3ノ語 口を裂く噂
その噂は、最初から古かった。
マスクをした女が、夜道で聞いてくる。
私、きれい?
きれいだと答えると、女はマスクを外す。
裂けた口を見せて、もう一度聞く。
これでも?
逃げても追いつかれる。
返事を間違えると、同じ顔にされる。
助かる方法は、いくつもあった。
ポマードと3回言う。
べっこう飴を投げる。
曖昧な答えをする。
きれいでも、きれいじゃないでもない言葉で逃げる。
あるいは、振り向かずに走る。
昭和から平成へ、平成から令和へ。
子どもたちは世代を越えて、その噂を知っていた。
ただし、今の子どもたちはそれを夜道だけで聞くわけではない。
ショート動画のコメント欄。
加工アプリのフィルター。
自撮り写真のおすすめ欄。
匿名掲示板の古い怪談まとめ。
そこにも、彼女は現れる。
『このフィルター、口裂け女になれるらしい』
最初は、ただの遊びだった。
女子高校生が、加工アプリで顔を変えた。
目を大きくし、肌を白くし、唇を赤くし、口元に裂けたようなエフェクトを入れる。
動画の中で、彼女は笑いながら言った。
『私、きれい?』
それだけなら、よくある悪ふざけだった。
だが、投稿から2時間後。
同じ音声を使った動画が増えた。
同じエフェクトを真似する者が増えた。
昔の口裂け女の話を知らない子どもたちも、面白がって同じ言葉を使った。
『私、きれい?』
『これでも?』
そして、誰かが書いた。
『夜にこの音源使うと、本物が来るらしい』
別の誰かが書いた。
『助かるにはポマードって3回言えばいい』
さらに別の誰かが書いた。
『いや、今はポマードじゃ効かない。加工を外せって言えば逃げられる』
噂は古い形を残したまま、新しい皮膚をまとっていった。
翌日の夜、東京都西部の架空名称・神森町で、女子高校生が救急搬送された。
口元を鋭利な刃物で切られたような傷。
だが、凶器は見つからなかった。
防犯カメラには、彼女がひとりで歩いている姿しか映っていない。
ただ、搬送時、彼女は何度も同じことを繰り返していた。
「答えちゃだめだった」
その動画は、まだ消えていなかった。
霞ヶ関地下封域の解析室で、水瀬は両手で頭を抱えていた。
「来ました。最悪のやつです」
モニターには、無数の自撮り動画が並んでいる。
制服姿の女子高生。大学生。会社帰りの女性。仮装した若者。
その誰もが、同じ音源を使っていた。
『私、きれい?』
加工された唇が、画面の中で赤く歪む。
水瀬は画面を止め、音声波形と投稿分布を同時に表示した。
「都市伝説系怪異。暫定A級予備。元の知名度が高すぎます。古い噂としての蓄積がある上に、今のSNS拡散で再加速してます。しかも、対処法コメントが増えすぎてる」
東雲が横から画面を見た。
「ポマード、という言葉が多いですね」
「昔の対処法です。問題はそこです。対処法が広まると、怪異のルールが固定されます。固定されると対処しやすくなる反面、怪異自体の輪郭が強くなる。今は“ポマードで助かる口裂け女”と“加工を外せで助かる現代版”が混ざって、変な進化をしています」
「被害者は?」
「搬送された女子高校生が1名。軽傷とは言いにくいですけど、命に別状はありません。ほかに、口元の違和感、鏡に映る顔の歪み、スマホのインカメラが勝手に起動する報告が21件」
そこへ御影が入ってきた。
水瀬は椅子を回し、すぐに報告を始める。
「神森町周辺で口裂け女型の怪異反応。発生源はショート動画の自撮り音源ですが、元になっているのは広域都市伝説。分類はB級以上、拡散状況次第でA級化します」
御影はモニターを見る。
画面の中で、加工された少女が笑う。
『私、きれい?』
御影は静かに言った。
「名前を出すな」
水瀬が頷く。
「はい。外部資料では“口を裂く噂”として処理しています。ただ、ネット上ではもう名称が大量に出ています」
「対処法は」
「最悪です。古い対処法と新しい対処法が混在しています。ポマード、べっこう飴、曖昧な返事、逃げる、加工を外せ、マスクを取るな、コメントするな、いいねを押すな。ルールが増えすぎて、逆に怪異の行動範囲が広がってます」
御影の表情は変わらない。
「由来が強い怪異ほど、語りの分岐が多い」
「はい。しかも今回、加工アプリが最悪の燃料です。“きれいかどうか”を自分で確認する行為が、怪異の問いと接続しています」
上原が装備庫側から入ってきた。
「出るか」
「出る」
御影は言った。
「現場は」
水瀬は地図を表示した。
「神森町。架空名称です。実際の移動は霞ヶ関から桜田通り、内堀通り、首都高都心環状線を経由して4号新宿線。現場は甲州街道から少し入った住宅街と商店街の境目です。夜間に人通りが減る道が多いです」
戸張が刀袋を肩に担いで入ってきた。
「口を裂く女か。美しくない斬り方になりそうだな」
東雲が少しだけ眉を上げる。
「戸張さん、今回は女性型怪異です」
「わかってる。だから余計に言葉を選んでいる」
「それで?」
「……気をつける」
白羽が札束を抱えたまま言った。
「広域都市伝説は嫌いです。札を貼る場所が多すぎます」
水瀬が即答する。
「今回は場所より、問いです」
「問い?」
「“私、きれい?”という問いかけが発火点です。返事をした時点で関係が結ばれる。そこを戸張さんが斬る。白羽さんは、現場の鏡面とスマホ画面に封札を噛ませます」
白羽はじっと水瀬を見た。
「スマホ画面に紙札は貼れますか」
「貼らないでください。怒られます」
「なら、どうするんですか」
「デジタル護符です」
「またそれですか」
「またそれです」
鷹宮が入口に立っていた。
「映像を見た」
御影が振り返る。
「何が見えた」
「口じゃない。マスクでもない。鏡だ」
水瀬が画面を切り替える。
「被害者の投稿前後の行動ログを出します。……あ」
モニターに、防犯カメラ映像が出た。
神森町駅前の商業ビル。
化粧室の鏡の前で、被害者の女子高校生がスマートフォンを構えている。
その背後の鏡に、マスクをした女が映っていた。
だが、実際のカメラ映像には誰もいない。
「鏡面にだけ映ってる」
水瀬が呟いた。
鷹宮は短く言った。
「入口は、駅前ビルの化粧室」
御影が頷く。
「黒麒麟を出す。水瀬、移動中に投稿分布と現場導線を出せ」
「了解です」
黒麒麟は霞ヶ関地下封域を出た。
上原が運転席。
水瀬が助手席。
後部座席に御影、戸張、東雲。
さらに後ろに白羽、鷹宮、装備ラック。
車両は桜田通りへ出て、霞ヶ関の官庁街を抜けた。
内堀通りに入ると、夜の皇居外苑が黒い水面のように窓の外を流れていく。
祝田橋を過ぎ、霞が関入口から首都高都心環状線へ上がる。
黒麒麟は重い車体を揺らさず、4号新宿線へ入った。
水瀬は助手席で端末を3枚展開し、後部座席へ向けて早口で説明を始めた。
「ブリーフィングします。今回の怪異は、昔から有名な都市伝説を核にしています。大人世代には“知ってる怖い話”。子ども世代には“動画で見た怪異”。つまり、懐かしさと新しさの両方から語られてます」
戸張が腕を組む。
「昔は夜道で会う女だった」
「今は画面越しにも来ます。自撮り、インカメラ、加工アプリ、鏡、ショート動画。全部、“自分の顔を見る”行為に繋がっています。怪異の問いが、現代だとすごく刺さるんです」
東雲が静かに言った。
「きれいかどうか、ですか」
「はい。特に10代の投稿が多いです。加工した顔と本当の顔のズレ。コメント欄の評価。可愛い、可愛くない、盛れてる、加工しすぎ。そういう言葉が、怪異の問いに吸われています」
白羽が少し不快そうに言う。
「嫌な噂ですね」
「はい。昔から嫌な噂です。でも今は、拡散の仕方が違う。誰かが夜道で見た話じゃなくて、全員が自分の顔で再現できるんです」
上原が前を見たまま言った。
「現場まで」
「あと19分です。永福料金所を越えたら、甲州街道方面へ。神森町駅前の架空商業施設、カミモリスクエア。実在施設とは別名処理です」
御影が聞く。
「被害者の状態は」
東雲が医療端末を確認する。
「口元の裂傷は深いですが、霊障由来の傷です。通常の縫合だけでは再発する可能性があります。今は鎮札で抑えています」
水瀬が画面を切り替える。
「問題は、同じ音源を使った子たちです。今夜、“本物検証”とか言って神森町に集まり始めています」
上原の声が低くなる。
「人数は」
「確認できるだけで23人。未成年含む。しかも“ポマード持っていけば大丈夫”みたいな投稿が広まってます」
戸張が舌打ちした。
「対処法が招待状になっているな」
「そうです。怪異側からすれば、答える準備をして来てくれる人間が増えてる状態です」
御影は静かに言った。
「水瀬、拡散遮断。現地に向かう投稿を下げろ」
「やってます。でも完全には無理です。別の言い方に変えられると追い切れません。“Kさんに会いに行く”とか“マスクの人チャレンジ”とか」
白羽が札を整えながら言う。
「現地で封じた方が早いですね」
「はい。ただし発祥地ではありません。今回は“再顕現地点”です。広域怪異なので、ここを封じても完全には止まりません」
御影が窓の外を見る。
「完全に止める必要はない。今夜の被害を止める」
黒麒麟は首都高を下り、甲州街道へ入った。
夜の道路にはまだ車が多い。
コンビニ、マンション、古い商店、閉店した美容室の看板。
神森町駅へ近づくにつれ、若者の姿が増えた。
水瀬の端末が警告を鳴らす。
「現場周辺、投稿密度上昇。駅前に未成年グループ。音源を流してます」
上原が黒麒麟を路肩へ滑り込ませる。
「降りるぞ」
カミモリスクエアは、駅前にある中規模の商業施設だった。
表向きは臨時設備点検という名目で、現地封鎖班が一部フロアを閉鎖している。
だが、完全な封鎖には至っていない。
駅前には、スマートフォンを構えた若者たちが数人集まっていた。
「ねえ、本当に出るの?」
「ポマード言えば平気らしいよ」
「てか動画撮ったらバズるって」
その声を聞いて、水瀬が顔をしかめた。
「もう完全に餌場です」
御影は上原を見る。
「駅前を押さえろ。危険な投稿者は現地封鎖班へ渡せ」
「了解」
上原が無言で歩き出す。
大柄な黒い戦闘服の男が近づくだけで、若者たちの笑い声は少し小さくなった。
「ここから先は立入禁止だ」
「え、警察?」
「戻れ」
「いや、動画撮ってるだけなんですけど」
上原は声を荒げない。
「戻れ」
それだけで、数人は後ずさった。
水瀬は端末で周辺の音源再生を検知していた。
「音源、3件再生中。止めます」
水瀬がデジタル護符を起動すると、若者たちのスマホが一斉に通信エラーを表示した。
「え、圏外?」
「なんで?」
「最悪」
白羽が小声で言う。
「ちょっと気持ちいいですね」
「白羽さん、今の顔ちょっと悪いです」
「気のせいです」
御影、戸張、東雲、鷹宮は施設内へ入った。
水瀬は入口付近に残り、黒麒麟の封域ビーコンと連携して通信遮断範囲を調整する。
「班長、化粧室は2階東側です。防犯カメラ上では一般客なし。ただし鏡面反応あり」
御影がインカムで答える。
「了解」
2階の通路は静かだった。
シャッターの下りた店舗。
閉店後の照明。
床に反射する白い光。
その奥に、女性用化粧室の入口があった。
東雲が言う。
「私が先に入ります」
戸張が眉を上げる。
「危険だ」
「女性用です」
「それはそうだが」
御影が静かに言った。
「東雲、入れ。上原、入口を押さえろ。戸張は外で待機。白羽、鏡面封札を準備」
白羽が頷く。
「はい」
東雲は短刀と鎮札を手に、化粧室へ入った。
中は清掃されたばかりのようにきれいだった。
洗面台が3つ。
壁一面の鏡。
白い照明。
だが、鏡の中だけが暗い。
東雲はゆっくり歩く。
鏡の奥に、誰かが立っていた。
マスクをした女。
長い髪。
白いコート。
鏡の中では、東雲の背後にいる。
だが、現実の背後には誰もいない。
インカムに水瀬の声が入る。
「真白さん、鏡面反応上昇。気をつけてください」
東雲は鏡の中の女を見た。
女が、ゆっくり首を傾ける。
『私、きれい?』
その声は、鏡の中から聞こえた。
東雲は答えなかった。
怪異はまた尋ねる。
『私、きれい?』
返事をしてはいけない。
否定しても、肯定しても、問いに入ってしまう。
東雲は鏡から目を逸らさず、鎮札を洗面台へ置いた。
「あなたの傷を診ます」
鏡の中の女が止まった。
外で待機していた御影が、わずかに目を細める。
問いに答えず、役割を変えた。
東雲は続ける。
「きれいかどうかではなく、どこが痛むのかを教えてください」
鏡の中の女の肩が震えた。
マスクの下で、何かが動く。
その瞬間、施設内のすべての鏡と窓ガラスに、赤い文字が走った。
『私、きれい?』
水瀬が入口で叫んだ。
「拡散しました! 鏡面反応、施設全体に広がってます!」
白羽が札を投げる。
「鏡に触らないでください!」
戸張が刀を抜いた。
通路のショーウィンドウに、マスクの女が映る。
エスカレーター横のガラスにも映る。
黒麒麟の窓にも、駅前のスマホ画面にも、同じ女が映った。
若者のひとりが悲鳴を上げた。
「出た!」
別の若者が、震えながらスマホを向ける。
「撮れ、撮れって!」
上原がその前に立った。
「撮るな」
スマホ画面に、マスクの女が映り込んでいる。
『私、きれい?』
若者が口を開きかけた。
上原がスマホを手で覆う。
「答えるな」
水瀬が封域ビーコンを最大にする。
「黒麒麟、封域展開。半径60メートル、一般回線ノイズ化。音源投稿、遮断します!」
駅前のスマホが次々と通信不能になる。
だが、怪異はもう通信だけにいない。
鏡面、ガラス、画面。
反射するものすべてを入口にしている。
鷹宮が2階通路で低く言った。
「本体は鏡じゃない」
御影が聞く。
「どこだ」
「最初に映った被害者の顔。加工された顔だ」
水瀬の声が飛ぶ。
「つまりアプリ内の加工データが依代です! でもサーバー上にあります。物理的に撃てません!」
戸張が笑う。
「今日は本当に刀の出番が難しいな」
御影が言う。
「縁を斬れ。問いと返事の縁だ」
戸張の表情が変わった。
「なるほど。それなら斬れる」
化粧室の中で、東雲は鏡の女と向き合っていた。
女がマスクに手をかける。
『これでも?』
東雲は答えない。
「見せなくていいです」
女の動きが止まる。
「あなたの傷は、誰かに見せるためのものではありません」
鏡にひびが入った。
水瀬が叫ぶ。
「真白さん、その言い方、効いてます! 怪異の問いが崩れてます!」
白羽が化粧室の入口に札を貼る。
「入口閉じます。戸張さん、斬るなら今です」
戸張は通路の中央に立ち、刀を構えた。
鏡、ガラス、スマホ画面。
そこから伸びる無数の赤い糸。
問いに答えようとする人間の口元へ絡みつく縁。
戸張は息を吐く。
「俺の刀を抜かせたんだ。少しは美しく終われ」
刃が走った。
何かが切れる音がした。
駅前で口を開きかけた若者が、はっと息を呑む。
スマホ画面の中の女が遠ざかる。
通路のガラスに映っていた女が薄くなる。
御影が御影札を取り出す。
「水瀬、加工データの発信元を出せ」
「出します。元音源、元フィルター、投稿者、編集履歴……出ました。最初の自撮りフィルターは、一般ユーザー作成のものに見えますが、素材に古い怪談画像が混ざってます。出所不明。誰かが意図的に撒いた可能性あり」
御影の目が少しだけ鋭くなった。
「語りを売る者か」
「まだ断定できません。でも、自然発生にしては導線がきれいすぎます」
御影は札を鏡へ向けた。
「今は止める」
鏡の中の女が、初めて東雲ではなく御影を見た。
『私、きれい?』
御影は答えない。
「問いを閉じる」
札に、八咫鏡に三つ藤の紋が浮かび上がる。
「御影紋、開帳」
青白い光が鏡面を満たした。
白羽の札が周囲の反射を押さえ、戸張が残った赤い糸を斬る。
上原は駅前で若者たちの前に立ち、怪異の視線を盾で受け止める。
水瀬はデジタル護符を加工データへ流し込み、拡散中の音源を無効化していく。
東雲は鏡の女に向かって、静かに言った。
「あなたは、答えを求めなくていい」
女のマスクが落ちた。
裂けた口が見えるはずだった。
だが、そこにあったのは、赤い傷ではなく、幾重にも重ねられた文字だった。
『きれい』
『こわい』
『ブス』
『加工』
『本物?』
『盛れてる』
『口裂け』
『これでも?』
無数の言葉が、口の形を作っていた。
水瀬が歯を食いしばる。
「コメントで口を作ってる……」
御影は言った。
「白羽」
「はい」
「閉じろ。ただし、消すな。問いだけを封じる」
白羽は頷き、鏡の四隅へ札を打った。
「問いを起こすもの、返事を求めるもの、視線を奪うもの、口を開かせるもの。ここに順を閉じます」
札の線が鏡面に広がる。
戸張が最後の糸を斬った。
水瀬の画面で、問題の音源が次々と使用不能になる。
完全削除ではない。
しかし、再生しようとすると、音声がただのノイズに変わっていく。
怪異の女は、鏡の奥へ下がっていった。
最後に、かすかな声が聞こえた。
『……わたしは』
東雲が言う。
「あなたの名前は、まだ見えていません」
女の姿が揺れる。
「でも、誰かの評価でできたものではないはずです」
鏡が白く曇った。
そして、何も映らなくなった。
施設内の照明が戻る。
駅前のスマホ画面から、マスクの女は消えていた。
若者たちは、呆然と立ち尽くしている。
上原は低い声で言った。
「帰れ」
誰も反論しなかった。
水瀬が端末を確認する。
「拡散停止。問題の音源は使用不能化。関連ハッシュタグは検索誘導済みです。被害者の霊障反応も低下しています。ただし、元ネタそのものは封じられません」
御影は鏡を見た。
「当然だ。広域都市伝説は、ひとつの現場で終わらない」
戸張が刀を納める。
「今夜の女は閉じた、というところか」
「そうだ」
白羽が札を回収しながら言う。
「でも、対処法がまた増えたらどうしますか」
水瀬が苦い顔をする。
「それが問題です。“加工を外せで助かる”とか“答えなければ平気”とか、また誰かが書くと思います。そうなると別の形で出ます」
御影は静かに言った。
「対処法は公表しない。今回の件は、加工アプリの不具合と悪質投稿として処理する」
東雲が化粧室から出てきた。
「問いに答えない、というのは対処法になりますか」
「なる。だから広めない」
水瀬は端末に報告を入力した。
「怪異名は?」
「口を裂く噂」
「了解。正式名称は伏せます」
鷹宮が鏡を見たまま言った。
「作った者がいる」
御影が振り返る。
「見えたか」
「一瞬だけ。女の後ろに、別の手があった」
水瀬の指が止まった。
「フィルターを作った人間ですか」
「人間かどうかは分からない」
戸張がわずかに笑みを消した。
「いよいよ出てきたか。語りをいじる連中が」
御影はしばらく黙っていた。
そして言った。
「水瀬、元フィルターの投稿経路を追え。削除された痕跡も含めて洗う」
「はい」
「白羽、鏡面封札の残りを施設に置く。東雲、被害者の術後経過を監視。上原、駅前の群衆を散らせ。戸張と鷹宮は周辺に残存反応がないか確認」
全員が動き出す。
その夜、神森町では、臨時設備点検によってカミモリスクエアの一部フロアが閉鎖されたことになった。
駅前に集まった若者たちは、通信障害と警備員の注意で帰された。
動画は完全には消えなかったが、問題の音源は使えなくなり、加工フィルターは不具合として配信停止になった。
だが、噂は残る。
昔、口を裂いた女がいた。
夜道で、私きれい、と聞いてきた。
今は、スマホの画面にも出るらしい。
加工した顔で問いかけると、鏡の中に立つらしい。
完全には閉じられない。
だからアラハバキは、残った語りを監視する。
帰りの黒麒麟は、甲州街道から首都高4号新宿線へ戻った。
上原は黙って運転している。
助手席の水瀬は、端末を膝に置いたまま、まだ検索結果を追っていた。
戸張が後部座席から言う。
「玲央ちゃん、今日は大活躍だったな」
「だからちゃん付けやめてください。あと今回は東雲さんです。問いをズラしたの、あれが効きました」
東雲は少し困ったように笑った。
「診ます、と言っただけです」
白羽が後ろから言う。
「それがすごいんです。普通、あの場面で診ようとは思いません」
上原が前を見たまま短く言った。
「助かった」
東雲は静かに頷く。
「怪異でも、人の傷に似たものを持っている時がありますから」
御影は窓の外を見ていた。
夜の首都高を、黒麒麟は霞ヶ関へ向かって走る。
ビルの明かりがガラスに流れ、その一瞬一瞬に、誰かの顔が映っては消える。
水瀬の端末に、小さな通知が入った。
削除済みのアカウント。
投稿履歴なし。
プロフィール画像なし。
ただひとつ、問題の加工フィルターを最初に配布した痕跡だけが残っていた。
アカウント名は、文字化けしている。
だが、水瀬には、その中の一部が読めた。
語。
「班長」
御影が視線を向ける。
「例のフィルター、自然発生じゃないです。誰かが撒いてます」
御影は目を細めた。
「追えるか」
「やります。でも、相手はたぶん怪異の拡散方法を分かってます。かなり厄介です」
戸張が言う。
「語りを売る者たち、か」
車内に少しだけ沈黙が落ちた。
御影は静かに報告書の最後を入力した。
B級広域怪異。
通称、口を裂く噂。
神森町再顕現事案。
被害拡大、封止。
残存語り、監視継続。
外部干渉の疑いあり。
黒麒麟は霞ヶ関出口へ向かう。
その頃、どこかの部屋で、誰かが画面を見ていた。
配信停止になったはずの加工フィルター。
使えなくなったはずの音源。
消されたはずの投稿ログ。
そのすべてを見ながら、男とも女ともつかない声が笑った。
「やはり、御影は閉じるのが早い」
画面には、次の企画書のようなものが開かれている。
タイトルは、こう書かれていた。
百話到達プロジェクト。
「なら、もっと語らせよう」
その指が、投稿予約のボタンを押した。




