第80話 隠していたもの
ヴァルティエ領へ戻った翌日。
執務室ではリリアが、書類をまとめていた。
「アレン様。昨日の王都はいかがでしたか?」
アレンは書類から顔を上げ、穏やかに笑った。
「うん。思った以上に収穫があったよ。」
「それは何よりです。」
リリアも微笑む。
けれどアレンは、少し困ったように頬を掻いた。
「途中でね。ヴィオレット嬢と偶然会ったんだ。」
「……偶然、ですか。」
「うん。女性に人気のお店を探してるって話をしたら、案内してくれた。」
リリアは数秒、黙り込んだ。
「……アレン様。」
「なに?」
「ご本人に。当日の下見を手伝っていただいたのですか?」
「うん。とても詳しかったよ。」
満足そうにアレンが頷く。
リリアは、小さく息を吐いた。
「それでは、どちらがエスコートするのか分かりませんね。」
「大丈夫だよ。本番は僕が案内するから。昨日歩いた道も覚えたし、お店の場所も地図に書き込んだ。」
自信満々だった。
リリアはそんな主人を見つめ、やがて諦めたように笑った。
「では。本番では、しっかりお願いいたします。」
「任せて。」
その返事だけは妙に、頼もしかった。
◇ ◇ ◇
それから数日。
レオンハルトが拘束されたことで、事件は大きく動き始めていた。
しかし、拘束されたからといってすべてが片付いたわけではない。
王都との書簡、領内の報告、オルブライト商会と取引のあった商人への対応、十五年前の事件に関する照会。
次から次へ、確認しなければならないことが増えていく。
その日も、アレンの机には、朝から書類が積み上がっていた。
「アレン様。」
昼を過ぎた頃。
リリアが昼食を運んでくる。
「そろそろ、お休みください。」
「あと少し。」
「先ほども、そう仰いました。」
「今度こそ。本当にあと少し。」
そう言いながらアレンの手は、止まらない。
「そのお言葉を信じたことを毎回、後悔しております。」
「今日は大丈夫だって。」
「昨日も、同じことを仰っていました。」
「……そうだっけ?」
「はい。」
リリアはそれ以上、何も言わなかった。
けれど昼食の皿は、なかなか減らなかった。
そして夕刻になっても、アレンはほとんど休むことなく、机へ向かい続けていた。
◇ ◇ ◇
夕刻。
一台の馬車が、ヴァルティエ邸の前へ停まった。
ほどなくして執務室の扉が、控えめに叩かれる。
「失礼いたします。」
執事が顔を覗かせた。
「アレン様。ローラン侯爵家のヴィオレット様がお見えです。」
「ヴィオレット嬢が?」
アレンが顔を上げる。
「はい。こちらへお通ししてもよろしいでしょうか。」
「もちろん。」
「かしこまりました。」
執事が一度、扉の向こうへ下がる。
すぐに淡い色のドレスを纏った、ヴィオレットが姿を見せた。
「突然お伺いしてしまい、申し訳ございません。アレン卿。」
「全然。ちょうど仕事にも飽きてたところだから。」
「アレン様。」
「冗談だよ。」
リリアに釘を刺され、アレンが笑う。
ヴィオレットも小さく微笑んだ。
「でしたら。少しだけ、お邪魔させていただいても?」
「もちろん。今、応接室に――」
アレンは、椅子から立ち上がった。
その瞬間。
「……っ。」
視界が大きく揺れた。
「アレン様?」
リリアの声。
机へ手を伸ばす。
けれど指先は、届かなかった。
膝から力が抜ける。
「アレン卿!」
床へ倒れ込むその寸前。
ヴィオレットが、アレンの身体を受け止めた。
「……ヴィオレット、嬢……?」
掠れた声。
それを最後にアレンの瞼が、閉じる。
「アレン卿、アレン卿!」
返事は、ない。
ヴィオレットはすぐに、額へ手を当てた。
「……熱い。」
リリアも反対側から、額に触れる。
「かなり熱があります。」
「寝室へ。」
「はい。」
リリアが頷く。
その直後、ヴィオレットはアレンの身体を、抱き上げた。
「……。」
リリアの目が、僅かに見開かれる。
細い腕、儚げな外見。
社交界では、病弱な令嬢として知られている。
そのはずなのに、ヴィオレットは、成人したアレンを危なげなく抱えていた。
けれど今は、それを問いただしている場合ではない。
「こちらです。」
リリアは先に立って、寝室へ向かった。
◇ ◇ ◇
寝台へ横たえられたアレンは、苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。
「主治医を呼んでください。急いで。」
リリアが、使用人へ指示を出す。
「かしこまりました。」
使用人が部屋を出ていく。
扉が閉じた。
リリアはすぐに、アレンのもとへ戻る。
額には汗が滲んでいる。
呼吸も浅い。
そしてリリアの視線が、胸元へ落ちた。
今日も男装のため、晒をきつく巻いている。
高熱を出した状態で、この締め付けは、少しでも早く外した方がいい。
リリアはヴィオレットを見る。
「ヴィオレット様。」
「はい。」
「申し訳ございませんが。少しの間、席を外していただけますでしょうか。」
ヴィオレットはすぐには、答えなかった。
苦しそうに眠るアレンを見る。
そして静かに口を開いた。
「……その必要はございません。」
リリアの表情が、僅かに強張る。
「ですが――」
「存じております。」
「……何を、でしょうか。」
ヴィオレットはリリアへ、真っ直ぐ視線を向けた。
ここで口にすれば、もう、知らなかったことにはできない。
それでも今は、アレンの身体の方が、ずっと大切だった。
「アレン卿が。女性でいらっしゃることを。」
「……。」
沈黙が落ちる。
リリアの瞳が、大きく見開かれた。
「……いつから、ご存じなのですか。」
「以前からです。」
「アレン様から、お聞きになったのですか?」
「いいえ。私が気付きました。」
「……。」
「ですが、アレン卿には、まだ何も申し上げておりません。誰かへ話したこともございませんし、これからも、アレン卿ご自身が望まれない限り、口外するつもりはございません。」
ヴィオレットは再び、寝台へ視線を戻す。
「ですから。今は、アレン卿を楽にして差し上げてください。」
リリアは何も言わなかった。
目の前にいる、侯爵令嬢を静かに見つめる。
アレンが二十年間、守り続けてきた秘密。
領主として生きるため、ヴァルティエ家を守るため。
決して外へ漏らすことのできなかった秘密。
それをヴィオレットは、すでに知っていた。
いつからなのか、どうやって気付いたのか。
聞きたいことは、いくつもある。
けれどヴィオレットの瞳には、好奇心も、打算も、秘密を握った者の優越もなかった。
あるのはただ、苦しそうに眠る、アレンへの心配だけだった。
「……分かりました。」
リリアは静かに頷いた。
アレンの上着を緩める。
そして、胸元へ、きつく巻かれた晒に手を掛けた。
一巻き、また一巻き。
ゆっくりと解いていく。
締め付けがなくなるにつれ、浅かった呼吸が、少しずつ、深くなっていく。
「……良かった。」
ヴィオレットから、小さな安堵の声が漏れた。
最初から分かっていたわけではない。
アン。
レイ。
アレン。
いくつもの小さな違和感が、少しずつ、一人へ重なっていった。
剣を握る手。
耳の後ろの黒子。
仕草。
声。
偶然では済まないほど重なった時。
ヴィオレットは一つの答えへ、辿り着いた。
けれど確かめようとは、思わなかった。
本人が隠しているのなら。
そこから先へ、踏み込むべきではない。
そう決めていた。
だから待っていた。
いつか、アレン自身が、話してくれる時を。
それなのにこんな形で、答えを目にすることになるとは、思っていなかった。
ヴィオレットは静かに、アレンを見つめる。
毎日、身体を締め付け、身体の線を隠し、声を低くし、この人はずっと男として生きてきた。
それがどれほどのものなのか。
ヴィオレットには、まだ分からなかった。
ただ二十年間、それを続けてきたことだけは、分かった。
「……ん……。」
小さな声が漏れた。
ヴィオレットが、顔を上げる。
「アレン卿?」
ゆっくりと、アレンの瞼が開いた。
熱に潤んだ青い瞳が、ぼんやりと、周囲を見る。
「……ヴィオレット、嬢……?」
「はい。ここにおります。」
「どうして……。」
「お倒れになったのです。」
「僕が……?」
「はい。」
まだ意識が、はっきりしていないのだろう。
アレンは僅かに眉を寄せる。
そして何かに気付いたように、自分の身体へ、視線を落とした。
「……。」
胸元。
いつも、そこにあるはずの、締め付けがない。
晒が、外されている。
アレンの表情が、変わった。
ゆっくりと、ヴィオレットを見る。
その顔には、驚きがなかった。
「……リリア。」
「はい。」
「ヴィオレット嬢は……。」
そこで、言葉が止まる。
代わりに、ヴィオレットへ、視線を戻した。
「……見た?」
弱々しい声だった。
ヴィオレットは、誤魔化さなかった。
「はい。」
短い返事。
アレンの瞳が、揺れた。
「……そっか。」
目を閉じる。
何か、言わなければ。
いつものように、誤魔化すべきなのか。
それとも、別の理由を、作るべきなのか。
けれど、熱に浮かされた頭では、何もまとまらなかった。
「……ごめん。」
ヴィオレットの眉が、僅かに動く。
「なぜ。謝られるのですか?」
「だって……。」
アレンは、苦しそうに、息を吐いた。
「騙してたから。ずっと。」
「……。」
アレン・ヴァルティエは男だと。
そう、周囲へ信じさせてきた。
ヴィオレットにも、何も言わなかった。
「……もう。誤魔化せないね。」
弱く、笑う。
けれど、ヴィオレットは、何も言わなかった。
否定も、慰めもしない。
今はアレン自身が、何を言うのか。
ただ待った。
やがて、青い瞳がもう一度、開く。
紫の瞳と、真っ直ぐに重なった。
「見ての通り。」
アレンは、小さく息を吐く。
「僕は、女なんだ。」




