11ノ語 発祥地
発祥地という言葉は、便利すぎる。
最初に起きた場所。
最初に語られた場所。
最初に恐れられた場所。
そう言ってしまえば、怪異にも住所ができる。
名前ができる。
地図に載せられる。
探しに行ける。
写真を撮れる。
誰かに話せる。
だが、本当の発祥地は、そう単純ではない。
人が死んだ場所なのか。
人が怖がった場所なのか。
誰かが最初に嘘をついた場所なのか。
それとも、誰かが本当のことを隠した場所なのか。
怪異は、出来事だけでは生まれない。
黙った者。
見なかったことにした者。
語り変えた者。
忘れたふりをした者。
その全部が、少しずつ土に染みていく。
だから、発祥地は怖い。
そこには、まだ名前になる前のものが眠っている。
霞ヶ関地下封域の会議室は、朝から重かった。
窓のない部屋。
壁一面の地図。
机の中央には、古い封印記録の写しが置かれている。
紙の端は変色し、ところどころ墨が薄くなっていた。
そこに記されていた地名は、現在の地図にはない。
御影は、その名を見下ろしていた。
黒守村。
明治期の行政資料に一度だけ出てくる山間集落。
昭和初期には無人化。
戦後の地図からは消失。
現在は埼玉県北西部の山中、県境に近い林道の奥として扱われている。
ただし、登山地図にも観光案内にも載っていない。
水瀬が端末に衛星写真を表示した。
「現代地図では、ここはただの国有林です、でも古地図を重ねると、集落跡らしき道筋があります、問題は、ここに語部機構が入った形跡があることです」
戸張が画面を見る。
「どうやってわかった」
「語り市で押収した資料の中に、ここの座標がありました、それと昨夜、林道入口の監視カメラに八雲了玄と思われる人物が映っています」
白羽が顔をしかめる。
「本人ですか」
「今回は本人っぽいです、少なくとも紙の代人ではありません、生体反応も一致しています」
上原が腕を組む。
「目的は」
御影が答えた。
「閉じた語りを開くことだ」
東雲は封印記録を読んでいた。
「この黒守村という場所は、何の発祥地なんですか」
御影は少しだけ黙った。
その沈黙に、全員が気づいた。
「御影家の記録では、名を記していない」
水瀬が眉を寄せる。
「また名前なしですか」
「違う、名前を持つ前のものだ」
白羽が小さく息を吸った。
「原型に近いんですか」
御影は頷いた。
「S級未満、だが原型怪異に近い、御影家では“黒い語り”とだけ呼んでいた」
戸張が軽い調子を消した。
「黒い語り」
「ある怪異の発祥地ではなく、怪異という形式そのものが生まれかけた場所だ」
水瀬が珍しく言葉を詰まらせた。
「ちょっと待ってください、それ、かなりまずくないですか」
「かなりまずい」
御影はそう言った。
声に迷いはない。
「黒守村には、かつて疫病と飢饉の記録がある、だが村は外へそれを出さなかった、死者を隠し、生者を数え直し、いなかったことにした者を山へ送った」
東雲の表情が変わる。
「送った?」
「記録にはそうある」
御影は紙をめくった。
「山へ返す、と」
会議室が静かになった。
白羽が低く言う。
「人を?」
「おそらく」
上原の眉間に皺が寄る。
戸張が小さく息を吐いた。
「胸糞が悪いな」
御影は続ける。
「その後、村では“山に返した者は最初からいなかった”という語りが定着した、やがて消えた者の名を口にすると、口にした者の存在も村から薄れるようになった」
水瀬が端末を操作する手を止めた。
「名喰いと似てますね」
「近いが違う、あれは名を喰った、これは存在を語りから外す」
鷹宮が壁の地図を見ていた。
「黒い」
御影が振り返る。
「見えるか」
「山の中に、穴がある」
水瀬が衛星写真を拡大する。
「洞窟ですか」
「違う、語りの穴だ」
白羽が嫌そうな顔をした。
「鷹宮さんの言い方、怖い時ほどわかりにくいです」
「すまない」
「謝られると、もっと怖いです」
御影は地図を閉じた。
「第一班で向かう、現地封鎖班は林道入口まで、奥には入れない」
水瀬が言う。
「黒麒麟で行けるのは途中までです、関越道で花園方面、そこから国道140号方面へ抜けて、県道、林道に入ります、最後は徒歩になります」
上原は頷いた。
「装備を山仕様にする」
戸張が刀袋を肩にかける。
「八雲が先に入ってるなら、話し合いでは済まないな」
東雲が静かに言った。
「でも、八雲さんを止めるだけでは終わりませんね」
御影は頷いた。
「開きかけた発祥地を、閉じ直す」
白羽が札束を抱えた。
「それ、簡単に言わないでください」
御影は少しだけ白羽を見た。
「簡単ではない」
「ですよね」
白羽は不満そうに頷いた。
「でも、やります」
黒麒麟は霞ヶ関を出た。
朝の都心を抜け、首都高から外環道へ入り、関越道を北西へ走る。
空は曇っていた。
雨は降っていないのに、遠くの山だけが灰色に霞んでいる。
車内はいつもより静かだった。
上原が運転席。
水瀬が助手席で地図と古文書を重ねる。
後部に御影、戸張、東雲。
白羽と鷹宮は三列目で、山用の封札と簡易結界杭を確認している。
水瀬は端末を見ながら言った。
「黒守村の記録、変です」
戸張が聞く。
「何が」
「人口が合いません、明治の資料では戸数23、人口112、でも寺の過去帳らしき写しでは死者数がそれを超えています、生きていた人数より死者の方が多い」
白羽が小さく言う。
「数え直したんですね」
御影は窓の外を見ていた。
「ああ」
東雲が資料を読む。
「“山へ返す”とされた人たちは、病人や高齢者だけではなかったようです、子どもの記録もあります」
上原の手が、ハンドルを握る力を少し強めた。
水瀬が続ける。
「しかも、その後の村の記録から、送られた人の名前だけが消えています、戸籍上も、過去帳上も、途中から空欄です」
戸張が低く言った。
「いなかったことにした」
「はい」
車内に沈黙が落ちた。
少しして、白羽がぽつりと言う。
「こういうの、怪異より人間の方が嫌です」
東雲が静かに答えた。
「怪異になる前に、人がやっていることが多いですから」
水瀬は端末を操作しながら、少し声を落とした。
「語部機構は、ここを“怪異発祥地”として開放するつもりかもしれません、限定配信、現地ツアー、未公開資料、何でもできます」
御影の声が低くなる。
「させない」
それは短い言葉だったが、車内の空気が変わった。
関越道を下り、黒麒麟は山へ向かう道に入った。
国道140号から県道へ。
住宅が減り、畑が増え、やがて道は細くなる。
コンビニも看板もなくなり、山の影が近づいてくる。
林道入口には、現地封鎖班が展開していた。
表向きは土砂崩れによる通行止め。
実際に道の先には崩落跡がある。
だが、霊障測定器は、その崩落が自然のものではないことを示していた。
現地隊員が報告する。
「御影班長、林道奥へ入った調査班2名が、途中で自分たちの名前を忘れました、現在は保護しています、身体に異常はありませんが、所属と家族の記憶が曖昧です」
東雲がすぐに問う。
「戻りそうですか」
「入口まで下げたところ、少しずつ回復しています」
御影は林道の奥を見る。
「奥へ行くほど、語りから外される」
白羽が札を取り出す。
「個人名の固定札、全員分貼ります」
水瀬が嫌そうに言う。
「名前忘れるの、本当に嫌なんですけど」
戸張が笑わずに言った。
「今日はちゃん付けする余裕もないな」
「しなくていいです」
上原が黒麒麟の後部から装備を降ろす。
「徒歩か」
「ここから先は車両侵入不可です」
水瀬は黒麒麟に中継端末を設置した。
「通信は細くなります、でも切れたら困るので、ビーコンを10分ごとに打ちます、全員、自分の名前を確認してください」
白羽が一人ずつ札を渡す。
「声に出さなくていいので、心の中で読んでください、読めなくなったらすぐ言ってください」
戸張が札を見た。
戸張龍一。
黒い墨で、はっきり書かれている。
「読めるな」
上原も札を見る。
上原直城。
「問題ない」
東雲は自分の札を胸元にしまった。
東雲真白。
水瀬は少し不安そうに何度も確認している。
「水瀬玲央、水瀬玲央、はい、大丈夫です」
白羽が自分の札を握る。
「白羽佐月」
鷹宮は札を見て、短く言った。
「鷹宮迅」
最後に御影が札を受け取る。
御影直人。
だが、その文字の墨だけが、ほんの少し滲んだ。
白羽が気づく。
「班長」
「わかっている」
御影は札を内ポケットにしまった。
「行く」
林道は、最初のうちは普通の山道だった。
濡れた落ち葉。
古いガードレール。
苔のついた側溝。
ところどころ崩れたアスファルト。
鳥の声がない。
風も弱い。
歩く音だけが、妙に大きく響いた。
水瀬は携帯端末を見ながら歩いている。
「位置情報、少しズレ始めてます、地図上ではまだ林道入口から300メートルなんですけど、歩行距離は800メートル超えてます」
戸張が周囲を見る。
「道が延びてるのか」
鷹宮が答える。
「戻されていない、削られている」
白羽が顔をしかめる。
「どっちも嫌です」
東雲が道端に立ち止まった。
そこに、小さな石が積まれていた。
自然に積まれたものではない。
誰かが、ひとつずつ置いたような石積み。
その前に、朽ちた木片がある。
文字は読めない。
東雲はしゃがみ込む。
「供養の跡でしょうか」
御影は首を振った。
「おそらく、数を合わせた跡だ」
「数?」
「山へ返した者を、村の人数から消すために、石として数えた」
白羽が小さく言った。
「人じゃなく、石にしたんですか」
御影は答えなかった。
戸張が低く言う。
「ますます胸糞が悪い」
上原は石積みを見下ろしていた。
「壊すなよ」
「壊しません」
白羽はそう言って、石積みの横に小さな札を置いた。
「人としては戻せなくても、石扱いのままにはしません」
林道の奥へ進むにつれ、空気が変わっていった。
木々の間に、古い屋根のような影が見える。
だが近づくと、ただの倒木になる。
地面に古い茶碗の欠片が落ちている。
白い骨のように見えた枝が、踏むと乾いた音を立てた。
水瀬の端末が警告を出す。
「名前固定札、反応低下、全員確認してください」
戸張が札を見る。
「読める」
上原も言う。
「読める」
東雲、白羽、鷹宮も頷く。
水瀬は自分の札を見て、少し顔を強張らせた。
「……水、瀬、玲央、読めます、でも一瞬、苗字が変に見えました」
東雲がすぐに近づく。
「無理しないでください」
「大丈夫です、ちょっと嫌なだけです」
御影は自分の札を見た。
御影直人。
文字は読める。
だが、直人の直の字だけが、少し薄い。
上原が横から見た。
「薄くなってる」
「進むほど、御影家の記録に近づくからだ」
「お前が一番危ないんじゃないのか」
「そうだ」
あまりに平然と言ったので、上原は少しだけ黙った。
「そうだ、じゃない」
御影は上原を見た。
「必要なら止めろ」
上原は短く言う。
「止める」
戸張が聞いて、わずかに笑った。
「班長も、直城にだけは雑だな」
御影は何も言わなかった。
やがて、道が途切れた。
その先に、集落跡があった。
黒守村。
家はほとんど残っていない。
基礎石だけ。
崩れた井戸。
半分埋まった石段。
草に呑まれた畑の跡。
そして、村の奥に向かって伸びる細い山道。
誰もいない。
だが、誰かがいた気配だけが濃い。
水瀬は端末を見た。
「ここだけ地図から消えてます、座標は出るのに、地名欄が空白です」
白羽が周囲を見回す。
「空白が濃すぎます」
東雲は井戸のそばで立ち止まった。
井戸の中は暗い。
水は見えない。
ただ、底から冷たい空気が上がってくる。
その縁に、真新しい足跡があった。
御影が言う。
「八雲だな」
鷹宮が山道の奥を見る。
「先にいる」
上原が盾を構える。
「急ぐか」
「急ぎすぎるな」
御影は集落跡を見た。
「ここは、道を間違えると、存在を置いていく」
水瀬が小声で言う。
「やめてください、そういう言い方」
戸張が刀袋を握る。
「だが、長居もまずい」
その時、集落の奥から拍手の音がした。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
乾いた音だった。
石段の上に、八雲了玄が立っていた。
黒いジャケット。
銀縁の眼鏡。
柔らかな笑み。
前回の紙の代人ではない。
呼吸も、体温も、そこにある。
「よく来られました」
御影は答えない。
上原が一歩前に出る。
八雲は楽しそうに見た。
「黒守村、記録には残っていないはずですが、さすが御影家ですね」
御影が静かに言う。
「そこから離れろ」
「ここは、あなた方だけの場所ではありません」
「誰のものでもない」
「いいえ」
八雲は石段の奥、山道を示した。
「あそこに、まだ語られていないものがある、語られなかった人々がいる、あなた方はそれを閉じた、名も与えず、世にも出さず、ただ封じた」
東雲が言う。
「出せば救われるとは限りません」
八雲は彼女を見た。
「救われるためではありません、存在するためです」
その言葉は、きれいだった。
きれいすぎた。
戸張が低く言う。
「また口で飾る」
八雲は笑う。
「飾らなければ、人は聞きませんから」
水瀬が端末を見る。
「八雲の周囲、録音機材、配信機材なし、でも霊障値が上がってます」
白羽が気づいた。
「機材じゃないです、ここ自体を語り場にしてる」
八雲の足元には、古い木札が並べられていた。
そこには名前が書かれている。
消されたはずの名前。
御影の目が鋭くなる。
「どこでそれを」
「探しました」
八雲は静かに言った。
「土の中、古い家の梁、井戸の縁、石の裏、人は消したつもりでも、どこかに残すものです」
白羽が震える声で言った。
「それを、勝手に並べたんですか」
「戻したのです」
「違います」
白羽の声が強くなった。
「順番も場所も、何もかも違います、それは戻すじゃなくて、暴くです」
八雲は白羽を見た。
「封札師らしい言い方ですね」
御影が前へ出る。
「目的は何だ」
八雲の笑みが消えた。
初めて、表情が平らになる。
「百話目には、発祥が必要です」
水瀬が息を呑む。
八雲は続ける。
「都市伝説も学校怪談も、ネット怪異も、広がりすぎると輪郭が薄くなる、だから芯がいる、始まりの場所が、必要になる」
御影が低く言った。
「黒守村を、百話目の発祥地にする気か」
「するのではありません」
八雲は山道の奥を見た。
「ここは、もともとそうなれる場所です」
地面が揺れた。
大きな揺れではない。
だが、集落跡の空気が一斉に沈む。
井戸の縁に置かれていた石が、ひとつ落ちた。
基礎石の間から、黒い文字のようなものが滲み出す。
草の葉が、墨を吸ったように黒く染まる。
水瀬が叫ぶ。
「地名空白、拡大、周辺の地図データが消えてます!」
東雲が周囲を見る。
「ここにいる人の認識も削られ始めています」
上原が盾を構える。
「八雲を拘束する」
上原が動いた。
だが、八雲の前に、誰かが立った。
人の形。
村人のような服。
顔はない。
首もある。
手足もある。
だが、顔だけが空白だった。
ひとりではない。
基礎石の跡から、井戸の影から、草の中から、顔のない人々が立ち上がる。
彼らは襲ってこなかった。
ただ、そこに立っている。
通せんぼをするように。
上原は止まった。
「邪魔だが、殴れないな」
戸張が刀を抜く。
「斬れないな」
白羽が札を握る。
「封じる対象でもないです」
東雲が静かに言った。
「消された人たちです」
八雲はその後ろで言う。
「彼らに顔を戻したくはありませんか」
御影は八雲を見た。
「お前は戻す気などない、利用する気だ」
「利用と継承の違いは、誰が決めるのですか」
「被害者だ」
御影の声は静かだった。
八雲は少しだけ目を細めた。
その返答だけは、予想外だったように見えた。
鷹宮が山道の奥を見る。
「奥が開いた」
御影も視線を向ける。
集落の奥。
山へ続く道の先に、黒い鳥居があった。
さっきまではなかった。
木ではない。
石でもない。
影でできた鳥居。
その向こうは、昼間なのに夜のように暗い。
八雲は鳥居へ向かって歩き出す。
上原が動こうとするが、顔のない村人たちが前に立つ。
東雲が声を上げた。
「待ってください」
八雲は振り返る。
「止めますか」
「あなたは、あの人たちを見ていません」
八雲は顔のない人々を見た。
「見ています」
「違います」
東雲は一歩前に出る。
「あなたが見ているのは、語りの素材です、この人たちではありません」
八雲の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
「綺麗事ですね」
「そうです」
東雲は静かに言った。
「でも、壊れた人の前では、綺麗事を手放してはいけません」
八雲は答えなかった。
その代わり、鳥居の奥から黒い風が吹いた。
白羽の札が一枚、真っ黒に染まる。
「まずいです、奥から来てます!」
水瀬が端末を押さえる。
「名前固定札、全員低下、御影班長の札、警告です!」
御影の札が、内ポケットの中で熱を持った。
御影直人。
直人の二文字が、薄れている。
上原が御影の腕を掴んだ。
「下がれ」
「まだだ」
「下がれ」
御影は一瞬だけ上原を見た。
その間に、八雲は鳥居をくぐった。
黒い影が、彼を呑む。
水瀬が叫ぶ。
「八雲、生体反応、消失、いや、奥に移動しています!」
戸張が刀を構える。
「追うか」
御影は鳥居を見る。
あの奥に入れば、黒守村の語りの中へ入ることになる。
そこでは、名が薄れる。
存在が外される。
誰が誰だったか、わからなくなる。
追わなければ、八雲は百話目の芯を得る。
御影は言った。
「追う」
上原が短く答える。
「全員でだ」
御影は否定しなかった。
白羽が急いで札を配る。
「これ以上奥では、名前だけじゃ足りません、互いを確認してください、誰かが誰かを覚えていないと危ないです」
水瀬が少し震えた声で言う。
「確認って」
東雲が水瀬を見る。
「玲央ちゃん、私を見てください」
「東雲真白さん」
「はい」
東雲は微笑む。
「私はあなたを覚えています」
水瀬は一瞬泣きそうな顔をして、それを飲み込んだ。
「私も、覚えてます」
戸張が上原を見る。
「上原直城、無愛想、盾馬鹿」
上原が返す。
「戸張龍一、軽口、刀馬鹿」
「ひどい確認だな」
「合ってる」
白羽が小さく笑う。
鷹宮が御影を見る。
「御影直人」
御影は鷹宮を見る。
「鷹宮迅」
上原がさらに言う。
「直人」
御影は一瞬だけ黙った。
「上原直城」
「違う」
上原は短く言った。
「俺は今、お前を呼んだ」
御影はその意味を理解した。
そして、静かに答える。
「聞こえている」
上原は手を離した。
「なら行け」
黒い鳥居の前に、第一班が並ぶ。
顔のない村人たちは、道を開けなかった。
だが、東雲が一歩前に出て、頭を下げた。
「通してください、あなたたちを利用させないために行きます」
顔のない人々は動かない。
白羽が小さく札を置いた。
「戻せるとは言いません、でも、これ以上勝手に並べさせません」
戸張が刀を下げる。
「斬らない、どけとも言わない、ただ通る」
上原は盾を下げたまま立つ。
御影は、御影札を出さなかった。
力で開けない。
命じない。
ただ、待った。
長い沈黙の後、顔のない人々が、一人分だけ道を空けた。
御影が静かに言う。
「行く」
鳥居をくぐった瞬間、音が消えた。
山の音。
風の音。
水瀬の端末の電子音。
全てが遠くなる。
足元には、村の道が続いていた。
だが、そこはもう廃村ではなかった。
古い家々が並んでいる。
煙が上がっている。
人の気配がある。
ただし、誰の顔も見えない。
戸張が小声で言う。
「これは過去か」
御影は答える。
「語りの中だ」
水瀬が端末を見る。
「ログが記録できません、文字が残らないです」
白羽が札を見る。
「札の墨も薄いです」
東雲が道端に立つ子どもを見る。
その子には顔がない。
だが、小さな手に木札を持っている。
木札には、名前が書かれていたはずだ。
今は、黒く塗りつぶされている。
奥から、八雲の声がした。
「ここです」
村の中央。
古い広場のような場所に、八雲が立っていた。
その前に、大きな穴がある。
井戸ではない。
墓穴でもない。
ただの、黒い穴。
そこに向かって、顔のない人々が一列に並んでいる。
ひとりずつ、穴へ降りていく。
誰も叫ばない。
誰も抵抗しない。
ただ、村の誰かが言う。
「山へ返す」
すると、その人は最初からいなかったことになる。
東雲が口元を押さえた。
白羽は泣きそうな顔で札を握っている。
上原の盾を持つ手に力が入った。
戸張は刀を抜いていない。
抜けなかった。
八雲は穴の前で言った。
「これが始まりです」
御影は静かに否定した。
「違う」
八雲が振り返る。
「何が違うのですか」
「これは始まりではない、隠蔽だ」
八雲は微笑む。
「隠蔽も語りです」
「だが、発祥ではない」
御影は一歩前に出た。
「お前は、ここを百話目の芯にしようとしている、だがここにあるのは怪異の始まりではない、人が人を消した記録だ」
八雲の目が細くなる。
「だからこそ、力がある」
「だからこそ、使わせない」
穴の中から、黒いものが上がってくる。
人の形ではない。
声でもない。
名前でもない。
語られなかったもの。
語る前に消されたもの。
形になる前の怪異。
それが、穴の縁に手をかけた。
水瀬が震えた声で言う。
「これ、測定できません」
白羽が札を構える。
「封じ方がわかりません」
鷹宮が目を細める。
「核がない」
東雲が言う。
「でも、傷はあります」
御影は頷いた。
「ここでは倒せない、閉じるしかない」
八雲は嬉しそうに言った。
「その閉じ方を、見せてください」
御影は八雲を見た。
そこで初めて、御影は理解した。
八雲の目的は、発祥地そのものではない。
御影がどう閉じるか。
第一班が何を選ぶか。
その光景を、語りにすること。
語部機構は、怪異だけを売っているのではない。
アラハバキをも、物語にしようとしている。
御影は御影札を握った。
開けば見られる。
見られれば語られる。
語られれば、利用される。
だが、開かなければ閉じられない。
上原が横に立った。
「直人」
戸張が反対側に立つ。
「班長、やれ」
白羽が涙を拭く。
「外側は私が閉じます」
東雲が言う。
「戻れる場所は、こちらで作ります」
水瀬が端末を握りしめる。
「記録は残しません、でも私たちは覚えます」
鷹宮が短く言う。
「奥を見ろ」
御影は目を閉じた。
怖いか。
怖い。
だから、まだ大丈夫だ。
御影は札を掲げた。
「御影紋、開帳」
八咫鏡に三つ藤の紋が、黒い村の中央に浮かび上がった。
だが、いつものような強い光ではなかった。
鏡は穴を映さない。
藤は黒いものを縛らない。
その代わり、村の中に立つ顔のない人々の足元へ、一本ずつ細い光が伸びていった。
名前ではない。
数でもない。
存在した、という印。
御影は言った。
「名を戻すことはできない」
黒いものが穴から身を乗り出す。
「顔を戻すこともできない」
白羽の札が震える。
「だが、いなかったことにはしない」
その言葉に、村が揺れた。
顔のない人々が、御影を見る。
八雲の表情が変わった。
「なるほど」
彼は小さく笑った。
「名付けず、語らず、存在だけを認める」
御影は答えない。
「それが御影の閉じ方ですか」
八雲の声に、初めて苛立ちのようなものが混じった。
穴から出かけていた黒いものが、少しずつ沈む。
白羽が札を打つ。
「外輪、閉じます!」
戸張が、穴と八雲を結ぶ黒い糸を見つけた。
「そこか」
刀が抜かれる。
刃が走る。
八雲へ向かうのではなく、八雲が発祥地を語りとして持ち出そうとしていた縁を斬る。
八雲が一歩下がった。
上原が前に出る。
「ここから先は持ち出させない」
東雲が顔のない子どもの前に膝をついた。
「あなたは、ここにいました」
水瀬が端末を閉じ、自分の目で村を見た。
「記録じゃなくて、覚えます」
鷹宮が穴を見据える。
「沈む」
黒いものが、穴へ戻っていく。
完全には消えない。
閉じるだけだ。
人が消した事実も、山へ返した罪も、なかったことにはできない。
だが、百話目の芯にはさせない。
御影紋の光が、静かに収束する。
黒い鳥居が軋んだ。
八雲は御影を見ていた。
「あなた方は、やはり面白い」
上原が一歩踏み出す。
「逃がさない」
だが、八雲の足元に紙が舞った。
語り市で見たものとは違う。
もっと古い。
和紙ではなく、木の皮のような紙。
そこに墨で一文が書かれている。
語りは、語られなかったものから生まれる。
八雲の姿が薄れる。
戸張が斬り込む。
刃は八雲の肩をかすめた。
血が飛ぶ。
今度は紙ではない。
八雲は本物の体で、確かに傷を負った。
だが、そのまま黒い鳥居の向こうへ沈むように消えた。
水瀬が叫ぶ。
「八雲、生体反応、消失、でも完全ロストじゃありません、どこかへ抜けました!」
戸張は血のついた刃を見た。
「当てたが、浅い」
御影は鳥居を見る。
「十分だ」
黒い鳥居が崩れていく。
村の風景も薄れていく。
顔のない人々は、まだそこに立っていた。
その中のひとりが、東雲の前に木札を置いた。
名前は読めない。
ただ、そこに誰かがいたことだけは、わかった。
東雲は木札を両手で受け取った。
「預かります」
景色が反転する。
次の瞬間、第一班は黒守村の廃村跡に立っていた。
昼間の山。
崩れた井戸。
基礎石。
草に覆われた道。
黒い鳥居はない。
だが、村の奥にあった石積みの前に、木札が一枚増えていた。
東雲の手には、同じ木札がない。
いつの間にか、石積みの前へ戻っていた。
白羽はその場に座り込んだ。
「……戻りました?」
水瀬が端末を見た。
「位置情報、復帰、名前固定札、全員反応あり、えっと、水瀬玲央、読めます、読めます」
戸張が札を見る。
「戸張龍一、問題ない」
上原は御影を見る。
「直人」
御影は少し遅れて答えた。
「聞こえている」
上原の表情がわずかに緩む。
御影は自分の札を取り出した。
御影直人。
薄くなっていた文字は、完全には戻っていなかった。
だが、読める。
御影は札をしまった。
「黒守村は現地封鎖、語部機構の再侵入を防ぐ、石積みと木札は動かすな、保全する」
白羽が立ち上がる。
「封印は」
「強く閉じすぎるな」
白羽は少し考え、頷いた。
「存在だけ残すんですね」
「そうだ」
東雲は石積みを見た。
「忘れないために、広めない」
水瀬が小さく言った。
「難しいですね」
御影は答えた。
「だから我々がいる」
黒麒麟へ戻る道は、行きよりも短かった。
林道入口に出た時、現地封鎖班の隊員たちは、第一班を見て明らかに安堵した。
誰も欠けていない。
名前も残っている。
だが、全員が何かを置いてきたような顔をしていた。
帰路の黒麒麟は、しばらく無言だった。
山を下り、県道へ戻り、やがて国道へ出る。
夕方の光が、フロントガラスに薄く差し込む。
水瀬は助手席で報告書を開いたが、すぐには入力しなかった。
「班長、これ、どう書けばいいんですか」
御影は少し黙った。
「黒守村発祥地事案、語部機構による封印地侵入、百話目への転用阻止」
「消された人たちのことは」
「秘匿記録に残す」
「名前は」
「読めないものは、無理に復元しない」
水瀬は頷いた。
「はい」
戸張が窓の外を見ながら言う。
「八雲、血が出たな」
上原が答える。
「ああ」
「次は本体を捕まえられる」
御影は静かに言った。
「次で終わらせる」
白羽が後ろで小さく呟く。
「終わるんでしょうか」
東雲が答える。
「終わらせるんです」
その声は優しかったが、強かった。
黒麒麟は関越道へ入り、東京へ戻っていく。
その頃、どこかの暗い部屋で、八雲了玄は肩口を押さえていた。
血が、指の間から滲んでいる。
彼は痛みに顔を歪めることなく、机の上の資料を見ていた。
黒守村。
百話目。
御影紋。
第一班。
御影たちは発祥地を閉じた。
だが、八雲は笑っていた。
「存在だけを認める、か」
机の上には、黒守村で拾った小さな石がひとつ置かれている。
御影たちが気づかなかったもの。
いや、気づいてもただの石としか見えなかったもの。
その石には、顔のような小さな窪みがあった。
八雲は血のついた指で、その石に触れた。
「では、最後はあなた方の存在を語りましょう」
部屋の奥で、百本目の蝋燭が灯る。
まだ消えていない炎が、静かに揺れていた。




