を構えたまま、雨の中を進んだ。
見えない圧が何度もぶつかる。
そのたびに岩楯紋が光る。
盾の向こうで、白い女の声が重なる。
『置いていった』
『戻らなかった』
『どうして』
上原は歯を食いしばる。
「俺に聞くな」
その声は、低いが揺れていない。
「俺は、ここにいる」
鷹宮が突然、狙撃銃のケースを開いた。
水瀬が驚く。
「撃つんですか」
「撃たない」
鷹宮は霊式狙撃銃を組み、照準をカーブミラーではなく、道路の一点に合わせた。
「見るためだ」
スコープ越しに、彼の目が細くなる。
鷹宮家の家紋、鷹の目に二重円が、銃身の側面で鈍く光った。
「祠の屋根が見えた」
御影が問う。
「位置は」
「カーブの内側。今のアスファルトの下、1メートル半」
水瀬が地図を照合する。
「工事前の祠位置と一致します」
御影は頷いた。
「白羽、祠を依代として封じ直す。掘り返しは後だ。今は道を鎮める」
「はい」
白羽は札を取り出した。
「でも、地面の下にあるものへ札を通すには、上から順番に線を降ろさないといけません。時間がかかります」
声が近づいた。
『助けてください』
今度は全員のすぐ後ろから聞こえた。
水瀬が振り返りかける。
御影が言う。
「見るな」
水瀬は動きを止めた。
背後に、濡れた気配がある。
髪から滴る水の音。
白い服が擦れる音。
『助けてください』
東雲が静かに答えそうになり、唇を閉じた。
返事ではなく、別の言葉を選ぶ。
「あなたの場所を戻します」
背後の気配が止まった。
御影が東雲を見る。
東雲は小さく頷いた。
「助ける、ではなく、戻す、です」
御影は言った。
「それでいい」
戸張が刀を抜いた。
雨粒が刃に当たり、細く弾ける。
「班長、縁はどれだ」
「人と女ではない。道と罪悪感の縁だ」
戸張は笑みを消した。
「難しい注文だ」
「できるか」
「美しくはないが、やる」
上原がさらに前へ出る。
道の奥から、白い女が歩いてくる。
現実の道にも、今度は見えた。
顔は濡れた髪で隠れている。
白い服の裾から、水が滴っている。
その足元には影がない。
だが、鷹宮は女を見ていない。
「上じゃない」
彼はスコープを覗いたまま言った。
「下だ」
女の足元。
アスファルトの下。
埋められた祠。
そこから、細い黒い線が旧道全体へ伸びている。
上原の盾に、女の手が触れた。
じゅ、と音がして、盾の表面に水が染み込む。
岩楯紋が強く光る。
水瀬が叫ぶ。
「上原さん、霊障値上昇!」
上原は動かない。
「班長、あと何秒だ」
御影は白羽を見る。
「白羽」
「あと20秒ください。いや、15秒で通します」
上原は盾を押し返す。
「聞いたな。15秒だ」
女が顔を上げる。
顔が、ない。
目も口もなく、ただ雨で濡れた白い面がある。
その白い面に、いくつもの噂が浮かんだ。
雨の日に出る女。
乗せると事故る女。
置いていかれた女。
助けを求める女。
山へ帰れない女。
祠を潰された女。
道を返す女。
水瀬が呟く。
「語りが混ざりすぎてる」
御影は御影札を取り出した。
「だから、由来まで戻す」
白羽が最後の札を地面に打った。
「通りました。地下の祠へ線、落ちます」
道路の表面に、青白い線が走った。
結界杭から結界杭へ。
カーブミラーへ。
ガードレールへ。
そして、アスファルトの下へ。
戸張が刀を構える。
「直城、押さえてろ。俺が斬る」
上原は盾を構えたまま答える。
「斬るなら今だ」
戸張の刃が走った。
女と道路を結んでいた黒い線が、一本、断たれる。
続けてもう一本。
置いていった者と置いていかれた者を作る、歪んだ縁。
雨の音が一瞬だけ止まった。
御影が札を掲げる。
「御影紋、開帳」
八咫鏡に三つ藤の紋が、雨の峠道に浮かび上がった。
鏡は正体を映す。
藤は結ぶ。
三つの藤が、祓い、封じ、語りを閉じる。
白い女の姿が揺れる。
その奥から、小さな祠が見えた。
苔むした石。
割れた屋根。
泥に埋もれた古い札。
御影は言った。
「これは、事故を呼ぶ女ではない」
女の姿がさらに薄れる。
「道を返すものだ」
水瀬の端末に、霊障反応の波形が変化していく。
「名称固定、変わります。敵性反応、低下」
東雲が静かに言った。
「あなたは、置いていかれたのではありません」
雨の中、女の形がほどけていく。
「置かれた場所を、奪われたんです」
上原の盾から、圧が消えた。
白い女は、もう人の形を保っていなかった。
濡れた白い布のようなものが、雨に溶けていく。
その向こうに、古い祠の影だけが残る。
鷹宮が銃を下ろした。
「核、安定」
白羽が息を吐く。
「仮封印、成功です。でも本封印には掘り返しと遷座が必要です」
御影は頷いた。
「現地封鎖班へ伝えろ。道路管理者と調整して、旧道を全面通行止め。祠を掘り出し、元の山側へ戻す」
水瀬がすぐに通信を入れる。
「了解です。表向きは路盤下の空洞調査と土砂災害対策工事で処理します」
戸張は刀を納め、上原を見た。
「直城、大丈夫か」
上原は盾を下ろした。
「問題ない」
「だから、その問題ないは信用してない」
東雲が上原のそばに来る。
「霊障値を確認します」
「軽い」
「確認します」
上原は少しだけ困ったように黙った。
東雲が護符をかざすと、上原の肩から薄い黒い霧が浮いた。
それはすぐに鎮札へ吸い込まれる。
「やっぱり残っていました」
上原は視線を逸らす。
「少しだ」
水瀬が横から言う。
「上原さんの少し、信用度低いですね」
白羽が頷く。
「かなり低いです」
戸張が笑う。
「ほらな」
上原は全員を見て、短く言った。
「うるさい」
その声に、少しだけ空気が緩んだ。
雨は弱くなっていた。
カーブミラーを見ると、もう女は映っていない。
ただ、濡れた旧道と、曇った空が映るだけだった。
旧道入口へ戻ると、老人がまだ封鎖班のそばに立っていた。
御影が近づく。
「仮封印は完了しました。祠は掘り出し、改めて遷座します」
老人は雨に濡れた顔で、深く頭を下げた。
「道返し様は、悪いもんじゃなかったんだな」
御影は答える。
「はい。語りが変わっていました」
「そうか」
老人は旧道の奥を見た。
「昔はな、みんな手を合わせて通った。急ぐな、戻れ、無理するなって。そういう場所だったんだ」
水瀬が小さく言った。
「注意喚起の怪談だったんですね」
老人は頷いた。
「そうだ。怖がらせるためじゃねえ。帰すためだった」
その言葉を、御影は静かに受け取った。
怪異は、ただ恐怖として生まれるわけではない。
危ない場所を知らせるため。
人を戻すため。
忘れてはいけないものを残すため。
そうして語られてきたものもある。
だが、語りは変わる。
守る話が、呪う話になる。
戻すものが、落とすものになる。
人が恐れ、人が面白がり、人が違う形で伝えるうちに、怪異は別の顔を持つ。
御影は老人に言った。
「この峠の話は、正しく残してください」
老人は顔を上げた。
「正しく?」
「雨の日に女が立つ、ではなく」
御影は旧道を見る。
「雨の日は無理をするな。道返し様が戻れと言ったら、戻れ。そういう話として」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「それなら、わしにもできる」
水瀬は端末に報告を入力した。
B級伝承怪異。
通称、峠に立つ女。
真性由来、道返し様。
黒妻峠旧道再顕現事案。
被害拡大、封止。
祠遷座まで再発監視。
黒麒麟へ戻る頃には、雨は霧雨に変わっていた。
上原が運転席に乗り込む。
水瀬は助手席で濡れたメガネを拭きながら、端末を閉じた。
「帰り、どうします? 旧道は使えません。県道から国道20号へ戻って、中央道ですね」
「それでいい」
上原はエンジンをかける。
戸張が後部座席で言った。
「直城、峠道の運転は悪くなかった」
「褒めてるのか」
「褒めてる」
「なら普通に言え」
白羽が札を乾いた布で拭きながら言う。
「上原さんが前にいると、封印の順番が組みやすいです」
東雲も頷いた。
「無理はしていますけど、頼りにはなります」
「無理はしていない」
全員の視線が上原に集まった。
上原は前を見たまま黙った。
水瀬が小さく笑い、ナビを起動する。
「国道20号まで戻ります。中央道は少し渋滞。まあ、朝ですしね」
御影は窓の外を見ていた。
旧道の入口。
雨に濡れた山。
その奥に、もう女の姿はない。
だが、完全に消えたわけではない。
正しい場所に戻るまで、語りは残る。
道を返すものとして。
人を落とす怪異ではなく、人を帰す警告として。
黒麒麟はゆっくりと山道を下り始めた。
カーブミラーに、黒い車体が映る。
その隅に、一瞬だけ、白い服の女が立っているように見えた。
だが、女はもうこちらを見ていなかった。
山の奥を指していた手は、今度は下り道を指している。
戻れ。
その声は、誰の耳にも聞こえなかった。
けれど、上原はハンドルを握ったまま、少しだけ速度を落とした。
黒麒麟は国道20号へ向かい、雨上がりの山を後にした。




