15ノ語 八尺を越える女
最初に気づいたのは、祖母だった。
埼玉県西部の山沿いにある、峰代町。
古い集落と新しい住宅地が混在する、小さな町だった。
駅前には新しいスーパーがあり、少し離れると畑と雑木林が広がっている。
さらに山側へ進めば、細い県道沿いに古い家が点在する。
夏休みの終わり。
小学6年生の少年、木村蒼太は、母親と一緒に祖父母の家を訪れていた。
祖父母の家は、昔ながらの木造家屋だった。
広い縁側。
庭の柿の木。
低い石垣。
裏手には、今は使われていない納屋がある。
蒼太が庭でスマートフォンを触っていると、祖母が急に障子を閉めた。
「蒼太、家に入りなさい」
声が強かった。
蒼太は驚いて顔を上げた。
「なんで?」
「いいから」
「まだ明るいよ」
「入って」
祖母は蒼太の腕を掴み、縁側から座敷へ引き入れた。
母親が台所から出てくる。
「お母さん、どうしたの?」
祖母は答えなかった。
ただ、閉めた障子を見ている。
庭の外。
石垣の向こうに、白い帽子が見えた。
最初は、誰かが道を歩いているのだと思った。
だが、帽子の位置が高すぎる。
石垣の上から、さらに人の頭ひとつ分以上高い位置に浮かんでいる。
その下に、白い服が見える。
長い。
細い。
女だった。
道の向こうから、庭を見ている。
顔は帽子の影に隠れていた。
祖母は小さな声で言った。
「見ちゃだめ」
蒼太の母親が障子へ近づこうとする。
「誰かいるの?」
「開けるな」
祖母が鋭く止めた。
その時、庭の外から音がした。
低く、間の抜けた音。
声とも、機械音ともつかない。
ぽ。
ぽ。
ぽ。
蒼太の顔色が変わった。
「動画で見たやつだ」
祖母が蒼太を見る。
「何を見たの」
「八尺様」
その名前を口にした瞬間、外の音が止まった。
家の中が静かになる。
祖母は、蒼太の口を手で塞いだ。
「名前を言うな」
障子の向こうで、何かが動いた。
白い帽子の影が、ゆっくり横へ流れる。
庭を回っている。
人の足音はしない。
ただ、帽子だけが、障子の上端より高い位置を滑っていく。
蒼太のスマートフォンが震えた。
画面には、動画投稿アプリの通知が表示されている。
『峰代町で八尺様を見た』
投稿されたばかりだった。
添付された動画には、祖父母の家が映っている。
外から撮られた映像だった。
石垣。
庭。
閉じた障子。
そして、障子の内側にいる蒼太たちの影。
撮影者は見当たらない。
コメントが増えていく。
『これ本物?』
『帽子どこ?』
『家の後ろにいる』
『でかすぎ』
『子ども狙うやつだっけ』
『名前呼ばれたら終わり』
『逃げてもついてくる』
蒼太が画面を見ている間に、動画の奥で白い女が現れた。
家の屋根より高い。
母親が息を呑む。
祖母は、スマートフォンを蒼太の手から叩き落とした。
「見るなって言ったでしょう!」
スマートフォンが畳に落ちる。
画面の中で、白い女がこちらを向いた。
同時に、玄関から祖父の声がした。
「帰ったぞ」
祖母の顔が青ざめた。
祖父は、その日の朝から町の病院へ行っている。
帰るのは夕方になると連絡があった。
まだ昼過ぎだった。
「開けるな」
祖母が言った。
玄関から、もう一度声がする。
「蒼太、いるのか」
今度は祖父の声ではなかった。
蒼太の父親の声だった。
父親は東京にいる。
「蒼太、開けてくれ」
蒼太が立ち上がりかける。
母親が抱き止めた。
玄関の引き戸が、ゆっくりと軋んだ。
鍵はかかっている。
だが、戸の上部にある曇りガラスの向こうを、白いものが通り過ぎた。
人の顔がある高さではない。
もっと上。
天井に近い位置。
ぽ。
ぽ。
ぽ。
今度は、家の中から聞こえた。
祖母は仏壇の引き出しを開けた。
中から古い札を出す。
札には文字ではなく、八本の横線が引かれていた。
祖母はそれを蒼太の胸へ押しつける。
「今夜まで、絶対に名前を呼ばれても返事をするんじゃないよ」
母親が震えた声で聞く。
「お母さん、知ってるの?」
祖母は答えなかった。
家の廊下の奥。
誰もいないはずの納戸から、蒼太の声がした。
「お母さん」
蒼太本人は、母親に抱かれている。
「ここを開けて」
納戸の襖が、内側から少しだけ膨らんだ。
霞ヶ関地下封域に事案が上がったのは、約20分後だった。
最初の通報は警察ではない。
峰代町役場の古参職員から、内閣府の秘匿回線へ直接入った。
通報内容は短かった。
白くて背の高い女が出た。
木村家の孫が見られた。
村留めの札が効かない。
そして最後に、職員はこう言った。
「八尺様です」
解析室でその言葉を聞いた水瀬は、椅子から半分立ち上がった。
「本当に来ましたね」
御影が水瀬を見る。
「知っているのか」
「かなり有名なネット怪談です、背の高い女、白い服、帽子、変な声、子どもや若い人を狙う、地域から逃がすために隔離したり、身内の声を真似たりします」
白羽が少し引いた顔をする。
「説明が早いです」
「有名なんです」
戸張が言う。
「ネットの作り話ではなかったのか」
水瀬は端末に関連情報を表示した。
「元が実在怪異か、投稿が先かはわかりません、ただ今回のは、ネットで知られている特徴とかなり一致します」
御影は画面を見る。
峰代町で投稿された動画は、すでに複製され始めていた。
同じ白い女。
同じ木村家。
だが、動画ごとに女の身長が違う。
ある動画では屋根ほど。
別の動画では電柱より高い。
さらに別の静止画では、山の木々の上から帽子だけが見えている。
水瀬が言う。
「見られるたびに大きくなってます」
上原が画面を見た。
「八尺ではないな」
「はい、八尺というのは約2・4メートルですが、今はもうその高さに収まっていません、投稿者が“もっと大きかった”と書くたびに上書きされています」
東雲が問う。
「狙われた子の状態は」
「生体反応は正常、ただし家の中に複数の偽音声が発生しています、本人や家族の声を使って、返事と開扉を誘っています」
白羽が言う。
「札が効かないというのは」
水瀬は通報内容を確認する。
「峰代町には、昔から“八本線の札”で家を囲む習慣があったようです、ただ、今回使われた札は破れていません、それなのに中へ声が入っている」
御影が静かに言った。
「怪異が境界を越えたのではない」
鷹宮が画面を見ながら答える。
「境界が広がった」
水瀬が鷹宮を見る。
「どういう意味ですか」
「家の中も、見られている」
投稿動画には、障子の内側まで映っていた。
誰も撮影していない。
それでも外からの視線が、家の中まで入り込んでいる。
御影は言った。
「ネット上の視聴者が、怪異の目になっている」
水瀬の指が止まる。
「つまり、動画が見られている限り、家の中が外扱いになる」
白羽が青ざめる。
「札で家を囲っても、画面から見られてたら意味がない」
御影は立ち上がった。
「出動する」
水瀬が端末を抱える。
「今回は現場に通信を持ち込むほど悪化する可能性があります、でも投稿拡散を止めるには私が必要です」
「黒麒麟から対応しろ」
「現地の回線が怪異に使われています、近くで切り分けないと、家族の端末ごと外部の目になります」
東雲が水瀬を見る。
「中へ入るんですか」
「はい」
水瀬は少しだけ嫌そうな顔をした。
「有名怪談を実際に見る趣味はないですけど」
戸張が笑う。
「さっき来ましたね、と嬉しそうだったぞ」
「あれは分析者としてです」
白羽が言う。
「趣味も少し入ってました」
「佐月さんまで」
御影が役割を決める。
「上原が前衛、水瀬が通信遮断、白羽は既存の村留めを確認、東雲は木村家の保護、戸張は模倣音声との縁を切れ、鷹宮は本体を探す」
上原が問う。
「班長は」
「土地の封印記録を確認する」
水瀬が地図を出した。
「峰代町までは関越道、鶴ヶ島方面から国道407号を経由して県道へ入ります、現地は町役場の職員が案内します」
黒麒麟は霞ヶ関を出た。
首都高から外環道へ入り、関越道を北西へ走る。
空は晴れている。
まだ日中だ。
それでも、水瀬の端末には夜間モードの映像が何度も表示された。
「おかしいです」
助手席の水瀬が言う。
「何が」
上原は前を見たまま聞く。
「峰代町の投稿動画、全部夜になってます、現地は昼なのに、動画の中だけ日没が進んでる」
戸張が後部座席から画面を見る。
「夜になると来る、という語りに合わせているのか」
「たぶん、視聴者が“夜になったらやばい”と期待しているせいです、現実の時間まで引っ張ろうとしてます」
白羽が嫌そうに言った。
「ネットの人たち、余計なことを考えすぎです」
「怪談を見る時って、次に起きる怖いことを想像しますから」
東雲が静かに言う。
「それが全部、怪異の選択肢になる」
「はい」
水瀬は投稿の削除ではなく、表示制限と検索分散を始めた。
「完全削除はしません、消された動画扱いで逆に伸びます、別地域の作り物動画や過去投稿を混ぜて、現在地を特定できないようにします」
御影が問う。
「視聴数は」
「最初の動画だけで3万を超えました、切り抜き込みならもっとです」
上原が低く言った。
「急げ」
黒麒麟が関越道を進んでいる途中、上原がバックミラーを見た。
後方を走る大型トラック。
その荷台のさらに後ろ。
防音壁の向こうに、白い帽子が見えた。
高速道路の防音壁より高い。
上原は前へ視線を戻す。
「ついてきている」
水瀬が窓の外を見る。
「どこですか」
「右後方」
水瀬がカメラを向けようとする。
上原が言った。
「撮るな」
水瀬は手を止めた。
「そうでした」
戸張が後ろを見る。
だが、もう帽子はない。
代わりに、黒麒麟の車内スピーカーから音がした。
ぽ。
ぽ。
ぽ。
白羽が固まった。
「車の中です」
水瀬がすぐに音響系統を遮断する。
「外部入力なし、録音データでもない、通信じゃありません」
鷹宮が言った。
「数えられている」
御影が鷹宮を見る。
「何を」
「高さだ」
黒麒麟の天井が、きしんだ。
何かが上から押している。
上原は速度を落とさない。
水瀬の端末に、車高情報が表示された。
2・1メートル。
数字が勝手に変わる。
2・2。
2・3。
2・4。
「車内の高さを八尺にしようとしてます!」
白羽が天井へ札を貼る。
「ここは人の入る高さです、怪異の寸法にしません!」
札が光る。
車高表示が2・1メートルへ戻る。
天井の軋みが止まった。
戸張が小さく息を吐く。
「今回は、建物じゃなく寸法そのものに入ってくるのか」
御影が言う。
「八尺は姿ではない、条件だ」
水瀬が振り返る。
「一定の高さを持つ女じゃなく、八尺という基準に怪異が寄っている?」
「ネットで姿が固定された結果、八尺という数字だけが核になった可能性がある」
白羽が言う。
「でも今は、八尺より大きくなってます」
御影は答えた。
「越えたからだ」
戸張が眉を寄せる。
「何を」
「土地の封じを」
峰代町へ到着した頃、現実の空も曇り始めていた。
町役場の古参職員、志村が林道入口で待っていた。
60代の男性で、額に汗を浮かべている。
「こちらです、木村家までは車で入れます」
上原が黒麒麟を県道から細い町道へ入れる。
志村は別車両で先導した。
道の両側には畑が広がっている。
古い家。
低い石垣。
防風林。
ところどころに、八本の横線が刻まれた石柱が立っていた。
白羽が窓から見る。
「あれが村留めですか」
御影が答える。
「八方ではなく、八尺を区切る印だな」
水瀬が志村との通信を繋ぐ。
「石柱は何本ありますか」
『昔は集落を囲むように8本ありました、でも道路拡張や宅地造成で、今は5本しか残っていません』
白羽が顔をしかめる。
「封印の輪が欠けています」
志村の声が続く。
『それでも、今までは何もありませんでした』
御影が言う。
「土地の中にいた頃は、それで足りた」
水瀬が理解する。
「ネットで外から見られるようになって、残った5本の外側にも姿を出せるようになった」
町道の先に、木村家が見えた。
現地封鎖班が周辺に展開している。
だが、家へ近づけない。
敷地の周囲を、白い女が歩いている。
遠目でも異常な高さだった。
帽子の頂点は、2階建ての家の屋根を越えている。
白いワンピースの裾は地面についていない。
足があるのかもわからない。
歩くたびに、少しずつ大きさが変わる。
石垣のそばでは3メートルほど。
電柱の横へ移ると、その電柱より高くなる。
家の屋根のそばでは、屋根を見下ろす高さになる。
比較されるものに合わせて、大きくなっている。
水瀬が小声で言った。
「写真で“大きい”と比べられ続けたせいです」
白羽は女を見ないように札を準備する。
「人の想像って、どうして大きくする方向なんですか」
戸張が答える。
「怖い話は盛られるものだからな」
上原が黒麒麟を停める。
「俺が家まで行く」
御影が言う。
「単独ではだめだ、白羽と東雲を連れて行け」
白羽が上原を見る。
「上原さん、絶対に名前を呼ばれても返事しないでください」
「わかっている」
「戸張さんの声でもです」
「わかっている」
戸張が言う。
「俺ならもっといいことを言う」
「そういう問題じゃないです」
上原、白羽、東雲が車を降りる。
女は立ち止まった。
帽子の下の顔が、こちらへ向く。
遠いのに、笑っているのがわかった。
ぽ。
ぽ。
ぽ。
低い音が、畑全体から聞こえる。
上原は前を見る。
白羽が上原の背中に札を貼る。
「前だけ見てください、上は見ないで」
東雲は木村家の玄関を見ている。
内側から、誰かが叩いている。
女ではない。
家族がいる。
敷地まで、あと20メートル。
女が横へ滑るように移動し、道を塞いだ。
上原は止まらない。
女の白い服が、視界いっぱいに広がる。
その時、女の口から戸張の声がした。
「直城、止まれ」
上原は歩き続ける。
次は御影の声。
「上原、戻れ」
反応しない。
東雲の声。
「上原さん、助けてください」
上原の歩みが、ほんの少しだけ鈍った。
隣にいる東雲が言う。
「私はここにいます」
「ああ」
女の顔が下がってくる。
首が異様に長く伸びる。
帽子の影の中に、いくつもの口がある。
祖父。
父親。
母親。
友人。
第一班。
知っている声で、上原の名前を呼ぶ。
「直城」
その声だけは、戸張に似ていた。
上原は返事をしなかった。
代わりに、盾を地面へ叩き込んだ。
岩楯に鎮め縄の紋が光る。
「退け」
女の白い裾が、盾の前で止まる。
上原は、女そのものを押しているのではない。
道を確保している。
人が通る高さ。
人が歩く幅。
その範囲を盾で固定する。
白羽がすぐに札を左右へ投げる。
「ここは人の道です、八尺の通り道ではありません!」
女の身体が、左右に歪んだ。
東雲が木村家へ走る。
玄関は内側から施錠されている。
「東雲です、開けてください」
家の中は静かだった。
偽の声を警戒している。
東雲は続ける。
「蒼太くんのお母さん、返事はしなくて大丈夫です、玄関の右側に立ってください」
中で人が動く気配がする。
「今から3回、戸を叩きます」
東雲は一定の間隔で戸を叩いた。
一度。
二度。
三度。
白羽が事前に現地封鎖班へ伝えた、救出時の合図だった。
鍵が開く。
東雲が中へ入り、すぐに戸を閉める。
上原と白羽は外に残った。
女は盾の向こうで、さらに大きくなっている。
家より高い。
電柱より高い。
だが、上原が作った人一人分の道へ入れない。
女の声が変わる。
今度は、子どもの泣き声。
白羽の声。
「上原さん、助けて」
上原は隣を見る。
本物の白羽は札を貼っている。
「ここにいます」
「ああ」
「確認が短すぎます」
「いるならいい」
白羽は少しだけ笑いそうになり、すぐ真剣な顔に戻った。
黒麒麟では、水瀬が動画の拡散を抑えていた。
「現地映像の投稿元、町内じゃありません、動画自体が勝手に投稿されています、アカウントを止めても別名で出る」
御影が問う。
「視聴者は」
「5万を超えました、女がどんどん大きくなるので伸びています」
戸張が言う。
「見世物だな」
水瀬は唇を噛む。
「コメントの比較表現を止めます、“電柱より大きい”“家より高い”“山みたい”という投稿を検索から外す、代わりに高さ不明、遠近法、加工疑惑を増やします」
御影が頷く。
「高さを曖昧にしろ」
鷹宮が女を見ていた。
狙撃銃は構えていない。
「本体は女じゃない」
御影が問う。
「どこだ」
鷹宮は町の奥を指した。
古い集落道。
山裾。
そこに、途中で折れた石柱があった。
「六本目」
志村が驚く。
「あれは撤去されたはずです」
御影は言う。
「撤去できなかった」
石柱は地面から半分ほど出ている。
上部が切断され、草に覆われていた。
八本線のうち、一番上の線だけが削られている。
白羽の通信が入る。
『班長、この札、八本線じゃありません、正確には上から一本ずつ長さが違います』
御影が答える。
「尺だ」
『はい、長さを測る目盛りです』
水瀬が資料を調べる。
「八尺様を閉じるための札じゃない、怪異の高さを八尺に固定する札だった?」
御影は頷く。
「大きくならないように、八尺で止めていた」
戸張が女を見る。
「今は目盛りが欠けて、上限がない」
鷹宮が言う。
「戻すなら、柱だ」
御影は指示を出す。
「戸張、鷹宮と石柱へ、水瀬は高さ情報を攪乱し続けろ、俺は残りの村留めを繋ぐ」
戸張が刀を抜く。
「女は斬らないのか」
「斬れば、切られた数だけ比較対象が増える」
「今日は刀の出番が少ないな」
鷹宮が先に歩き出す。
「柱を直す」
「俺は石工じゃないぞ」
「切る場所はある」
戸張は少しだけ笑った。
「それならいい」
木村家の中では、蒼太が押し入れの前で震えていた。
東雲が祖母から状況を聞く。
「納戸と天井裏から声がします」
祖母は古い札を握っている。
「昔は、家の外までしか来なかったんです、石柱の内側にいれば大丈夫だった、それが今日は中に」
蒼太の母親が言う。
「スマホの動画が」
東雲は頷く。
「端末を全部、電源ではなく画面を伏せて箱へ入れてください、壊さなくて大丈夫です」
「電源を切らなくていいんですか」
「切ると、消えた画面を見ようとする人が増えます、今は見ないことが大切です」
蒼太が震えながら言う。
「僕が名前を言ったから?」
祖母が目を伏せる。
東雲は蒼太の前に座った。
「あなた一人のせいではありません」
「でも、僕が八尺様って」
「もう何万人も、その名前を知っています」
東雲は穏やかに言った。
「ひとりで背負える大きさではありません」
天井裏から、蒼太の声がした。
「僕が悪い」
蒼太は耳を塞ぐ。
東雲が天井を見上げる。
「あなたは蒼太くんではありません」
声が笑う。
「じゃあ、誰?」
東雲は答えない。
名前を与えれば、形を固定する。
天井の梁が、きしんだ。
白い指が隙間から伸びる。
異様に長い。
東雲は浄化札を指に貼った。
「ここは子どもの隠れる場所です、あなたの入る場所ではありません」
白い指が引っ込む。
外では、女が急に上原から離れた。
山側へ向きを変える。
戸張と鷹宮が石柱へ近づいたことに気づいたのだ。
白い女は、畑を越えて移動する。
一歩も歩いていない。
遠くの場所へ、縮尺を変えるように現れる。
鷹宮が言う。
「来る」
戸張が石柱の前に立つ。
「止められるか」
「狙いは柱だ」
女の腕が伸びる。
白い腕が、空を横切る。
戸張は腕を斬らない。
石柱へ絡みついた黒い影だけを斬る。
刃が走る。
黒い影が切れ、石柱に残っていた八本線が見えた。
一番上だけが欠けている。
鷹宮は銃を構える。
狙うのは女ではない。
石柱の横に転がっていた、切断された上部。
「そこだ」
鎮符弾が地面へ撃ち込まれる。
土が弾け、石柱の欠片が露出する。
戸張が拾い上げる。
「重いな」
「戻せ」
「簡単に言う」
女の顔が近づく。
帽子の下。
顔はなかった。
口だけが無数にある。
それぞれが違う声で話す。
「龍一」
「戸張さん」
「かっこいい」
「こっちを見て」
戸張は女を見なかった。
「褒め方が雑だな」
石柱の上部を、切断面へ合わせる。
だが、欠けた部分が噛み合わない。
人為的に削られている。
鷹宮が言う。
「足りない」
戸張は刀を見る。
そして、柄に巻いていた細い断札を外した。
「石は作れないが、線は戻せる」
断札を石柱へ巻く。
白羽家の札ではない。
戸張家のものだ。
物と物の縁を切る札。
戸張はそれを逆に使った。
「今日は繋ぐ」
鷹宮が少しだけ戸張を見る。
「できるのか」
「美しくはないがな」
札を結び、石柱の欠片を固定する。
一番上の線が戻った。
八本の目盛りが揃う。
白い女の身体が大きく揺れた。
水瀬が黒麒麟から叫ぶ。
「高さ関連投稿、減少、女の推定値がばらけています、2メートル、3メートル、加工、遠近法、もう誰も正確な大きさを決められません!」
御影は残る石柱の中心に立ち、御影札を掲げた。
「八つの目盛りを、ひとつの高さへ戻す」
白羽が木村家の外から応じる。
「村留め、接続します!」
残存する5本。
埋もれていた1本。
撤去された跡に札で作る2本。
八つの位置が、光の線で結ばれる。
白い女が町の中央に立つ。
山より高く見えた身体が、揺らぐ。
電柱ほど。
屋根ほど。
木ほど。
比較するものを失い、形が定まらない。
御影が言った。
「八尺は、お前の大きさではない」
女の口から、低い音が漏れる。
ぽ。
ぽ。
ぽ。
今度は、少し速い。
「ここから先へ出さないための限りだ」
御影札が開く。
「御影紋、開帳」
八咫鏡に三つ藤の紋が、町を囲む八つの点へ広がった。
白羽が札を結ぶ。
「一尺、二尺、三尺、四尺」
女の身体が縮む。
「五尺、六尺、七尺」
帽子が屋根より低くなる。
最後に白羽は、はっきりと言った。
「八尺、ここまでです」
女の足が初めて地面についた。
白いワンピース。
白い帽子。
異様に高いが、空へ伸び続ける姿ではない。
約八尺。
元の大きさ。
上原が盾を構えたまま、女の前に立つ。
女は上原より少し高い。
初めて、ひとりの人間に近い大きさで向き合う。
帽子の下から声がした。
「直城」
上原は答えない。
女が別の声を出す。
「お父さん」
上原は動かない。
「班長」
動かない。
「助けて」
上原は盾を地面へ立てた。
「その声は、お前のものじゃない」
戸張が戻りながら言う。
「いいこと言うな、直城」
上原は振り返らない。
「お前の声はわかる」
戸張の笑みが少し消えた。
白い女の口が閉じる。
御影が八本線の札を掲げる。
「峰代の内に留まれ」
白羽が補強する。
「外から与えられた大きさを捨ててください」
水瀬が最後の関連配信を、削除ではなく静止状態へ移す。
画面には、遠くに立つ白い女。
高さはわからない。
コメント欄の上部に、注意書きが表示される。
映像加工の可能性があります。
現在地を特定する投稿は控えてください。
対象の大きさを断定できる情報はありません。
視聴者の関心が少しずつ薄れる。
新しい投稿が止まる。
白い女の輪郭が、徐々に透けていく。
最後まで帽子だけが残った。
風が吹く。
帽子が畑の上を転がり、古い石柱のそばで止まる。
女の姿は消えた。
木村家の中に響いていた声も止まった。
天井裏。
納戸。
玄関。
静かになる。
蒼太は、しばらく耳を塞いだままだった。
東雲が言う。
「もう聞こえません」
蒼太はゆっくり手を下ろした。
「終わった?」
「今は」
東雲は、完全に終わったとは言わなかった。
祖母が胸元の札を見た。
八本の横線が、薄く光っている。
「昔と同じに戻ったんですね」
東雲は答える。
「同じではありません」
祖母が顔を上げる。
「今は、町の外にも名前を知られています」
御影たちは木村家の庭に集まった。
白い帽子は、白羽が直接触れずに封袋へ収めている。
「依代ですか」
水瀬が問う。
白羽は首を振る。
「たぶん、見た人が想像した帽子が残っただけです、本体ではありません」
鷹宮が石柱を見る。
「本体は、まだ土地にいる」
戸張が言う。
「倒したわけじゃないか」
御影は頷く。
「元の範囲へ戻しただけだ」
志村が不安そうに聞く。
「また出ますか」
御影は正直に答えた。
「可能性はある」
志村の顔が曇る。
「ただし、石柱を守り、現地を見世物にしなければ、今回ほど強くはならない」
水瀬が言う。
「町の名前と場所は、関連検索から外します、住民の皆さんにも動画撮影と投稿を控えてもらいます」
祖母は蒼太の肩を抱いた。
「この子は」
東雲が答える。
「しばらく声の模倣が残る可能性があります、家族同士で合図を決めてください、声だけで戸を開けないように」
蒼太は俯いていた。
上原が少し離れた場所から言う。
「怖かったら、返事をしなくていい」
蒼太が顔を上げる。
上原は続けた。
「家族でも、確認してからでいい」
蒼太は小さく頷いた。
黒麒麟が峰代町を離れる頃、日は傾き始めていた。
行きに見た石柱のそばを通る。
5本しか見えなかった村留めは、仮設の札と復元された石柱によって、八つの位置が再び結ばれている。
完全な封印ではない。
だが、限りは戻った。
帰りの車内で、水瀬が報告書を入力した。
N級ネット増殖怪異。
通称、八尺様。
峰代町広域視認事案。
ネット上の比較表現による巨大化。
村留め八尺標復元。
対象、旧来範囲へ再収容。
被害者なし。
関連投稿、継続監視。
白羽が後ろから言う。
「本当にネット怪談だったんですね」
水瀬は頷く。
「はい、でもネットで知られている話と、現地の仕組みは少し違いました」
戸張が言う。
「ネットが嘘だったわけではない」
「全部本当でもないです、たくさんの人が足した結果、別の本当になったんだと思います」
御影が静かに言う。
「語りは、伝わるだけで変わる」
東雲は窓の外を見る。
「怖いものほど、大きく伝わりますからね」
上原が運転しながら言った。
「実際、大きかった」
戸張が少し笑う。
「直城より大きい相手は珍しいな」
「関係ない」
「最後、少し悔しそうだったぞ」
「悔しくない」
水瀬が助手席で笑った。
「上原さん、八尺よりは低いですからね」
上原は答えなかった。
白羽が小声で言う。
「気にしてます?」
「していない」
車内に、久しぶりに軽い笑いが起きた。
その夜。
峰代町では、住民たちが古い石柱の周囲に簡素な柵を作っていた。
観光案内は置かない。
由来を書いた看板も立てない。
写真を撮る場所にもさせない。
ただ、壊さないために守る。
木村家では、蒼太と母親と祖母が、声だけで戸を開けないための合図を決めた。
三回叩く。
一度止める。
もう一回叩く。
夜になっても、白い女は現れなかった。
深夜。
蒼太のスマートフォンに、一件だけ通知が届いた。
『八尺様って、本当はどれくらい大きいの?』
蒼太は少し迷った。
そして、返信をしなかった。
画面を伏せる。
通知は、それ以上増えなかった。
家の外。
古い石垣の向こうを、白い帽子のようなものが一瞬だけ通り過ぎた。
けれど、屋根より高くはなかった。
八尺。
それ以上には、ならなかった。




