17ノ語 痛みを預かる診療所
雨の日だけ開く診療所がある。
看板は古い。
白い壁は少し黄ばんでいる。
入口には、青いビニール傘が何本も立てかけてある。
受付には誰もいない。
待合室には長椅子があり、壁には手書きの紙が貼られている。
痛いところを、お預かりします。
診察券はいらない。
保険証もいらない。
名前を言う必要もない。
診察室へ入って、痛い場所を伝えるだけでいい。
帰る頃には、痛みは消えている。
腰痛。
頭痛。
古傷。
眠れないほどの胸の痛み。
どんな痛みでも、診療所は預かってくれる。
ただし、痛みを置いて帰った人は、なぜ痛かったのかを少しずつ忘れる。
埼玉県西部の山沿いを走る県道。
雨が降ると霧が出やすく、夜は街灯も少ない。
沿道には小さな集落と畑が点在し、古い工場跡や閉店した商店が残っている。
その道沿いに、昔は小さな診療所があった。
春日野診療所。
地域の人々は、春日野先生と呼ばれていた老医師のもとへ、風邪でも怪我でも駆け込んだ。
救急車がすぐに来ない時代。
大きな病院へ行くにも車で時間がかかる。
春日野診療所は、町の人間にとって最後の灯りだった。
しかし、20年以上前に閉院している。
建物も取り壊された。
今では、その場所には小さな資材置き場があるだけだった。
異変が最初に確認されたのは、梅雨の終わりだった。
深夜、配送の仕事をしていた男性が、強い腰痛に耐えきれず路肩へ車を停めた。
雨が激しく、前もよく見えない。
男性が運転席で身体を丸めていると、フロントガラスの向こうに明かりが見えた。
県道脇の古い建物。
白い看板に、春日野診療所と書かれていた。
男性は、まだ診療所が残っていたのかと思った。
夜中なのに、入口の灯りがついている。
扉には診療中の札。
腰の痛みに耐えながら、男性は中へ入った。
待合室には誰もいなかった。
受付にも人はいない。
呼び鈴を押すと、奥から白衣の男性が出てきた。
年齢はわからない。
髪は白い。
顔は穏やか。
眼鏡の奥の目だけが、妙に暗かった。
「どこが痛みますか」
医師はそう聞いた。
男性は腰を押さえた。
「昔、仕事で痛めてからずっとで、今日は特に」
医師は頷いた。
「では、お預かりします」
男性は診察台へ横になった。
注射もされなかった。
薬も出なかった。
医師は腰へ手を当て、しばらく目を閉じただけだった。
冷たい指だった。
数秒後、男性の腰痛は消えた。
長年苦しんだ痛みが、嘘のようになくなった。
「すごいですね」
男性は身体を起こした。
「何をしたんですか」
医師は、小さなガラス瓶を棚へ置いた。
透明な瓶の中に、黒い煙のようなものが揺れている。
「痛みを預かりました」
「料金は」
「必要ありません」
男性は何度も頭を下げ、診療所を出た。
雨はまだ降っていた。
車へ戻り、運転を再開する。
腰は軽い。
それなのに、妙な違和感があった。
自分が長距離配送の仕事を始めた理由を思い出せない。
家族を養うためだった気がする。
借金を返すためだった気もする。
何か大切な理由があった。
だが、思い出せない。
数日後、男性は妻から古い写真を見せられた。
若い頃の自分。
隣には弟がいる。
工事現場で事故に遭い、弟を庇って腰を負傷した。
それをきっかけに現場仕事を辞め、配送業へ移った。
男性は写真を見ても、弟のことを思い出せなかった。
弟は10年前に亡くなっている。
写真に写っている人物が、本当に自分の弟だったという実感がない。
腰の痛みと一緒に、弟の記憶まで消えていた。
同じ頃、近隣では似たような話が増えていた。
膝の痛みが消えた老人は、亡くなった妻と登った山を忘れた。
出産後から続いていた頭痛が消えた女性は、子どもが生まれた日の記憶を失った。
交通事故の傷が痛まなくなった若者は、一緒に乗っていた友人の顔を思い出せなくなった。
誰も、診療所が怪しいとは思わなかった。
痛みはなくなっている。
むしろ感謝していた。
忘れたことにも、すぐには気づかない。
人は、思い出せないものを自分から探そうとはしない。
事案が表に出たのは、ひとりの少女が母親を忘れたからだった。
高校1年生の北村凛。
幼い頃、母親と一緒に交通事故に遭った。
母親は死亡。
凛は右腕に大きな傷を負った。
傷は治っている。
だが、雨の日になると古傷が痛んだ。
ある夜、塾から帰る途中に雨が強くなり、父親の迎えを待っていた凛は、道路の向こうに春日野診療所を見つけた。
腕の痛みに耐えきれず、中へ入った。
医師は言った。
「それは、長く持ちすぎましたね」
凛は右腕を押さえた。
「雨の日だけ、痛いんです」
「痛みには、理由があります」
「治せますか」
「預かることはできます」
凛は少し迷い、頷いた。
医師は傷へ手を当てた。
痛みが消える。
ガラス瓶の中に、赤黒い煙が入る。
凛は診療所を出た。
父親の車へ乗った時、助手席に飾られている写真を見た。
自分と、知らない女性が写っている。
「この人、誰?」
父親は冗談だと思った。
だが、凛は本当に母親を覚えていなかった。
名前も。
声も。
事故の日のことも。
母親が亡くなったという事実すら、他人の話にしか聞こえない。
父親はすぐに病院へ連れていった。
脳に異常はない。
事故の記憶だけが、きれいに抜け落ちている。
父親は、凛が話した診療所を探した。
だが、県道沿いに建物はなかった。
資材置き場があるだけだった。
警察が過去の事故歴と周辺の相談記録を調べた結果、似た記憶障害が複数確認された。
そこから現地封鎖班へ連絡が入り、霞ヶ関地下封域へ報告が上がった。
東雲は、北村凛の記録を長い時間見ていた。
右腕の傷。
消えた痛み。
母親の記憶。
水瀬は解析室で、雨天時の道路映像を並べている。
「診療所が映る場所が一定じゃありません」
モニターには、複数の車載カメラ映像が表示されていた。
同じ県道。
同じ雨。
だが、診療所は道路の右側に出る時もあれば、左側に出る時もある。
資材置き場の前。
廃工場の隣。
山道の入口。
映像ごとに場所が違う。
「雨の中で、痛みを抱えている人の近くへ出ています」
御影が問う。
「春日野診療所の医師は」
「実在しました、春日野宗一郎、地域医療に50年以上従事、閉院の2年後に死亡しています、ただし、診療所で医療事故や怪しい治療をしていた記録はありません」
東雲が資料を見た。
「むしろ評判のいい先生です」
「はい、無償診療も多かったようです、夜間でも患者を断らなかった、特に事故や怪我の痛みを診るのが上手かったと」
戸張が言う。
「善人が怪異になったのか」
御影は首を振る。
「本人とは限らない」
白羽が古い診療所の図面を見ていた。
「ガラス瓶の記録があります」
水瀬が振り返る。
「何ですか」
「診療所の薬品管理簿です、鎮痛剤や消毒液とは別に、番号だけ書かれた小瓶が大量に保管されていたみたいです、閉院時に処分された記録はありません」
東雲が眉を寄せる。
「春日野先生が、本当に痛みを瓶へ移していた?」
御影は言った。
「術者だった可能性がある」
水瀬が調べる。
「春日野家、古い医家です、江戸後期から地域で治療をしていた記録あり、表向きは医師ですが、家紋や術式の登録はありません」
白羽が小さく言った。
「隠していた家系かもしれません」
鷹宮は、診療室を撮影した唯一の画像を見ていた。
被害者が診察中に、偶然スマートフォンで撮ったものだった。
白衣の医師。
棚に並ぶガラス瓶。
鷹宮が言う。
「医者はいない」
東雲が顔を上げる。
「誰が治療しているんですか」
「瓶だ」
水瀬が画像を拡大する。
棚には数百本の瓶がある。
黒い煙。
赤い煙。
白く濁ったもの。
瓶の内側へ貼りつく手形のような影。
医師の姿は、瓶が重なって人の形に見えているようにも見えた。
御影は静かに言った。
「春日野が預かった痛みが、診療所を続けている」
東雲は画面から目を離さない。
「痛みだけではない」
「記憶も一緒に入っている」
「はい」
痛みは、記憶から切り離せない。
傷ついた場所。
失った人。
助けられなかったこと。
生き残ったこと。
身体が覚えているから、痛むこともある。
その痛みだけを抜こうとすれば、結びついた記憶まで持っていかれる。
水瀬が問う。
「目的は善意ですか」
御影は答えなかった。
東雲が代わりに言う。
「善意だったとしても、今は治療ではありません」
声は穏やかだった。
だが、はっきりしている。
「本人に説明せず、大切なものまで取っている」
御影が東雲を見る。
「お前が見るか」
「はい」
東雲は迷わなかった。
「痛みを返します」
白羽が少し不安そうに言った。
「返したら、みんなまた痛くなるんですよね」
「全部は返しません」
東雲は画面の瓶を見た。
「痛みと記憶を分けます」
戸張が言う。
「できるのか」
「わかりません」
東雲は正直に答えた。
「でも、やるしかありません」
黒麒麟は午後から降り始めた雨の中を走っていた。
霞ヶ関から首都高へ入り、関越道を西へ。
鶴ヶ島方面から一般道へ下り、県道を山側へ進む。
ワイパーが一定の間隔で雨を払う。
水瀬は助手席で、過去の被害者一覧を見ていた。
「確認できた人は11人、そのうち7人が記憶欠損を自覚、残り4人は家族が違和感を訴えています」
上原が問う。
「全員、現場へ連れてくるのか」
「無理です、今日は北村凛さんだけ、現地封鎖班の車両で待機しています、診療所を出すには、実際に痛みを預けた人が必要かもしれません」
東雲が言う。
「本人の同意は」
「取っています、ただし母親の記憶が戻る保証も、腕の痛みが戻る可能性も説明済みです」
白羽が小さく聞く。
「それでも戻したいって?」
東雲は頷いた。
「写真に写っている人を、他人のままにしたくないそうです」
戸張は窓の外を見る。
「痛みがなくても、失ったことはわかるか」
「わかるから苦しいんです」
東雲の答えは短かった。
車内が少し静かになる。
しばらくして、水瀬が言った。
「診療所が現れる条件、雨と痛みだけじゃないかもしれません」
御影が問う。
「他には」
「被害者は全員、痛みを誰にも言っていません、我慢していた人ばかりです」
北村凛も、父親に腕の痛みを隠していた。
母親を思い出して父親が悲しむと思ったから。
配送業の男性も、腰痛を会社にも妻にも隠していた。
老人も、家族へ迷惑をかけたくないと膝の痛みを黙っていた。
東雲は窓の雨を見た。
「言えない痛みを探している」
御影が言う。
「預ける者がいない痛みか」
白羽が困ったように言った。
「それだと、少し優しく聞こえます」
戸張が答える。
「優しいものほど、拒みにくい」
東雲は何も言わなかった。
県道へ入ってから30分。
雨がさらに強くなる。
山の斜面から霧が下り、視界が狭くなった。
現地封鎖班の車両が後方からついてくる。
その車には北村凛と父親が乗っている。
水瀬の端末に霊障反応が出た。
「前方、300メートル、建物反応」
上原が速度を落とす。
ワイパーが雨を払った瞬間、道路の左側に白い明かりが見えた。
春日野診療所。
古い木造建築。
入口の看板。
傘立て。
診療中の札。
さっきまで、そこには資材置き場しかなかった。
上原が黒麒麟を路肩へ停める。
水瀬が外部カメラを確認した。
「映像には映ってます、でも位置情報上は建物なし、道路幅も変わっています」
御影が指示する。
「東雲、北村親子と入れ、白羽が同行、水瀬は外から診療所の構造を固定、上原と戸張は入口確保、鷹宮は瓶の核を探せ」
東雲が医療キットを持つ。
「班長は」
「春日野の術式を確認する」
北村凛が車から降りた。
雨具のフードを被っている。
右腕を左手で押さえているが、痛みはない。
父親が傘を差しかける。
「本当に行くのか」
凛は頷く。
「お母さんのこと、思い出したい」
「思い出さなくても、お母さんはお母さんだ」
父親の声は震えていた。
凛は少しだけ顔を伏せる。
「でも、私には知らない人だよ」
父親は何も言えなかった。
東雲がふたりのそばへ来る。
「中では、何を言われてもすぐに治療を受けないでください」
凛が頷く。
白羽は診療所の入口に札を貼る。
「帰る場所を固定します、診療所が移動しても、この扉へ戻れるように」
戸張が言う。
「病院で迷子は勘弁だな」
白羽が振り返る。
「戸張さんも入口から動かないでください」
「俺もか」
「勝手に診察室へ入りそうなので」
「信用がないな」
上原が言う。
「ない」
東雲たちは診療所へ入った。
待合室には、雨音がほとんど聞こえなかった。
外の雨が嘘のように静かだ。
長椅子。
古い時計。
薬品棚。
壁に貼られた紙。
痛いところを、お預かりします。
受付には誰もいない。
凛が小さく言う。
「ここです」
廊下の奥から、白衣の医師が現れた。
春日野宗一郎の古い写真と同じ顔だった。
だが、顔色が白すぎる。
眼鏡の奥に目がない。
「お戻りになりましたか」
医師が凛へ言った。
「まだ痛みますか」
凛は右腕を見る。
「痛くないです」
「では、何を求めて」
「返してほしい」
「何をでしょう」
「お母さんの記憶」
医師は穏やかに首を振った。
「当院は痛みを預かる場所です、記憶は預かっておりません」
東雲が言う。
「嘘です」
医師が彼女を見る。
「医療従事者ですか」
「はい」
「でしたら、痛みを取り除くことの価値はおわかりでしょう」
東雲は医師を見返した。
「痛みを取ることと、患者から理由を奪うことは違います」
「理由があるから痛むのです」
「だから、説明と同意が必要です」
医師は少しだけ笑った。
「痛みの中にいる者は、説明など求めません」
「それでも説明します」
東雲の声は変わらない。
「求められなくても、しなければいけないことがあります」
医師の笑みが消えた。
待合室の時計が止まる。
廊下の両側に、診察室の扉が増えた。
一枚。
二枚。
三枚。
扉の向こうから、人の呻き声がする。
「痛い」
「眠れない」
「取って」
「もう思い出したくない」
凛の父親が顔を強張らせる。
白羽が札を構える。
「診療所が広がってます」
外の水瀬から通信が入る。
『建物面積、増加、県道側へは出てませんが、内部だけ拡張しています』
御影の声が続く。
『東雲、瓶の場所を探せ』
「わかりました」
東雲は凛を見る。
「診察を受けた部屋を覚えていますか」
「廊下の一番奥」
今は、廊下の奥が見えない。
無数の扉が続いている。
鷹宮の声が通信に入る。
『一番静かな部屋だ』
東雲が廊下を見た。
呻き声。
泣き声。
助けを求める声。
その中で、ひとつだけ音のない扉がある。
「行きます」
医師が前に立つ。
「患者を苦しませるおつもりですか」
東雲は止まらない。
「痛みを返すだけではありません」
「痛みは不要です」
「決めるのは患者です」
医師の腕が伸びる。
白衣の袖の中から、ガラス瓶がいくつも転がり出す。
瓶が床で割れた。
黒い煙が待合室へ広がる。
東雲の左肩に、突然激しい痛みが走った。
過去の怪異事案で負った傷。
治っているはずの痛み。
次に、指先。
背中。
膝。
今まで治療した人々の痛みが、一斉に身体へ入ってくる。
東雲は膝をついた。
凛が叫ぶ。
「大丈夫ですか」
東雲は息を整える。
「大丈夫、ではありません」
痛みに顔を歪めながら、立ち上がる。
「でも、動けます」
白羽が東雲の周囲に札を貼る。
「痛みを外へ流します」
「だめです」
東雲が止めた。
「流したら、誰かに移ります」
「でも」
「受け止めます」
父親が凛を庇うように抱く。
医師は穏やかな声に戻った。
「ご覧なさい、痛みは人を弱くする、判断を鈍らせ、動けなくする」
東雲は一歩進む。
「そうですね」
「なら、なぜ戻すのですか」
「痛みがあるから、傷を守れる」
もう一歩。
「痛みがあるから、無理をしていると気づける」
肩が痛む。
呼吸が浅くなる。
それでも進む。
「痛みがあるから、他人の傷を想像できる」
医師の輪郭が揺れた。
白衣の下に、人の身体はない。
ガラス瓶が積み重なっている。
瓶と瓶の隙間から、黒い煙が漏れている。
凛が息を呑む。
「先生じゃない」
東雲が答える。
「春日野先生が残した仕組みです」
白羽が言う。
「善意だけが、手順を失って残った」
東雲は静かな扉へ手をかけた。
医師の姿が崩れ、瓶の腕が伸びる。
その腕を、外から飛んできた断札が切った。
戸張の声が通信に入る。
『入口からでも、それくらいは届く』
白羽が少し驚く。
「戸張さん、動いてませんよね」
『動いてない、手だけだ』
上原の声が聞こえる。
『半歩出た』
『直城、細かいな』
東雲は扉を開けた。
その部屋には、壁一面の棚があった。
数えきれないほどのガラス瓶。
ひとつひとつに、白い紙が貼られている。
名前はない。
身体の部位と、日付だけ。
腰。
膝。
右腕。
胸。
頭。
背中。
瓶の中には痛みと記憶が一緒に漂っている。
笑い声。
泣き声。
事故の音。
誰かの名前。
手を握った感触。
棚の中央に、赤黒い煙の瓶があった。
右腕。
凛が近づく。
「これ」
瓶の中に、女性の顔が一瞬だけ見えた。
凛の母親。
凛は手を伸ばす。
東雲が止める。
「そのまま開けると、事故の痛みも全部戻ります」
「戻ってもいい」
父親が言う。
「凛」
「お母さんを知らないままの方が嫌」
東雲は凛を見る。
決意はある。
だが、高校生の少女が一人で決めるには重すぎる。
「痛みを消すのではなく、弱めることはできます」
「記憶は戻りますか」
「全部かはわかりません」
「それでもお願いします」
東雲は頷いた。
医療キットから細い浄化管を取り出す。
片方を瓶に接続し、もう片方を新しい空瓶へ繋ぐ。
白羽が札を貼る。
「痛みと記憶の流れを分けます」
東雲は瓶の蓋を、ほんの少しだけ開けた。
赤黒い煙が流れ出す。
凛の右腕に、焼けるような痛みが戻る。
「痛い!」
父親が支える。
同時に、凛の頭の中に映像が戻る。
雨の道路。
母親の横顔。
車のライト。
大きな衝撃。
母親が自分へ覆いかぶさる。
その腕が震えている。
「凛、目を閉じて」
声。
忘れていた声。
凛は泣いた。
「お母さん」
痛みの一部が空瓶へ移る。
事故の激痛すべてではない。
身体を壊すほどの痛みは、新しい瓶へ分けられる。
だが、母親の記憶と結びついた鈍い痛みだけは、凛の右腕に戻った。
雨の日に疼く程度の痛み。
忘れないための痛み。
東雲は蓋を閉じる。
「これ以上は戻しません」
凛は泣きながら頷いた。
「覚えてる」
父親も泣いていた。
「お母さんの声、覚えてる」
棚の瓶が一斉に震えた。
医師の声が部屋中から響く。
「痛みは苦しみです」
東雲は答えた。
「痛みだけではありません」
「苦しみを返すのですか」
「選ぶ権利を返します」
御影が部屋へ入ってくる。
いつの間にか、廊下の扉は減っていた。
その後ろに上原、戸張、鷹宮。
水瀬も端末を抱えて入ってくる。
「診療所の核、中央棚の下です」
鷹宮が指す。
棚の下。
床板の隙間に、古い診療録が挟まっている。
御影が拾い上げる。
春日野宗一郎の手書き。
患者の痛みを一時的に預かる。
治療中のみ保管。
回復後、本人へ返す。
返却できない痛みは、家族の同意のもと鎮める。
記憶と痛みを分けてはならない。
最後の一文だけ、赤い墨で書かれていた。
痛みは、奪うものではない。
白羽が言う。
「本来は返すところまでが治療だった」
東雲が頷く。
「春日野先生が亡くなって、預かる手順だけが残った」
水瀬が棚を見る。
「返す人がいないから、瓶が増え続けた」
御影は診療録を開いた。
「手順を戻す」
東雲が問う。
「被害者全員をここへ連れてくるのは危険です」
「診療所を固定し、瓶を地下封域へ移す」
白羽が首を振る。
「全部持ち出したら、途中で痛みが漏れます」
鷹宮が棚の奥を見る。
「一つ、空いている」
棚の最上段。
大きなガラス瓶が置かれている。
中は空。
紙には、返却待ちと書かれていた。
東雲はそれを見て、少し考えた。
「診療所そのものへ、残った痛みを戻します」
戸張が眉を寄せる。
「建物にか」
「ここは、預かる場所です」
東雲は大瓶へ手を当てた。
「今度は、返すまで預かる場所に戻します」
御影が頷く。
「白羽、術式を組み直せ」
「はい」
白羽は床へ札を並べる。
預かる。
治療する。
返す。
三つの位置。
「今までは、返す札が抜けていました」
水瀬が診療所の記録を端末へ移す。
「被害者と瓶を照合します、名前ではなく、日付と傷の部位で」
戸張は棚を支える黒い糸を斬る。
「瓶が勝手に患者を探さないようにする」
上原は入口へ盾を立てる。
「外へ出さない」
鷹宮は診療録の下に残る術式の中心を指す。
「ここだ」
御影は御影札を掲げた。
「御影紋、開帳」
八咫鏡に三つ藤の紋が、診察室と瓶の棚を包む。
瓶の中の煙が、一斉に動いた。
痛み。
記憶。
後悔。
失った人の声。
それらが大瓶へ流れ込むのではない。
それぞれの瓶が、本来の持ち主へ返る時を待つ形に並び直される。
東雲は春日野の診療録を大瓶の前へ置いた。
「痛みは、患者のものです」
白衣の医師が、棚の前に立っていた。
今度は瓶の集合ではない。
古い写真に写っていた、ひとりの老医師。
春日野宗一郎。
彼は東雲を見た。
「痛みを残すのですか」
東雲は答える。
「必要な分だけ」
「患者は苦しみます」
「苦しまないように治療します」
「忘れた方が楽なこともある」
「それを決めるのも、患者です」
春日野は黙った。
しばらくして、凛を見る。
凛は母親の写真を胸に抱いている。
右腕を押さえている。
少し痛む。
それでも泣きながら笑っている。
春日野は小さく頷いた。
「返す者が、必要だった」
東雲が言う。
「今度はこちらで返します」
老医師の姿が薄くなる。
白衣。
眼鏡。
穏やかな顔。
最後に、春日野は東雲へ向けて頭を下げた。
姿が消える。
同時に、診療所の時計が動き始めた。
雨音が戻る。
壁の紙に書かれた言葉が変わった。
痛いところを、お預かりします。
その下に、小さな一文が増えている。
必ず、お返しします。
御影が言う。
「閉じる」
白羽が返却の札を最後に貼る。
診療所の壁が薄くなる。
長椅子。
受付。
診察室。
全てが雨の中へ溶ける。
第一班と北村親子は、県道脇の資材置き場に立っていた。
雨が降っている。
診療所はない。
ただ、地面に古いガラス瓶が一つ置かれていた。
返却待ち。
その紙だけが残っている。
後日、確認された被害者には、順番に記憶返却の処置が行われた。
全ての痛みを戻したわけではない。
身体を壊すほどの痛み。
治療を妨げる痛み。
すでに不要になった痛み。
それらは本人の同意を得て、東雲と医療封異班が鎮めた。
だが、記憶は可能な限り返された。
弟を忘れていた男性は、写真を見て泣いた。
妻との登山を忘れた老人は、古い山の地図を再び開いた。
子どもの出産日を忘れた女性は、病室で最初に聞いた泣き声を思い出した。
痛みも少し戻った。
それを喜べる人ばかりではなかった。
思い出さない方が楽だったと言う人もいた。
処置を受けず、記憶を戻さない選択をした人もいる。
東雲は、それを否定しなかった。
選ばせること。
それが、春日野診療所から失われていたものだった。
北村凛は、雨の日になると右腕が少し痛むようになった。
以前ほど強くはない。
その痛みが来るたびに、母親の声を思い出す。
凛、目を閉じて。
怖い記憶だった。
同時に、自分を守ろうとしてくれた母親の記憶でもあった。
霞ヶ関へ戻る黒麒麟の中で、水瀬が報告書を入力していた。
B級定着怪異。
通称、痛みを預かる診療所。
春日野診療所跡雨天発症事案。
痛覚および関連記憶の分離収容を確認。
返却術式再構築。
被害者個別対応へ移行。
診療所本体、沈静化。
雨天時継続監視。
白羽が後ろから言った。
「今回は封じて終わりじゃないんですね」
東雲は医療記録を見ながら答える。
「これからが長いです」
戸張が言う。
「真白さんは忙しくなるな」
「はい」
「手伝えることはあるか」
東雲は少し考えた。
「ありません」
「即答か」
「戸張さんに痛みと記憶を分ける治療を任せたくありません」
上原が運転しながら言う。
「正しい」
「直城、お前は今日ずっと俺に厳しくないか」
「いつもだ」
水瀬が笑った。
白羽も少し笑う。
御影は東雲を見る。
「無理をするな」
東雲は一瞬だけ驚いたような顔をした。
「はい」
水瀬が振り返る。
「真白さん、今のちゃんと聞きました?」
「聞きました」
「御影班長が自分から休めって言うの、珍しいです」
御影は窓の外を見る。
「言っていない」
戸張が笑う。
「ほぼ同じだろ」
車内に、静かな笑いが広がった。
雨はまだ降っている。
黒麒麟は濡れた県道を抜け、関越道へ向かう。
その夜。
春日野診療所跡の資材置き場を、一台の車が通りかかった。
運転していた女性は、ひどい頭痛を抱えていた。
仕事。
家族。
眠れない夜。
誰にも言っていない痛みだった。
雨の向こうに、白い明かりが見えた。
古い診療所。
女性は速度を落としかけた。
だが、入口の扉には診療中ではなく、新しい札が下がっていた。
本日の受付は終了しました。
その下に、小さな文字で書かれている。
痛みは、ひとりで持たず、誰かに話してください。
女性はしばらく看板を見ていた。
やがて車を路肩へ停め、スマートフォンを手に取る。
家族へ電話をかけた。
「少し、話を聞いてほしいんだけど」
振り返った時、診療所は消えていた。
雨の中には、資材置き場だけが残っていた。




