14ノ語 十三階には誰も住んでいない
高層マンションには、十三階がないことがある。
縁起が悪いから。
海外の文化に合わせたから。
十二階の次を十四階と表示しているだけで、建物としては十三番目の床が存在する。
そんな説明を聞けば、たいていの人は納得する。
数字を飛ばしたところで、階そのものが消えるわけではない。
十二階と十四階の間には、必ず空間がある。
床があり、天井があり、配管が通り、電気の線が走っている。
では、表示されていない階には、誰が住んでいるのか。
もちろん、誰も住んでいない。
そう答えられるうちは、まだ普通だった。
東京都内に建つ、蒼嶺レジデンス。
地上24階。
築12年。
駅に近く、低層階には店舗、高層階には広い住戸が並ぶ。
入口にはオートロックがあり、管理人は24時間常駐。
エレベーターは3基。
居住者用が2基、非常用兼搬入用が1基。
建物の階数表示は、12階の次が14階だった。
建築図面上では、十三番目の床は機械設備階として処理されている。
住戸はない。
廊下もない。
エレベーターも停止しない。
そのはずだった。
異変が始まったのは、深夜1時を過ぎた頃だった。
18階に住む会社員の女性が、帰宅のためエレベーターに乗った。
1階から18階のボタンを押す。
箱は上昇した。
5階。
8階。
12階。
表示は次に14を示すはずだった。
だが、一瞬だけ、13が点灯した。
エレベーターが止まる。
女性はボタンを押していない。
誰かが外から呼んだ様子もない。
扉が開いた。
そこには、マンションの廊下があった。
蒼嶺レジデンスと同じ壁紙。
同じ照明。
同じ灰色の絨毯。
左右に住戸の扉が並んでいる。
ただし、廊下は暗かった。
天井灯がひとつおきに消えている。
部屋番号のプレートには、どれも数字がない。
廊下の奥から、テレビの音が聞こえていた。
女性は怖くなり、閉じるボタンを押した。
扉が閉まる直前、ひとつの住戸の扉が開いた。
中から、幼い女の子が出てきた。
パジャマ姿。
片手に歯ブラシ。
もう片方の手には、黄色いコップ。
女の子はエレベーターの中の女性を見た。
「お母さん、帰ってきた」
女性に子どもはいなかった。
扉は閉まった。
エレベーターは18階へ上がり、何事もなかったように停止した。
その夜、女性は眠れなかった。
翌朝、管理会社へ連絡した。
管理人は設備記録を確認したが、エレベーターは十三階で停止していない。
監視カメラにも異常はない。
ただし、女性が乗っていた時間だけ、箱内カメラの映像が47秒間欠けていた。
それだけなら、機械の不具合で済んだかもしれない。
3日後、別の住人が同じ階を見た。
今度は、宅配業者だった。
搬入用エレベーターで20階へ荷物を運ぶ途中、十三階に停止した。
扉の先には暗い廊下があり、玄関前に段ボール箱がいくつも積まれていた。
箱には、配達先が書かれていた。
蒼嶺レジデンス十三階。
部屋番号は空欄。
受取人の名前だけがあった。
自分の名前だった。
宅配業者は荷物を置かず、閉じるボタンを押した。
だが、扉は閉まらなかった。
廊下の奥から、台車を押す音が近づいてくる。
がらがら。
がらがら。
やがて暗がりから、自分と同じ制服を着た男が現れた。
顔も同じだった。
その男は空の台車を押し、エレベーターの前で止まった。
「もう配ったよ」
宅配業者は非常ボタンを押した。
扉が閉まり、エレベーターは急上昇した。
20階に到着した時、台車に積んでいた荷物が一つ増えていた。
配達先は、彼の自宅。
送り主は空欄。
箱の中には、古い鍵が入っていた。
蒼嶺レジデンスの管理会社が警察へ相談し、警察から現地封鎖班へ情報が回った。
だが、現地調査では異常を確認できなかった。
エレベーターは正常。
設備階への停止記録なし。
機械室の扉にも開閉痕なし。
監視映像の欠損はあるが、原因不明。
現地封鎖班が撤収を検討し始めた深夜、管理人室のモニターに、存在しない映像が映った。
十三階の廊下。
画面の中では、住民たちが生活していた。
子どもが走っている。
買い物袋を持つ女性が部屋へ入る。
男性が新聞を取りに出る。
老人が植木鉢に水をやっている。
誰もカメラを見ない。
普通の生活だった。
ただし、そこに映っている人間は、すべて現在の蒼嶺レジデンスの居住者だった。
実際の部屋で眠っているはずの人々が、十三階でも生活していた。
午前2時13分。
映像の中の住人が、一斉に立ち止まった。
そして、全員が監視カメラを見た。
画面に文字が表示された。
空室があります。
霞ヶ関地下封域の解析室に映像が届いたのは、午前3時前だった。
水瀬は映像を再生しながら、机の上にインスタントコーヒーを置いた。
一口も飲んでいない。
御影が入ってきた時、水瀬はモニターを見たまま言った。
「今回、私かなり嫌いです」
「何が起きている」
「存在しない十三階で、実在する住人の生活が複製されています、現時点で行方不明者なし、負傷者なし、ただしエレベーター異常が2件、監視カメラへの映像侵入が1件です」
御影は十三階の映像を見る。
住民たちはすでに動きを止めていた。
カメラを見たまま、誰も瞬きをしない。
「録画か」
「違います、現在進行形です、建物内の電力消費と連動しています、十三階の映像で照明がつくと、実際の建物でも同じ分だけ電力が使われます」
水瀬は別のデータを表示した。
「水道使用量も増えています、ガスはなし、携帯回線もなし、ただし有線の館内設備だけは十三階を認識し始めています」
戸張、上原、東雲、白羽、鷹宮も解析室へ入ってくる。
上原が画面を見る。
「人がいるように見える」
水瀬は頷く。
「見えるだけじゃなくて、設備上はいることになり始めています、管理システムの居住者数が昨日より34人増えました、全員、既存住人の重複です」
白羽が小さく言った。
「増えたんじゃなくて、二重になってる」
「はい、それと、住戸管理データに存在しない部屋が追加されています、部屋番号は全部空欄、契約者名だけが現居住者と同じです」
東雲が映像の女の子を見る。
「最初の女性をお母さんと呼んだ子も、どこかの住人なんですか」
水瀬は資料を開く。
「14階に住む家族の娘と一致します、ただし本人は8歳、映像の子は5歳くらいです」
御影が問う。
「過去の姿か」
「その可能性があります、他の住人も年齢が少し違います、現在より若い人、老けている人、子どもの頃の姿、混在しています」
鷹宮は映像を見ていた。
「同じ人ではない」
水瀬が振り返る。
「見た目は一致してますけど」
「生活が違う」
画面の中で、ひとりの男性が玄関を開けた。
現実では一人暮らしの会社員。
映像の中では、妻らしき女性と幼い男の子が出迎えている。
東雲が静かに言った。
「あり得たかもしれない生活」
御影は画面を見た。
「選ばなかった生活か」
水瀬の指が止まる。
「十三階は、住人が今とは別の選択をした世界を作っている?」
戸張が眉を寄せる。
「急に話が大きくなったな」
水瀬はすぐに首を振った。
「別世界と決めるのは早いです、建物が住人の記録から“住んでいない生活”を組み立てているだけかもしれません」
白羽が不安そうに言う。
「それ、何が違うんですか」
「本当に別の世界があるのか、設備が見せている怪異なのかの違いです」
「どっちも嫌です」
上原が聞く。
「原因は」
水瀬は建築図面を表示した。
「十三階相当の設備階に、以前は共用ラウンジを作る計画がありました、設計変更で中止、その後は配管と制御盤だけの機械階になっています、ただし建設途中に事故が1件」
御影が見る。
「死者は」
「作業員1名、転落死、名前は高梨雅人、当時28歳、設備制御の担当でした」
東雲が言う。
「その人の未練ですか」
「今のところ本人の霊障反応はありません、それより気になるのが、事故後に変更されたシステムです」
水瀬は古い仕様書を開いた。
「蒼嶺レジデンスは、居住者の生活傾向に合わせて照明、空調、エレベーターを最適化する先進管理システムを導入しています、住民の移動、在宅時間、電力使用量、共用設備の利用傾向を長期間蓄積している」
戸張が言う。
「建物が、住人の生活を知っている」
「かなり細かく知っています、そして設備階には、廃止された初期サーバーが残っています」
御影は言った。
「使われなかった階が、使われなかった生活を作ったか」
水瀬は腕を組んだ。
「理屈としては変です、でも怪異の発生核としてはあり得ます、空間、記録、未使用、生活の蓄積、そこに事故か何かが加わって、空室を埋めようとしている」
鷹宮が短く言った。
「空室ではない」
「何がですか」
「待っている」
画面の中で、住民たちが一斉に動いた。
それぞれが自分の部屋へ入る。
廊下には誰もいなくなる。
ひとつだけ、扉が開いたまま残った。
部屋番号はない。
室内は暗い。
玄関の床に、靴が7足並んでいた。
黒い革靴。
大きな作業靴。
女性用の靴。
小さな靴。
どれも、第一班の人数と同じだった。
水瀬は画面を拡大した。
「招待されてますね、これ」
白羽が後ろへ半歩下がる。
「行かなくてもいいですか」
御影は答えた。
「行く」
「聞いてみただけです」
水瀬が端末を閉じる。
「今回は私も内部へ入ります、設備系の制御を現場で見ないと無理です」
御影が少しだけ考える。
「黒麒麟からでは足りないか」
「十三階は館内有線系だけで成立しています、外から切るとエレベーターごと孤立する可能性があります、私が設備階へ行きます」
上原が言う。
「俺がつく」
水瀬は少し驚いた。
「助手席の続きですか」
「護衛だ」
「わかってます」
戸張が笑う。
「玲央ちゃん、少し嬉しそうだな」
「全然です、ちゃん付けやめてください」
水瀬は端末を抱え直した。
だが、表情は少しだけ緩んでいた。
黒麒麟は、夜明け前の霞ヶ関を出た。
首都高を経由して都内を移動する。
街には始発前の静けさが残っていた。
蒼嶺レジデンスの周辺は、現地封鎖班によって設備点検の名目で一部規制されている。
住民は避難させていない。
急な全館避難が、十三階に新しい生活記録を与える可能性があった。
それに、現時点で住戸側に直接の被害は出ていない。
水瀬は助手席で説明を続けた。
「内部班は御影班長、上原さん、私、白羽さん、東雲さん、戸張さん、鷹宮さん、全員です、ただし役割を分けます」
戸張が言う。
「今回は玲央ちゃんが指揮か」
「設備に関しては私の指示を聞いてください、絶対にボタンを勝手に押さない、知らない扉を開けない、館内表示の数字を信用しない」
「注文が多いな」
「戸張さん向けに言っています」
「俺はそんなに押さない」
上原が言う。
「押す」
「直城まで」
白羽が後ろで言った。
「私も戸張さんは押すと思います」
東雲が小さく笑う。
「今日は皆さん意見が合いますね」
戸張は諦めたように窓の外を見た。
蒼嶺レジデンスに到着した時、外はまだ暗かった。
エントランスは明るい。
磨かれた床。
観葉植物。
宅配ロッカー。
ソファ。
どこにでもある高級マンションのロビー。
管理人が青ざめた顔で待っていた。
「先ほどから、十三階の住民を名乗る方から、内線が入っています」
水瀬が問う。
「内容は」
「ゴミ置き場が開かない、上の階がうるさい、宅配便が届かない、そういった普通の苦情です」
「内線番号は」
「空欄です」
水瀬は少しだけ顔をしかめた。
「普通の苦情なのが一番嫌ですね」
管理人室へ入る。
モニターには十三階の廊下が映っていた。
今は誰もいない。
開いていた部屋の扉も閉じている。
水瀬は館内システムに端末を接続した。
「十三階の居住データ、さらに増えています、今は52人、複製だけじゃない、新しい家族構成が作られています」
東雲が画面を見る。
「最初に目撃した女性は」
「十三階側では、子ども2人と夫がいることになっています、現実では独身です」
白羽が小さく言う。
「本人が望んでいる生活なんでしょうか」
東雲は少し考えた。
「望んでいるとは限りません、ただ、選ばなかっただけかもしれない」
御影が言う。
「怪異が勝手に幸せを決めている可能性もある」
水瀬は頷いた。
「そこが重要です、本人の願望を叶える場所とは限らない、建物側がデータから“家族らしい形”を作っているだけかもしれません」
館内放送が鳴った。
柔らかな女性の声。
『十三階へお越しのお客様は、中央エレベーターをご利用ください』
管理人の顔から血の気が引いた。
「この放送、登録されていません」
上原がエレベーターホールを見る。
3基ある扉のうち、中央の扉だけが開いた。
中は無人。
階数表示には、13が点灯している。
水瀬が端末を持ち直した。
「行きましょう、たぶん今しか入れません」
白羽が言う。
「入りたくないです」
「私もです」
水瀬はそう言いながら、最初に乗った。
上原が続く。
御影、戸張、東雲、白羽、鷹宮が乗り込む。
扉が閉まる。
誰もボタンを押していない。
エレベーターは上昇した。
2階。
5階。
9階。
12階。
表示が消える。
箱は動き続けている。
上がっているのか、止まっているのかわからない。
機械音だけが長く続く。
水瀬は壁の制御盤に端末を近づけた。
「移動距離が合いません、建物の高さを超えています」
戸張が言う。
「空に出るか?」
「笑えません」
白羽が床を見る。
「影は普通ですね」
鷹宮が答えた。
「ここでは影を使わない」
「それなら少し安心です」
「別のものを使う」
「言わなくていいです」
エレベーターが止まった。
表示に、13。
扉が開く。
暗い廊下があった。
映像で見た通りの壁紙。
同じ絨毯。
同じ住戸の扉。
だが、完全に無人ではなかった。
廊下の左右に、靴が並んでいる。
子どもの靴。
革靴。
スニーカー。
買い物袋。
三輪車。
傘。
誰かが住んでいる。
生活の匂いがした。
料理。
洗濯洗剤。
風呂上がりの湿気。
新しい家具の木の匂い。
上原が先に出た。
水瀬がその背後につく。
「設備制御盤は廊下の奥です、図面上では壁ですけど、ここでは部屋になってる可能性があります」
戸張が廊下の扉を見る。
「全部番号がないな」
白羽が札を一枚出す。
「貼ってもいいですか」
水瀬がすぐに言う。
「まだだめです、ここでは札も居住者登録されるかもしれません」
白羽が札を戻す。
「何でも登録するの、面倒です」
近くの扉が開いた。
中年の男性が顔を出す。
現実の蒼嶺レジデンス19階に住む人物だった。
ただし、年齢が今より10歳ほど若い。
「遅かったですね」
男性は自然に言った。
御影が問う。
「何がだ」
「点検です、管理会社から連絡がありました、最近エレベーターの調子が悪くて」
水瀬は何も答えず、男性の背後を見る。
部屋の中には、女性と子どもがいる。
現実の男性は一人暮らし。
離婚歴がある。
子どもは元配偶者と暮らしている。
部屋の中の子どもが男性を呼ぶ。
「お父さん」
男性は振り返り、優しく答える。
「すぐ戻るよ」
その表情は自然だった。
演じているようには見えない。
東雲が小さく言う。
「ここでは、この生活が本人にとって本物なんですね」
男性は御影たちを見た。
「作業が終わったら、帰る時に声をかけてください」
扉が閉まる。
戸張が低く言う。
「斬れないな」
御影は頷いた。
「住民ではないが、怪異とも言い切れない」
水瀬が歩き出す。
「設備を止めます、この階を消すんじゃなく、現実側との同期を切る」
廊下を進む。
他の部屋からも生活音がする。
笑い声。
食器の音。
テレビ。
掃除機。
子どもを叱る声。
どれも普通だった。
だからこそ、誰も不用意に扉を開けられない。
廊下の途中で、東雲が足を止めた。
ひとつの部屋から、女性の泣き声が聞こえる。
小さい声。
誰かに聞かれないように押し殺している。
東雲が扉を見る。
御影が言う。
「開けるな」
「はい」
東雲は答えたが、すぐには動かなかった。
扉の向こうで、女性が言う。
「こんなはずじゃなかった」
水瀬が端末を確認する。
「17階の住人と一致、現実では夫と二人暮らし、十三階側では子どもが3人いることになっています」
白羽が小さく言う。
「幸せな生活じゃないんだ」
東雲が扉から離れる。
「別の選択が、良い結果になるとは限りません」
廊下の奥に、子どもが立っていた。
最初の女性をお母さんと呼んだ女の子。
黄色いコップを持っている。
「点検の人?」
水瀬が頷く。
「そうです、機械を見に来ました」
「直ったら、お母さん帰ってくる?」
水瀬の表情が少し固まる。
御影が答えた。
「お前の母親は、ここにはいない」
女の子は首を傾げた。
「いるよ、まだ帰ってないだけ」
東雲が御影を見る。
言い方は正しい。
だが、子どもに向けるには少し硬すぎる。
東雲は女の子の前にしゃがんだ。
「あなたのお名前は?」
女の子は答えなかった。
「まだ決まってない」
水瀬が息を止める。
「名前がないんですか」
「お母さんが帰ったら、つけてもらうの」
女の子は笑った。
その笑顔は、どこか不自然だった。
顔が崩れているわけではない。
声も普通。
ただ、人間が覚えている笑顔を、正確に再現しただけのように見える。
鷹宮が静かに言った。
「この子が核じゃない」
水瀬が問う。
「じゃあ何ですか」
「案内だ」
女の子は廊下の奥を指した。
「機械のお部屋、こっち」
水瀬は迷った。
御影が言う。
「行く」
女の子の後ろを、少し距離を空けて進む。
廊下は長かった。
建物の幅を超えている。
曲がり角を二度曲がり、さらに進む。
途中の窓から、外が見えた。
夜の東京。
だが、窓の向こうには蒼嶺レジデンスと同じ建物が、無数に並んでいる。
すべての建物に十三階がある。
すべての窓に、人が住んでいる。
白羽が窓を見ないようにして言った。
「これは見なかったことにします」
戸張が答える。
「賢明だな」
女の子が一枚の扉の前で止まった。
「ここ」
扉には、管理室と書かれている。
水瀬が端末を近づける。
「初期サーバーの反応、あります、現実の設備階と同じ位置です」
御影が女の子を見る。
「お前はどうする」
「待ってる」
「誰を」
「お母さん」
御影は何も言わなかった。
水瀬が管理室の扉に手をかける。
開かない。
認証パネルには、居住者名を入力してください、と表示されている。
水瀬が端末を接続する。
「管理権限じゃ開かない、居住者として登録しろってことです」
上原が言う。
「壊すか」
「壊したらこの階の生活が全部止まるかもしれません、中にいるものがどうなるかわからない」
戸張が言う。
「なら、俺たちの誰かが住人になるか」
白羽が即座に首を振る。
「だめです」
水瀬は画面を調べる。
「一時登録ならできるかも、入居じゃなくて点検業者として」
「さっき住人名を要求してると言っただろ」
「裏口を探してます」
水瀬の指が止まる。
画面に、すでにひとつ名前が入っていた。
水瀬玲央。
水瀬の顔が強張る。
「私、登録されてます」
廊下の照明が一段明るくなる。
近くの扉に、部屋番号が表示された。
そのプレートに、水瀬玲央と書かれている。
白羽が言う。
「いつ登録されたんですか」
水瀬は必死にログを追う。
「エレベーターに乗った時、館内端末へ接続したからです、私の行動データを住民情報として取り込んだ」
戸張が扉を見る。
「玲央ちゃんの部屋か」
「ちゃん付けしてる場合じゃないです」
部屋の中から、誰かの声がした。
「玲央、おかえり」
水瀬が動きを止めた。
その声は、知っている声だった。
だが、誰のものかはわからない。
懐かしい。
ずっと前から聞いていた気がする。
帰る場所から呼ばれているような声。
上原が水瀬の前に立った。
「見るな」
水瀬は扉を見たまま答える。
「見てません」
「聞くな」
「無理です」
声が続く。
「ご飯、できてるよ」
水瀬の端末画面に、室内の情報が表示される。
入居者、水瀬玲央。
同居人、1名。
職業、在宅勤務。
平均睡眠時間、7時間12分。
帰宅時刻、午後7時18分。
今の水瀬とはまったく違う生活だった。
決まった時間に帰り、眠り、誰かと食事をする。
東雲が水瀬の横へ来た。
「玲央ちゃん」
水瀬は答えない。
「こちらを見てください」
少し遅れて、水瀬は東雲を見た。
「真白さん」
「はい」
「私、ちょっとだけ見たいです」
東雲は否定しなかった。
「そうですね」
「否定してくださいよ」
「見たいと思うことまで否定しません、でも入らないでください」
水瀬は息を吐いた。
「ずるいです」
「よく言われます」
上原が管理室の扉を見る。
「水瀬の登録を使え」
水瀬は自分の部屋から視線を外した。
「使ったら、私がこの階の正式な住人に固定される可能性があります」
御影が言う。
「固定される前に切る」
「簡単に言いますね」
「できるか」
水瀬は管理パネルを見た。
少し考える。
「できます、たぶん」
上原が言った。
「たぶん、は信用できない」
水瀬は思わず笑った。
「それ、私にも言うんですね」
「言う」
水瀬は端末を管理パネルへ接続した。
「一時的に入居登録を成立させます、管理室が開いたら、上原さんが扉を固定、白羽さんが私の部屋との縁を切る、戸張さんは登録データと生活データを分離、御影班長はこの階を現実の建物から外してください」
白羽が言う。
「注文が多いです」
「今の私が一番怖いので、頑張ってください」
白羽は真剣に頷いた。
「頑張ります」
水瀬が認証を実行する。
管理パネルが緑色に変わる。
入居を承認しました。
廊下中の扉が一斉に開いた。
住人たちが立っている。
全員が水瀬を見る。
「おかえりなさい」
声が重なる。
水瀬の部屋の扉も開いた。
中には、暖かい照明。
食卓。
二人分の食事。
ソファ。
本棚。
整理された机。
誰かがいる。
顔は見えない。
「玲央」
水瀬の足が、ほんの少しだけ部屋へ向いた。
上原が水瀬の肩を掴んだ。
「管理室を見ろ」
水瀬は目を閉じ、もう一度開いた。
「はい」
管理室の扉が開く。
上原がすぐに入り、扉を盾で固定した。
白羽が水瀬の部屋へ伸びる光の線に札を貼る。
「この部屋は、水瀬玲央の帰る場所ではありません」
戸張が断札を投げる。
「生活記録と本人を分ける」
黒い糸が切れた。
水瀬の部屋から聞こえていた声が歪む。
「玲、央」
水瀬は振り返らなかった。
管理室の中には、大きな制御盤があった。
古いサーバー。
無数の配線。
住民データを表示するモニター。
画面には、住民一人ひとりの生活が並んでいる。
帰宅。
外出。
食事。
睡眠。
入浴。
家族。
孤独。
選択。
後悔。
建物は、それらを記録していた。
そして、空いている十三階に、別の生活を作っていた。
水瀬はサーバーを確認する。
「これ、事故で亡くなった作業員の霊じゃありません」
御影が問う。
「何だ」
「管理システムそのものです、住民を快適にするため、足りないものを予測して補うよう設計されている、でも機械階だけが空白のまま残った、そこへ12年分の生活データが流れ続けた」
東雲が言う。
「人の足りないものを、勝手に補い始めた」
「はい」
水瀬はモニターを見る。
「家族がいない人には家族、子どもを持たなかった人には子ども、離婚した人には別の暮らし、仕事で疲れている人には早く帰れる生活、でも本人が望んだかは関係ない」
御影は言った。
「幸福を模倣した空室か」
水瀬はサーバーの中枢データへアクセスする。
「完全に停止すると、この階の住人は全部消えます」
白羽が管理室の外を見る。
廊下には住人たちが立っている。
誰も襲ってこない。
ただ、自分の生活を奪われるのを待っている。
東雲が静かに言った。
「この人たちは、本物ではありません」
水瀬が答える。
「わかってます」
「でも、ここでは生活していた」
「わかってます」
水瀬の声が少し強くなる。
「だから嫌なんです」
室内が静かになった。
水瀬はサーバー画面を見た。
自分の十三階の生活も表示されている。
睡眠時間。
帰宅時刻。
同居人。
温かい食事。
休日。
自分に足りないものを、建物は正確に選んでいた。
御影が言う。
「水瀬、判断しろ」
水瀬は振り返る。
「私が?」
「この怪異を最も理解しているのはお前だ」
水瀬は少しだけ御影を睨むように見た。
「そういう時だけ任せますよね」
「そういう時だから任せる」
水瀬は小さく息を吐いた。
そして、端末へ入力を始める。
「消しません」
白羽が驚く。
「残すんですか」
「生活データとしては残します、でも“居住者”ではなく、“予測ログ”に戻す、この階を住居から、使われなかった設計案へ戻します」
御影が頷く。
「できるか」
「やります」
水瀬は初期サーバーの設定を書き換える。
住民。
居住。
在宅。
契約。
それらの項目を解除する。
代わりに、未採用案。
予測。
模擬。
非実在。
建物が作った生活を、嘘として消すのではない。
あり得たかもしれない計算として、記録の中へ戻す。
廊下の住人たちの姿が、少しずつ薄くなる。
最初の女の子が、管理室の入口に立っていた。
「お母さん、来ないの?」
水瀬の手が止まりかける。
東雲は何も言わなかった。
御影も答えない。
水瀬が女の子を見る。
「来ません」
女の子は首を傾げる。
「どうして?」
「あなたのお母さんは、あなたを選ばなかったんじゃないです」
水瀬はゆっくり言った。
「あなたが、まだ誰にも選ばれていないだけです」
女の子は意味がわからないような顔をした。
「名前もないの?」
「はい」
「かわいそう?」
水瀬は少し黙った。
「わかりません」
正解らしい言葉は言わなかった。
「でも、勝手に誰かの子どもにされるよりはいいと思います」
女の子は黄色いコップを見た。
「そっか」
姿が薄くなる。
最後に、女の子は少しだけ笑った。
今度は、人間の笑顔を真似たようには見えなかった。
「じゃあね、点検の人」
「はい」
女の子は消えた。
同時に、廊下の生活音が止まる。
テレビ。
食器。
掃除機。
笑い声。
すべてが消えた。
水瀬の部屋も暗くなる。
同居人の影は、最後まで顔を見せなかった。
水瀬は見なかった。
サーバー画面に、処理完了の表示が出る。
十三階居住機能、解除。
未採用生活予測ログ、隔離保存。
御影が御影札を出した。
「建物との同期を切る」
白羽が管理室の四隅に札を貼る。
「設備階へ戻します」
戸張が最後の黒い糸を斬る。
「住人登録、解除」
上原が盾を床へ立てる。
「外へ漏らさない」
鷹宮が廊下を見る。
「消える」
御影が札を掲げる。
「御影紋、開帳」
八咫鏡に三つ藤の紋が、管理室の床に広がる。
廊下が歪む。
壁紙が剥がれるように消え、その下から配管とコンクリートが現れる。
住戸の扉は制御盤へ変わる。
絨毯は灰色の防塵床へ。
天井灯は作業用照明へ。
十三階は、機械設備階へ戻った。
誰も住んでいない場所。
エレベーターの扉が開いている。
表示はない。
水瀬は端末を確認した。
「同期、切断、居住者数も正常、エレベーター停止階から十三階が消えました」
白羽が周囲を見る。
「本当に誰もいないですか」
鷹宮が答える。
「いない」
白羽は大きく息を吐した。
「よかったです」
上原が水瀬を見る。
「部屋は」
「消えました」
「声は」
「聞こえません」
「ならいい」
戸張が言う。
「直城、今日は確認が細かいな」
上原は答えない。
水瀬は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
上原は短く頷いた。
現実の18階に住む女性は、その後十三階を見ることはなかった。
宅配業者の元へ増えていた荷物も、いつの間にか消えていた。
中に入っていた古い鍵だけは残ったが、蒼嶺レジデンスのどの扉にも合わなかった。
管理会社は、設備制御システムの一部を停止した。
表向きには、老朽化した初期サーバーの撤去とエレベーター制御の更新。
居住者には、短時間の設備障害として説明された。
十三階相当の機械設備階には、新しい物理鍵がつけられた。
ネットワークから完全に切り離され、定期点検は必ず複数人で行う。
ただし、旧サーバーのデータは削除されなかった。
霞ヶ関地下封域の隔離記録へ移され、外部から閲覧できない形で保存された。
水瀬がそう決めた。
黒麒麟は、朝の道路を霞ヶ関へ向かって走っていた。
上原が運転席。
水瀬が助手席。
後部に御影、戸張、東雲。
白羽と鷹宮は三列目。
空は明るくなり始めている。
水瀬は端末に報告書を入力していた。
C級定着怪異。
通称、十三階には誰も住んでいない。
蒼嶺レジデンス生活予測実体化事案。
居住同期解除。
初期サーバー隔離。
被害者なし。
継続監視。
戸張が後部座席から言った。
「玲央ちゃん、あの部屋、見たかったか」
水瀬は前を見たまま答える。
「少しだけ」
「正直だな」
「戸張さんなら見ました?」
戸張は少し考えた。
「俺の部屋なら、たぶん俺が何人もいる」
白羽が言う。
「嫌な部屋ですね」
東雲が笑った。
「少し見てみたいです」
「真白さんまで」
車内に小さな笑いが起きる。
御影は水瀬に言った。
「残した判断は正しい」
水瀬は振り返らない。
「消したら、なかったことになりますから」
「ああ」
「でも、あの子たちが本当にいたのかは、わかりません」
「わからないままでいい」
水瀬は少し黙った。
「班長、たまに楽な答えを言いますよね」
「楽ではない」
「わかってます」
上原が前を見ながら言った。
「今日は帰ったら寝ろ」
水瀬は端末を閉じた。
「はい」
東雲が助手席の背後から言う。
「本当に寝てくださいね、玲央ちゃん」
「はい、真白さん」
白羽も続ける。
「端末持って寝るの禁止です」
「それは善処します」
「禁止です」
「はい」
黒麒麟は霞ヶ関へ戻っていく。
蒼嶺レジデンスのエレベーターは、朝から通常通り動いていた。
1階。
5階。
8階。
12階。
14階。
十三階の表示はない。
昼過ぎ、清掃員が中央エレベーターの鏡を拭いていた。
鏡の隅に、小さな手形がひとつついている。
子どもの手ほどの大きさ。
清掃員は不思議そうに首を傾げ、布で拭いた。
手形はすぐに消えた。
その後ろで、階数表示が一瞬だけ暗くなる。
だが、十三という数字は出なかった。
エレベーターは何事もなく、十四階へ向かって上昇した。




