第一章2 「見失わないように」
森は静かだった。風が葉を揺らす音と、遠くで鳴く獣の声だけが、途切れ途切れに響いている。
人の気配はない。あるのはただ、生命の気配だけだ。
その静寂の中を、男は一人で歩いていた。
かつて勇者と呼ばれた男。数多の命を奪い、世界を救った存在。だが今は、名も無き旅人に過ぎない。
足取りは重くも軽くもなく、ただ前へと進んでいる。どこへ向かうでもなく、何を求めるでもない。
ただ——終わりを探すように。
その背に、殺気が走った。
森の静寂に似つかわしくない、濁った感情。男は振り返ることなく、それを受け止める。
——遅い。
あまりにも未熟な殺気だった。隠しきれていない。研ぎ澄まされてもいない。
風を裂く音が、はっきりと耳に届く。
小さな影が背後から飛びかかった。狙いは首。迷いのない一直線の一撃。
だが男は動かない。避けもせず、防ぎもせず、ただそこに立っていた。まるで最初からそう決めていたかのように。
刃は、男の首元寸前で止まった。
剣を握る小さな手が震えている。力が足りないわけではない。恐れているわけでもない。ただ——覚悟が、足りなかった。
「……なぜ、止めたので?」
男は静かに口を開き、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、少年だった。まだ幼さを残す顔。しかし、その瞳には年齢に似つかわしくない濃い憎悪が宿っている。
「なんで……避けないんだよ……!」
困惑の滲んだ声だった。
男はわずかに目を細め、その顔を見つめる。逃げもせず、隠しもせず、ただ受け止めるように。
「……殺しに来たのでは?」
「だったら……!」
「なら、殺せばいい」
あまりにもあっさりとした言葉だった。軽いわけではない。だがそこには、命への執着がまるで感じられなかった。
少年の顔が歪む。
「ふざけるな……!」
剣を握る手に力が入る。踏み込めば届く距離。それでも——踏み出せない。
目の前の男は何もしない。それなのに、勝てる気がしなかった。本能が告げている。この男には届かないと。
「……なんでだよ」
少年は歯を食いしばる。
「なんで……そんな顔してんだよ……」
男は答えない。ただ静かに見ている。その瞳には何もない。怒りも、恐れも、侮りも——そして生への執着すら。
「……やっぱり」
少年の声が沈む。
「──お前だ。俺の父上を殺したのは」
森が沈黙した。
「……そうですか」
男は短く呟いた。驚きも動揺もない。ただ受け入れている。
少年の歯が軋む。
「殺す。絶対に……お前を殺す」
呪いのような言葉だった。
男はわずかに頷く。
「……そうですか、お好きにどうぞ」
そのあまりの淡白さに、少年は息を呑む。復讐を告げられた者の反応ではない。
「ただし」
男は一瞬だけ目を伏せた。
「一つだけ、付き合って頂けますか」
「……は?」
「いえ、昔話ですよ──誰も知らない、昔の話。」
空気が張り詰める。
少年の目が揺れた。
「……なんだよ、それ」
「知りたくはありませんか。なぜ、あの男が死なねばならなかったのか」
「……っ」
脳裏に浮かぶのは、最後に見た父の背。振り返ることなく戦場へ向かい、そして帰らなかった姿。
「その上で、まだ私を殺したいのであれば——いえ、殺すのはそれからでも遅くはないと思いますが」
男は歩き出す。迷いはなく、振り返りもしない。
「どうせ一度は死んだ身、今この場で後ろから刺突されても致し方なし。──ですが、あなたにお伝えする事があります」
少年は動かない。動けない。殺せば終わるはずだった。それだけのために生きてきたはずなのに。
「……くそ」
男の言葉が、胸に引っかかる。父が何を望んだのか。なぜ死んだのか。知る必要などない——はずなのに。聞く必要、ないはずなのに。
気づけば、足が動いていた。
距離を取りながら、その背を追う。いつでも殺せるように、見失わないように。
その理由を、まだ言葉にできないまま。
2話までは書き溜めていたので連続投降です。
思い立ったが吉日ということで、今まである程度頭の中にあったプロットをリアルタイムで書き起こしているので、お歴々の方々に比べるのも烏滸がましいレベルに執筆速度はかなり遅いと思いますが、お待ち頂けますと幸いです。




