第79話 下見
数日後。
王都へ入る少し前、馬車の中でアレンは小さな手鏡を覗き込んでいた。
金色の短髪は茶色の髪へ、青い瞳は、そのまま。
男装のために巻いている晒は外し、男性らしい輪郭に見せるための装いも今日は必要ない。
身に纏っているのは、深いワインレッドのドレス。
最後に唇へ薄く紅を引けば、鏡の中にいるのは若き領主アレン・ヴァルティエではない。
ヴァルティエ家の遠縁。
レイ・ヴァルティエだった。
「……これで大丈夫かな。」
声も、普段アレンとして人前に立つ時より少しだけ高い。
とはいえ、無理に女性を演じているわけではない。
幼い頃から領主教育と並行して、淑女としての教育も受けてきた。
ドレスでの立ち居振る舞いも、女性としての話し方も身体が覚えている。
やがて、馬車がゆっくりと速度を落とした。
王都へ着いたようだ。
レイは手鏡をしまい、馬車を降りる。
今日の目的は、ヴィオレットとの恋人らしい外出、その下見だった。
恋人のふりを引き受けた以上、ただ二人で並んで歩けばいいというものでもないだろう。
周囲からそれらしく見えなければ意味がない。
それに、どうせ一緒に出掛けるのなら、ヴィオレットにも楽しんでもらいたかった。
「……どこがいいんだろう。」
アレンには、これまで恋人がいたことなど一度もない。
当然、誰かを恋人として案内した経験もなかった。
分からないなら、先に見ておけばいい。
そう考えたまではよかったのだが、一つ問題がある。
アレン・ヴァルティエの姿で若い女性に人気の店を一人で何軒も見て回れば、ただでさえある女好きだの遊び人だのという噂に、また余計な尾ひれが付きかねない。
まだヴィオレットとのことを公にしているわけでもない。
そこで今日は、レイの姿を選んだ。
「まずは、中央通りかな。」
王都で暮らしているヴィオレットを、王都に詳しくない自分が案内する。
考えてみれば、なかなか難しい話だった。
それでも全部をヴィオレット任せにはしたくない。自分なりに、彼女が楽しめそうな場所を探しておきたかった。
レイは人波の中へ歩き出した。
◇ ◇ ◇
中央通りには、様々な店が軒を連ねていた。
香水、髪飾りら装飾品、流行の衣服、花、雑貨。
どれも若い男女が二人で訪れても、不自然ではなさそうに見える。
けれど。
「……難しい。」
レイは一軒の店先で、小さく息を吐いた。
ヴィオレットには似合いそうだ。
それは分かる。
だが、二人で入って何をすればいいのかが分からない。
髪飾りを見る、香水を選ぶ、花を贈る。
どれも恋人らしいような気はする。
「……花は、やりすぎかな。」
恋人のふりをする相手へ花を贈る。
それは何となく、本物の恋人にすることのような気がした。
「どこまでやればいいんだろう……。」
恋人らしく見えなければ意味がない。
かといって、本物の恋人ではないのだから、やりすぎてヴィオレットを困らせるのも違う。
その加減がさっぱり分からなかった。
これなら、領地の予算を組んでいる方がまだ簡単だ。
そんなことを考えながら歩いていると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「……ん?」
視線を向ける。
焼き菓子を扱う店だった。
店先には小さなタルトや、果実を使った焼き菓子が綺麗に並べられている。
「……ここは、いいかも。」
以前、アンとしてヴィオレットと話した時、焼き菓子が好きだと聞いたことがある。
ほんの何気ない会話だった。
それでも、アレンは覚えていた。
「ここなら、喜んでくれるかな。」
レイは店の場所を頭へ入れる。
ようやく一つ、候補が見つかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
ヴィオレットは、侍女を一人伴って王都の中央通りを歩いていた。
今日はローラン家の用事で外へ出た帰りだった。
必要な品も受け取り、あとは屋敷へ戻るだけ。
そう思っていた時だった。
「……。」
人混みの向こうに、見覚えのある姿があった。
茶色の髪、深いワインレッドのドレス。
一軒の店先で立ち止まり、何かを真剣に見比べている女性。
ヴィオレットの足が止まる。
(……レイ様。)
もちろん、それが本当の名前ではないことをヴィオレットは知っている。
レイ・ヴァルティエ。
アン。
そして、アレン。
三つの姿が、同じ一人へ重なっていることをすでに確信していた。
けれど、アレンは自分がそれを知っているとは思っていない。
ヴィオレットは少し離れた場所から、その姿を見つめる。
レイは一人だった。
店へ入っては出て、また別の店先で足を止めている。
(何をしていらっしゃるのでしょう。)
少し考えてみるものの、答えは出ない。
ただ。
せっかく王都で見つけたのだ。
そのまま帰る気にはなれなかった。
「少し、寄り道をいたします。」
「かしこまりました。」
侍女へそう告げて、ヴィオレットはレイのいる方へ歩き出した。
◇ ◇ ◇
レイは一軒の雑貨店の前で、真剣な顔をしていた。
「ここも良さそうだけど……。」
先ほど見つけた焼き菓子の店と、今、目の前にある小さな雑貨や装飾品を扱う店。
どちらがいいだろう。
それとも、何軒か回った方が自然なのか。
「恋人らしい外出って、こんなに考えるものなのかな……。」
「あら。」
聞き覚えのある声がした。
レイが振り返る。
「レイ様。」
そこには、侍女を一人伴ったヴィオレットが立っていた。
「ヴィオレット様。」
レイは驚いた後、柔らかく微笑む。
「こんにちは。偶然ですね。」
「ええ。本当に。」
ヴィオレットも微笑み返した。
見つけたこと自体は、本当に偶然だった。
けれど声を掛けたのは、偶然ではない。
「お買い物ですか?」
「はい。……というより、お店を探していたのです。」
「お店を?」
「実は、近いうちに大切な方と出掛ける約束をしているのです。」
「……。」
ヴィオレットの胸が大きく跳ねた。
「まあ。素敵ですね。」
それでも表情には出さない。
その大切な方が誰なのか知っていることなど、微塵も感じさせずに微笑む。
「ですが、私、王都のお店にはあまり詳しくなくて。どこへお連れすれば喜んでいただけるのか、先に見ておこうと思ったのです。」
(……私のために。)
胸の奥がじわりと温かくなる。
ただ、すぐに自分を戒めた。
アレンは、引き受けたことには真面目な人だ。
恋人のふりをすると決めたから、きちんと役目を果たそうとしているだけ。
そこに自分が期待するような意味があるとは限らない。
それでも、領地からわざわざ王都へ来て、自分との外出のために店を探してくれている。
その事実だけで十分に嬉しかった。
「でしたら、私でよろしければご案内いたしましょうか?」
「よろしいのですか?」
「ええ。」
「ですが、せっかくのお時間を……。」
「構いません。私も街を歩くのは好きですから。」
レイの表情が明るくなる。
「ありがとうございます。とても助かります。」
「いえ。私でお役に立てるのでしたら。」
その大切な方が自分自身だとは、言わずに。
◇ ◇ ◇
「こちらは、紅茶が評判のお店です。」
「落ち着いた雰囲気ですね。」
ヴィオレットに案内され、レイは店内を興味深そうに見回した。
派手すぎず、かといって堅苦しくもない。
客同士の席もほどよく離れている。
二人でゆっくり話をするには良さそうだった。
「女性のお客様も多いですし、お二人でゆっくり過ごすにはよろしいかと。」
「なるほど……。覚えておきます。」
レイは真剣な顔で頷く。
そんな姿を見て、ヴィオレットは笑いそうになるのを堪えた。
自分との外出先を、その本人へ相談している。
けれど、レイは何も知らず至って真剣だ。
「どうかなさいました?」
「いいえ。随分と熱心でいらっしゃると思いまして。」
「せっかく一緒に出掛けるのですから。楽しんでもらいたいでしょう?」
「……そうですね。」
また、胸の奥が温かくなる。
ほどなくして、二人の前へ紅茶と焼き菓子が運ばれてきた。
「こちらの焼き菓子も、評判なのですよ。」
「そうなのですか?」
「ええ。」
レイは焼き菓子へ目を向け、ふと思い出したようにヴィオレットを見る。
「そういえば。ヴィオレット様も、焼き菓子がお好きなんですよね。」
ヴィオレットの動きが、ほんの一瞬止まった。
「……ご存じなのですか?」
「あ。」
レイも、そこで気付いた。
今の自分はレイ・ヴァルティエ。
ヴィオレット本人から、その話を聞いたことはない。
「以前、知り合いから聞いたことがあるんです。」
「お知り合いから?」
「はい。ヴィオレット様と、お話ししたことがある方で。」
「……そうでしたか。」
ヴィオレットは穏やかに微笑む。
もちろん、誰のことなのか分かっている。
アン。
以前、アレンが女性の姿を隠して王都を歩いていた時に使っていた、もう一つの名前。
あの時、自分が何気なく口にしたことを覚えていてくれた。
しかも、その記憶を今、自分との外出のために使おうとしている。
「それで、先ほど焼き菓子のお店を見つけたんです。そこなら、喜んでいただけるかなと思って。」
「……。」
ヴィオレットは、ほんの少し目を伏せた。
本当なら言ってしまいたい。
覚えていてくれたことが嬉しい、それが自分のためだと分かっていると。
けれど、今レイの前にいるヴィオレットは、そのことを知らないことになっている。
「ヴィオレット様?」
「いえ。」
ヴィオレットは小さく微笑んだ。
「その方は、きっとお喜びになりますよ。」
「そうですか?」
「ええ。何気ないことまで覚えていてくださるのは、嬉しいものですから。」
「……そういうものですか。」
「はい。」
「なら、覚えていてよかったです。」
レイが安心したように笑う。
ヴィオレットは紅茶へ口をつけた。
そうしなければ、顔に出てしまいそうだった。
「レイ様も、お菓子はお好きですか?」
「好きですよ。ただ、甘すぎるものは少し苦手です。」
「そうなのですね。」
「はい。これくらいなら――」
レイは一つ手に取り、口へ運ぶ。
さくりとした生地から果実の風味と控えめな甘さが広がり、レイの表情が僅かに緩んだ。
「……美味しい。」
「お気に召しました?」
「はい。これくらいの甘さなら好きです。」
「では、こちらのお店はレイ様にも合いそうですね。」
「そうみたいです。」
「覚えておきます。」
「ヴィオレット様が?」
「ええ。」
にこりと微笑まれ、レイは少し不思議そうにしたものの、深くは考えなかった。
ヴィオレットは紅茶を口へ運ぶ。
甘いものが嫌いなわけではない。
けれど、甘すぎるものは苦手。
また一つ、知らなかったアレンの好みを知った。
◇ ◇ ◇
店を出た後も、二人はいくつかの場所を回った。
花屋、雑貨店、静かな喫茶店、そして、散歩に向いた並木道。
ヴィオレットが一つ紹介するたび、レイは真剣に話を聞く。
「こちらの並木道は、夕方になると街灯が灯るのですよ。」
「それなら、そのくらいの時間に歩くのも良さそうですね。」
「ええ。おすすめです。」
「じゃあ……最初にお茶をして、そのあと少し店を見て。最後にここを歩くくらいがいいでしょうか。」
「よろしいと思います。」
「あまり詰め込みすぎても、疲れるでしょうし。」
「……。」
ヴィオレットは、隣を歩くレイの横顔を見つめた。
自分が疲れないように。
そこまで考えている。
「レイ様は、その方をとても大切にしていらっしゃるのですね。」
「え?」
レイが目を丸くする。
「お好きなものを覚えていて、楽しんでいただける場所を探して、疲れないように予定まで考えていらっしゃるのでしょう?」
「……。」
言われて、レイは少しだけ考え込んだ。
「そう、なのかな。」
「違うのですか?」
「大切なのは、間違いないです。」
あまりにもさらりと答えが返ってきて、ヴィオレットの呼吸が一瞬だけ止まる。
「一緒にいて、話しやすい人なんです。変に気を遣わなくていいというか。私のことを信頼してくれているのも分かるし。」
レイは少し考えて、柔らかく笑った。
「だから、その人が困っているなら、私にできることくらいはしたいと思って。」
「……そうですか。」
「はい。」
アレンにとっては、それだけのことなのだろう。
一緒にいて話しやすい、信頼できる。
だから、困っているなら力になりたい。
恋ではない。
少なくとも、アレン自身はそう思っている。
けれどヴィオレットにとっては、その言葉だけで十分すぎるほど嬉しかった。
◇ ◇ ◇
いくつかの店を回っているうちに、空は少しずつ茜色へ変わり始めた。
「ヴィオレット様。」
「はい?」
「今日は、本当にありがとうございました。」
レイが嬉しそうに微笑む。
「これなら、大切な方にも楽しんでいただけそうです。」
「……ええ。きっと、お喜びになりますよ。」
「そうだといいのですが。」
「大丈夫です。」
「どうして、そんなに自信が?」
「それは――」
危うく答えそうになった。
だって、私ですから。
そんな言葉が喉元まで出かかる。
ヴィオレットは僅かに間を置いてから、微笑んだ。
「これだけ一生懸命考えてくださる方とのお出掛けなら、きっと楽しいと思いますから。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。」
「なら、よかった。」
安心したようにレイが笑う。
ヴィオレットも小さく笑った。
レイにとっては、偶然会った知人に下見を手伝ってもらっただけ。
けれど、ヴィオレットにとっては違う。
自分との外出を、アレンがどれだけ真面目に考えてくれているのか。
それを本人の口から聞く時間だった。
自分が何気なく口にした好みを覚えていてくれた。
疲れないように予定まで考えてくれた。
そして、大切なのは間違いないと、そう言ってくれた。
まだ恋人ではない。
これからするのも、恋人のふり。
それでもヴィオレットは今日、何度も嬉しくなった。
何度も期待しそうになって、そのたびに、これはただのふりだと自分へ言い聞かせた。
けれど。
帰り道、二人並んで茜色の街を歩きながら、ヴィオレットはふと思う。
本番は、まだこれからのはずなのに、今日の方が、ずっと恋人らしいのではないだろうか。
下見のはずだった。
けれどヴィオレットにとっては、少しだけ早く始まった、二人の恋人らしい外出だった。




