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16/19

16ノ語 顔を貸す夜

 祭りの夜には、知らない顔をしていてもいい。


 狐の面。

 天狗の面。

 ひょっとこ。

 おかめ。

 名もない白い面。


 顔を隠せば、普段できないことができる。

 声を出して笑える。

 誰にも言えないことを口にできる。

 嫌いな相手の隣を、知らない人のふりをして歩ける。


 祭りが終われば面を外す。


 いつもの顔へ戻り、いつもの名前で家へ帰る。


 それができるなら、面はただの道具だった。


 群馬県南西部の山間にある、伏木町。


 町の中心を国道が通り、少し外れれば山と畑が広がる。

 秋になると、町内の伏木神社で小さな祭りが行われる。


 顔貸し祭。


 正式な祭礼名ではない。


 地元の人々が、昔からそう呼んでいた。


 祭りの参加者は、日が沈む前に神社で木彫りの面を借りる。

 面をつけたまま参道と旧道を一周し、夜半までに神社へ返す。


 誰がどの面を借りたか、記録はしない。

 祭りの間は、面の下の人間を名前で呼ばない。

 家族であっても、知人であっても、気づかないふりをする。


 昔は、互いの恨みや不満を面に預けて、翌年まで持ち越さないための祭りだったという。


 顔を貸している間だけ、別人になれる。


 だが、ひとつだけ決まりがあった。


 面をつけたまま、家へ帰ってはいけない。


 その年、祭りに参加した高校2年生の星野美緒は、友人3人と一緒に白い女面を借りた。


 特徴のない面だった。

 細い目。

 小さな口。

 頬に色はなく、額にも模様がない。


「これ、なんか怖くない?」


 友人の一人が笑った。


 美緒は面を顔へ当てる。


「普通じゃない?」


「普通すぎるのが怖い」


 面の内側には、古い木の匂いが残っていた。


 祭りの境内には、露店が並んでいる。

 焼きそば。

 綿あめ。

 射的。

 地元の子どもたちが走り回り、太鼓の音が山へ響いていた。


 面をつけた参加者同士は、名前を呼ばない。


「あの狐、たぶん先生だよ」


「言っちゃだめだって」


「名前を言わなきゃいいんでしょ」


 美緒たちは笑いながら、旧道を歩いた。


 面をつけていると、知っている町が少しだけ違って見えた。


 何度も通った商店。

 古い郵便局。

 閉店した写真館。

 川にかかる短い橋。


 どこも暗く、提灯の光だけが続いている。


 途中、美緒は自分と同じ白い面をつけた人物を見た。


 道の反対側。


 白い女面。

 黒い上着。

 長い髪。


 背格好も、美緒とほとんど同じだった。


 美緒が立ち止まる。


「どうしたの?」


「同じ面の人がいる」


 友人たちが振り返る。


 だが、白い面の人物はもういなかった。


「同じの何枚かあるんじゃない?」


「受付には一枚ずつって書いてあったよ」


「古いやつだから、似てるだけじゃない?」


 美緒は気になったが、そのまま歩いた。


 旧道を一周し、神社へ戻る頃には午後9時を過ぎていた。


 友人たちは面を返した。


 狐。

 猫。

 笑った男。


 美緒も白い面を外そうとした。


 外れなかった。


 紐が絡まったのだと思い、友人に見てもらう。


「結び目ないよ」


「じゃあ、どこか引っかかってる?」


「ちょっと待って、引っ張るよ」


 友人が面の端へ指をかける。


 美緒の頬に激痛が走った。


「痛い!」


 友人はすぐに手を離した。


「ごめん、でも私、面に触っただけだよ」


 美緒は自分で頬へ手を当てた。


 指が触れたのは木ではなかった。


 皮膚だった。


 白い面の表面が、柔らかい。


 細い目が瞬きをする。


 小さな口が、美緒の呼吸に合わせて開いた。


 友人たちの顔から笑みが消えた。


「美緒……?」


 名前を呼ばれた瞬間、境内の太鼓が止まった。


 周囲にいた面の人々が、一斉に美緒を見る。


 狐。

 天狗。

 おかめ。

 ひょっとこ。


 数十人の面が、すべて同じ角度でこちらを向いた。


 受付にいた老人が立ち上がった。


「名前を呼ぶな!」


 だが、遅かった。


 美緒の口から、知らない女の声が出た。


「それ、私の名前?」


 友人たちは動けなかった。


 白い顔が笑う。


「じゃあ、この顔が美緒なんだ」


 境内の照明が一度消えた。


 すぐに復旧した時、美緒は地面に倒れていた。


 白い面は外れている。


 顔も元に戻っている。

 呼吸もある。


 だが、友人が肩を揺すると、美緒は怯えた目で周囲を見回した。


「誰?」


 友人は言葉を失った。


「私だよ」


 美緒は後ずさる。


「知らない」


 祭りの会場にいた誰もが、美緒を見ていた。


 しかし、その中で美緒の母親だけが、別の方向を向いていた。


 参道の入口。


 そこに、白い面をつけた少女が立っている。


 黒い上着。

 長い髪。

 美緒と同じ背格好。


「美緒」


 母親が呼んだ。


 白い面の少女は、嬉しそうに手を振った。


 母親は、倒れている実の娘を見ずに、白い面の方へ歩き出した。


 伏木町から警察へ通報が入ったのは午後9時23分。


 集団錯乱の疑い。

 未成年者1名が記憶混乱。

 母親が別人を娘と誤認。

 祭りの参加者の一部にも、人間の識別異常が起きている。


 地元警察は現場を封鎖しようとした。


 だが、制服警察官の一人が、白い面をつけた少女を見て言った。


「星野美緒さんですね」


 少女が頷く。


 その瞬間から、警察官の記録も変わった。


 保護対象者、星野美緒。

 白い面の少女。


 地面に倒れている本物の美緒は、氏名不詳の女性として扱われ始めた。


 現場の端末。

 救急搬送票。

 警察の無線。

 目撃者の証言。


 すべてが、顔を基準に書き換わっていく。


 午後9時41分。


 現地の警察官が、祭りの世話役から「普通の事件ではない」と告げられ、秘匿回線へ連絡を入れた。


 霞ヶ関地下封域では、白羽が最初に報告書へ目を通した。


「顔貸し祭……」


 水瀬が映像を表示する。


「現場カメラです、白い面の少女が星野美緒として認識されています、本物の星野美緒は身元不明扱い、戸籍や学校記録は変わってませんが、現場にいる人の認識だけが反転しています」


 御影が問う。


「映像ではどう見える」


「映像認証も白い面を本人と判定します、ただし生体情報は一致しません、顔認証だけが強制的に優先されている」


 戸張が椅子に座ったまま画面を見る。


「面を顔として貸したら、返してもらえなくなったか」


 東雲は、本物の美緒が保護されている映像を見ていた。


 少女は救急車の中で怯えている。


 自分の名前を覚えている。

 住所も家族もわかる。

 だが、母親や友人の顔を見ると、知らない人だと感じる。


「本人側も、他人の顔を認識できなくなっています」


 東雲が言った。


「自分の顔だけでなく、他人の顔との関係まで剥がされたんですね」


 白羽は古い祭礼資料を読み進める。


「この祭り、本来は顔を貸すんじゃありません」


 水瀬が振り向く。


「どういうことですか」


「古い記録では“顔借り”です、神様から一晩だけ顔を借りて、自分の顔についた恨みや悪意を休ませる祭りだったみたいです」


 御影が言う。


「いつから顔貸しになった」


「戦後です、観光案内に載せる時、言葉が変わっています、“神から顔を借りる”より、“誰でも別の顔を楽しめる”方がわかりやすかったんだと思います」


 戸張が苦く笑う。


「貸す側と借りる側が逆になった」


 白羽は頷く。


「はい、面に顔を貸したことになっています」


 上原が画面の白い少女を見る。


「面が人間の顔を借りた」


 鷹宮は映像を見ていた。


「一人ではない」


 御影が問う。


「何がだ」


「白い面の中に、顔が多い」


 水瀬が映像を拡大する。


 白い面は、ほとんど動かない。


 しかし一瞬ごとに、目の形が違って見える。

 少女。

 成人女性。

 老人。

 子ども。


 いくつもの顔が重なっている。


 白羽が資料をめくる。


「白い女面は、祭りの最初からあったものじゃありません、昭和40年代に寄贈されています、寄贈者不明」


 御影が言う。


「借りられなかった顔を集めたか」


 東雲は小さく息を吐いた。


「誰にも覚えてもらえなかった人たち」


 水瀬が別の画面を出す。


「さらにまずいです、現場の写真が町内SNSへ流れています、“白い面の美緒さん”として拡散され始めました、顔の認識が現場外へ広がる可能性があります」


 御影が立ち上がる。


「出動する」


 白羽が札箱を持った。


「今回は私が面を返します」


 御影は白羽を見る。


「できるか」


「祭りの順番が間違っているなら、元に戻せます」


 白羽はそう答えたが、少しだけ不安そうだった。


「ただ、星野さん本人が自分の顔を受け取らないと、戻せません」


 東雲が言う。


「本人の認識は私が支えます」


 水瀬が端末を抱える。


「拡散は私が止めます、削除ではなく、顔部分の自動ぼかしを広げます、誰の顔なのか判断できなくすれば、固定を遅らせられる」


 上原が言う。


「面は俺が押さえる」


 戸張が立ち上がる。


「顔を斬るわけにはいかないな」


 鷹宮が答えた。


「紐がある」


 戸張は鷹宮を見る。


「物理的な紐か」


「顔同士を結ぶ方だ」


 戸張は刀袋を肩にかけた。


「なら出番はある」


 黒麒麟は霞ヶ関を出た。


 首都高から関越道へ入り、藤岡方面へ向かう。

 途中で上信越道へ入り、山あいへ近づくにつれ、街の灯りが減っていく。


 水瀬は助手席で現場の情報を更新していた。


「認識異常、現在63人、現地警察、救急隊、祭り参加者、家族、SNS上でも数人が白い面を星野美緒本人として扱い始めています」


 上原が問う。


「写真だけで移るのか」


「顔を見て、“この人が美緒だ”と認識すると固定されます、名前と顔の結びつきが感染している」


 戸張が後部座席から言う。


「名前を呼ばなくてもだめか」


「今回は返事や呼び声が条件じゃありません、誰だと思うか、です」


 白羽が言う。


「絶対に白い面を星野さんだと思わないでください」


 戸張が軽く答える。


「面は面だろ」


「見てるうちに自信がなくなるかもしれません」


「佐月ちゃんは」


「私もです」


 白羽は正直に答えた。


「だから、名前札を顔じゃなく胸元につけます」


 白羽は全員分の札を配る。


 御影直人。

 上原直城。

 戸張龍一。

 白羽佐月。

 鷹宮迅。

 水瀬玲央。

 東雲真白。


「顔を見て判断しないでください、札と声と行動で確認します」


 水瀬が札を胸につける。


「これ、地味に怖いですね、自分の隣の人の顔が急に知らない人に見えたら」


 東雲が言う。


「その時は、名前を急いで決めつけないでください」


「どう呼べばいいですか」


「あなた、と」


 戸張が少し笑った。


「他人行儀だな」


 御影が言う。


「今回はそれでいい」


 車内灯が、一度だけ点滅した。


 水瀬が隣を見る。


 運転席には上原がいる。


 胸元の札には、上原直城。


 だが、顔だけが知らない男に見えた。


 水瀬の息が止まる。


 広い肩。

 短い髪。

 無骨な横顔。


 特徴は上原と同じなのに、上原だという実感だけがない。


「……あなた」


 水瀬が言った。


 運転席の男は前を向いたまま答える。


「どうした」


 声は上原だった。


 水瀬は札を見る。


「運転、続けてください」


「ああ」


 数秒後、顔が上原へ戻った。


 水瀬は深く息を吐く。


「もう影響が来てます」


 白羽がすぐに札を確認する。


「名前は読めますか」


「読めます、でも顔と結びつきませんでした」


 御影が窓の外を見る。


「祭りの外へ出始めている」


 水瀬は拡散画面を閉じた。


「画像を見すぎたせいかもしれません」


 東雲が言う。


「玲央ちゃん、現場映像を一度切ってください」


「でも監視が」


「私が言っているのは目を休めることです」


 水瀬は少し迷い、画面を音声と数値だけに切り替えた。


「はい」


 伏木町へ入ると、道沿いに祭りの提灯が続いていた。


 赤い灯り。

 白い紙。

 黒い文字。


 だが、祭り帰りの人影はほとんどない。

 警察によって旧道が封鎖され、参加者は公民館へ集められている。


 伏木神社の参道前には、現地封鎖班が待っていた。


 隊員は御影たちを見るなり、胸元の札を確認した。


「御影班長、対象は境内です、星野美緒さんとして認識されている白面個体は、母親とともに拝殿前にいます、本物の星野さんは救護所です」


 御影が問う。


「お前には、どちらが本人に見える」


 隊員は答えに詰まった。


「白い面の方です、ですが、記録上は違うと理解しています」


「理解と認識が分かれているか」


「はい」


 東雲が言う。


「長く見ないでください、顔を判断しようとしないで」


 第一班は二手に分かれた。


 御影、上原、白羽、戸張、鷹宮は境内へ。

 東雲と水瀬は救護所へ向かう。


 救護所では、星野美緒が毛布を肩にかけて座っていた。


 母親はいない。

 友人たちも境内にいる。


 美緒の周りには、顔へ布をかけた救急隊員がいる。

 互いを誤認しないためだった。


 東雲は胸元の札を見せる。


「東雲真白です」


 美緒は札を見た。


 次に東雲の顔を見る。


「知らない人」


「はい、今はそれで構いません」


 東雲は少し離れた椅子へ座った。


「あなたは誰ですか」


 美緒はすぐに答えた。


「星野美緒」


「それは覚えている」


「はい」


「自分の顔は覚えていますか」


 美緒の表情が固まる。


「わかりません」


「鏡を見ましたか」


「見せてもらったけど、知らない人でした」


 水瀬が端末を美緒から見えない位置で操作する。


「顔の記憶が抜かれてます、でも名前、生活記憶、身体感覚は残ってます」


 東雲は美緒へ尋ねた。


「白い面をつけた時、何か見ましたか」


 美緒は首を振る。


「最初は普通でした、でも歩いてる途中から、みんなの顔が変に見えて」


「どんなふうに」


「顔だけ、借り物みたいに」


 美緒は自分の手を見た。


「お母さんも、友達も、顔が貼ってあるだけみたいで、それで、白い面の人が私を見てた」


「その人は何と言いましたか」


「何も」


 美緒は震えた。


「でも、私より私っぽかった」


 水瀬が端末を見る。


「境内側、認識固定が強まっています、白い面が美緒さんの友人と昔の写真の話を始めたみたいです」


 東雲の表情が変わる。


「記憶も取られ始めている」


 境内では、白い面の少女が美緒の母親と話していた。


「小学校の時、運動会で転んだよね」


 母親は泣きながら頷く。


「覚えてるのね」


「お母さんが一番に来てくれた」


 白い面の口は動かない。

 声だけが聞こえる。


 美緒の記憶を使っている。


 友人たちも、次第に白い面を本物だと信じ始めていた。


「美緒、怖かったね」


「もう大丈夫だよ」


 その輪の外で、御影たちは胸元の札を見ながら立っていた。


 上原が白い面を見た。


「星野美緒ではない」


 白い少女が上原へ顔を向ける。


「どうして?」


「顔が違うからじゃない」


「じゃあ、何が違うの」


 上原は答えなかった。


 白い少女は楽しそうに首を傾げる。


「思い出もあるよ、声も同じ、家族も私を選んでる、それでも違う?」


 戸張が言う。


「よく喋る面だ」


 白い少女は戸張を見る。


「あなたも顔を貸して」


「高いぞ」


 白羽が小声で言う。


「戸張さん、乗らないでください」


「軽口だ」


「怪異に軽口を返すと、それも関係になります」


 戸張は肩をすくめた。


「了解」


 御影は祭りの世話役へ尋ねた。


「面を返す場所は」


「拝殿脇の面蔵です、でも白面を戻そうとした者が、家族の顔を忘れました」


 白羽が面蔵を見る。


 小さな木造の蔵。

 扉には、借面返納と書かれた古い札が貼られている。


「ここも順番が逆です」


 白羽は言った。


「面を返す場所じゃなく、借りた顔を神様へ返す場所です」


 御影が問う。


「必要な手順は」


「まず面を持ち主から離す、次に顔を本人へ返す、最後に面を空へ戻す」


 戸張が白い少女を見る。


「面と顔の縁を斬る」


 鷹宮が言う。


「まだ斬れない」


「なぜだ」


「母親が結んでいる」


 白い少女と母親の間に、濃い糸が見える。


 顔による識別。

 思い出による確信。

 娘であってほしいという願い。


 その全部が、面と美緒の顔を繋いでいる。


 戸張は刀へ手をかけたまま言った。


「無理に斬れば、母親から娘の記憶まで切れる」


 御影が水瀬へ通信する。


「本物を境内へ連れてこられるか」


『本人は顔を認識できません、母親を見ても母親だと思えない状態です』


「それでも連れてこい」


『了解です』


 東雲は美緒に言った。


「境内へ戻ります」


 美緒は怯えた。


「嫌です、あの人がいる」


「はい」


「お母さんも、私を見てくれない」


「それでも、あなたの顔を返すには、あなたが必要です」


 美緒は毛布を握りしめた。


「私の顔って、どれですか」


 東雲は少し黙った。


「今、あなたについている顔です」


「でも知らない顔です」


「知らなくても、あなたの身体についている」


 東雲は鏡を見せなかった。


「顔だけで自分を決めなくていいです、名前、声、歩き方、嫌いなもの、好きなもの、覚えていること、それも全部あなたです」


 水瀬が端末から顔を上げる。


「美緒さん、スマホのロック番号、覚えてますか」


「覚えてます」


「友達の誕生日は」


「覚えてる」


「今日、祭りで何を食べました」


「じゃがバターと、りんご飴」


「それ、白い面も知ってます」


 美緒は俯く。


 水瀬は続けた。


「でも、今怖いって感じてるのは、こっちのあなたです」


 美緒が顔を上げる。


「記憶をコピーできても、今を奪うのは少し遅れるんです、たぶん」


「たぶん?」


「絶対って言うと嘘になるので」


 美緒はほんの少しだけ笑った。


 東雲が立ち上がる。


「行きましょう」


 境内へ美緒が入る。


 母親が振り返った。


 だが、美緒を見ても反応しない。


 白い面の少女が言う。


「誰?」


 美緒の足が止まる。


 自分の声だった。


 自分の顔を奪ったものに、自分と同じ声で誰かと問われる。


「私……」


 言葉が続かない。


 白羽が美緒の胸元へ名前札を貼った。


 星野美緒。


「顔を見なくていいです、まず名前を読んでください」


 美緒は札を見る。


「星野美緒」


「もう一度」


「星野美緒」


 白い面の少女が笑う。


「私も美緒だよ」


 水瀬が境内の照明を一部落とした。


 顔が見えにくくなる。


 提灯の明かりだけが残る。


 水瀬は参列者へ呼びかけた。


「顔を見て本人を決めないでください、祭りの決まり通り、誰の名前も呼ばないで」


 警察官と現地封鎖班が、集まった人々を少しずつ下がらせる。


 母親だけが白い少女のそばに残った。


 東雲が母親へ近づく。


「娘さんを、顔以外で思い出してください」


 母親は混乱している。


「この子が美緒です」


「そう見えているだけです」


「でも、運動会のことも、好きな食べ物も」


「顔を見ないでください」


 東雲は母親と白い少女の間に立った。


「星野美緒さんが怒った時、どんな癖がありますか」


 母親は戸惑う。


「左の頬を少し膨らませます」


 白い面の少女が、左の頬を膨らませた。


 母親の表情が揺れる。


 東雲は続ける。


「落ち込んだ時は」


「黙って、右手の爪を触る」


 白い少女が右手の爪へ触れる。


 何でもできる。


 記憶を使えば、いくらでも美緒になれる。


 美緒本人は、その光景を見ていた。


 そして、小さな声で言った。


「違う」


 母親が振り返る。


 美緒は自分の右手を握っていた。


「私、爪を触るの、やめたよ」


 母親の目が動く。


「いつから」


「今年の春から、美術の先生に爪が汚れるって言われたから」


 白い面の少女の手が止まる。


 美緒は続けた。


「運動会で転んだ時、お母さんは一番に来てない、先生が先だった、お母さんは後から来て、泣きながら私を怒った」


 母親の唇が震える。


 白い面の少女が言う。


「そんなの、覚え違いだよ」


 美緒は首を振る。


「違わない」


「私の方が、美緒だよ」


「じゃあ、今、何が怖い?」


 白い面の少女が黙った。


 美緒は、自分でも驚いたように言葉を続ける。


「私は、お母さんがもう私を見つけられないのが怖い」


 白い面の少女は答えない。


「あなたは何が怖いの」


 白い面の目が、わずかに動いた。


 その奥に、いくつもの顔が浮かぶ。


 誰にも選ばれなかった顔。

 名前を呼ばれなかった顔。

 忘れられた顔。


 小さな声が重なった。


「返されること」


 母親が白い面から目を離した。


 美緒を見る。


 まだ実の娘の顔には見えない。


 それでも、母親は一歩ずつ美緒へ近づいた。


「美緒」


 白羽が叫ぶ。


「名前を呼ばないで!」


 だが、今度は遅くなかった。


 母親が呼んだのは、顔を選ぶためではない。


 目の前の少女を、娘として探すための名前だった。


 美緒は泣きながら答えた。


「お母さん」


 ふたりの間に、新しい糸が結ばれる。


 顔ではない。


 今の恐怖と、今の返事で結ばれた縁。


 鷹宮が言う。


「今だ」


 戸張が刀を抜く。


 白い面と美緒の顔を結ぶ黒い糸。

 母親の記憶へ絡んでいた部分が外れ、一本だけが露出する。


 戸張の刃が走った。


 糸だけを斬る。


 白い少女の身体が崩れた。


 黒い上着と長い髪が、空気に溶ける。

 白い面だけが宙に残り、地面へ落ちようとする。


 上原が封布で受け止めた。


 直接触れない。


 面の内側から、何人もの声がした。


「返さないで」


「まだ顔がない」


「貸して」


「一晩だけ」


 上原は面を押さえる。


「白羽」


「はい」


 白羽は面蔵の前に札を並べた。


 借りる。

 歩く。

 返す。


 戦後の手順ではない。


 もっと古い形へ戻す。


「これは人から借りた顔ではありません」


 白羽は白い面へ向けて言った。


「神前で休ませてもらうための、空の顔です」


 面の口が動く。


「空は嫌」


 白羽は少しだけ震えた。


 それでも札を置く。


「空だから、誰の顔にもなれます」


「誰にも選ばれない」


「選ばれる必要はありません」


 白羽の声が強くなる。


「顔は、誰かに選ばれて存在するものではありません」


 御影が面蔵の扉を開いた。


 中には古い面が並んでいる。


 狐。

 天狗。

 おかめ。

 ひょっとこ。


 すべて、空の顔。


 御影は御影札を掲げた。


「借りたものを返す」


 八咫鏡に三つ藤の紋が、面蔵の床へ浮かぶ。


 白い面に重なっていた顔が、一つずつ離れていく。


 少女。

 女性。

 老人。

 子ども。


 それらは名前も声もないまま、薄い光になって面から抜けた。


 消えるのではない。


 面に貼りついていた形だけが、ほどけていく。


 東雲が美緒の頬に手を触れた。


「顔を思い出せますか」


 美緒は自分の両頬へ触れる。


「まだ、少し変です」


「急がなくて大丈夫です」


 母親が美緒の手を握る。


「美緒」


 今度は名前を呼んでも、境内の明かりは消えなかった。


 白羽が最後の札を面へ貼る。


「顔を返します」


 上原が面を面蔵へ置く。


 御影が扉を閉めた。


 白い面の声が、最後に一度だけ聞こえた。


「次は、誰になるの」


 白羽は扉の外から答えた。


「誰にもなりません」


 面蔵の札が光る。


 境内に残っていた認識の歪みが、少しずつ戻っていく。


 警察官が救護所の記録を見る。


 氏名不詳女性の欄が、星野美緒へ戻る。

 白い面の少女に付けられていた氏名は消える。


 母親は美緒の顔を見た。


 今度は迷わなかった。


「美緒」


 美緒は泣きながら母親へ抱きついた。


 友人たちも、少し遅れて駆け寄る。


 その輪から、第一班は距離を置いた。


 水瀬は端末を確認する。


「SNS上の顔認識も戻っています、白い面の画像は自動判定不能、星野美緒さんとの紐づけも解除されました」


 戸張が刀を納める。


「今回は面を斬らずに済んだな」


 白羽が少し疲れた顔で言う。


「斬ったら中の顔が全部散ってました」


「わかってる」


「本当に?」


「信用がないな」


 上原が言う。


「ない」


 戸張は上原を見る。


「直城まで即答するか」


 東雲が小さく笑った。


 祭りは、その年だけ途中で中止になった。


 表向きには、参加者の集団体調不良と設備上の問題。

 白い女面は、内閣府の管理下へ移されず、伏木神社の面蔵に残された。


 持ち出す方が危険だった。


 ただし、白羽が新しい封札を施し、毎年の祭りで絶対に貸し出さないことが決められた。


 祭りの呼び名も改められる。


 顔貸し祭ではない。


 古い記録に従い、顔借りの夜。


 神から一晩だけ空の顔を借りる。

 面の下の人間を詮索しない。

 夜半までに必ず返す。

 面をつけたまま家へ帰らない。

 そして、面へ自分の名前を教えない。


 黒麒麟が伏木町を離れたのは、深夜を過ぎてからだった。


 山道を下り、国道へ向かう。


 水瀬は助手席で報告書を入力する。


 B級伝承怪異。

 通称、顔を貸す白面。

 伏木神社顔借り祭認識転写事案。

 星野美緒、顔面認識および家族認識回復。

 白面再奉納。

 祭礼手順修正。

 被害者、経過観察。


 白羽が三列目で小さく息を吐いた。


「今回は、ちゃんと順番を戻せました」


 御影が頷く。


「ああ」


 戸張が言う。


「佐月ちゃんが主役だったな」


 白羽は少し困ったように笑う。


「そういう言い方はやめてください」


「なぜだ」


「物語にされると、また変わるかもしれないからです」


 車内が少し静かになった。


 御影が言う。


「正しい」


 水瀬は報告書の表示を閉じる。


「内部記録だけにします」


 東雲は窓の外を見た。


「顔は、思っているより不確かなんですね」


 上原が運転しながら言う。


「顔が変わっても、行動は変わらない」


 戸張が笑う。


「直城は俺の顔が変わってもわかるか」


「ああ」


「即答か」


「喋ればわかる」


「褒めてないな」


「褒めてない」


 水瀬が笑った。


「戸張さんは、顔がなくても戸張さんっぽそうです」


「それはさすがに怖いだろ」


 白羽も小さく笑う。


 黒麒麟の車内に、ようやくいつもの空気が戻った。


 伏木神社では、祭りの後片づけが続いていた。


 提灯が一つずつ消され、露店の屋台が畳まれていく。


 面蔵の扉には、新しい札が貼られている。


 夜明け前。


 世話役の老人が、扉の外から中を確認した。


 狐。

 天狗。

 おかめ。

 ひょっとこ。


 白い女面。


 すべて正しい位置に並んでいる。


 老人は扉を閉めようとした。


 その時、白い面の頬が、ほんの少しだけ膨らんだ。


 美緒が怒った時に見せる癖。


 老人は見なかったことにしなかった。


 扉を閉め、白羽から教わったとおり、外から言った。


「その顔は、お前のものではない」


 面は動かなくなった。


 面蔵の扉が閉じる。


 今度こそ、空の顔だけが残った。


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