第8話 よろめいた先
王都の市場は、賑わいに包まれていた。
アレンとヴィオレットの少し後ろを、一人の侍女が静かについて歩いている。
露店を見て回っていたヴィオレットが、小さく息をついた。
「少し、人が多いですね。」
「疲れた?」
アレンが心配そうに尋ねる。
ヴィオレットは申し訳なさそうに微笑んだ。
「少しだけ……人混みはあまり得意ではなくて。」
「じゃあ、少し休もうか。近くにベンチがあったはずだから。」
その時、侍女が一歩前へ出た。
「お嬢様、お菓子を買ってまいります。少々お待ちいただけますか?」
「ええ、お願いします。」
ヴィオレットが頷く。
侍女は一礼すると、人混みの中へ消えていった。
「ベンチまで歩けそう?」
「……その前に。」
ヴィオレットは少し困ったように笑う。
「少しだけ風に当たりたいのです。人の少ないところまで、ご一緒していただけますか?」
「もちろん。無理だけはしないでね。」
「ありがとうございます。」
二人は市場を離れ、一本奥の石畳の路地へ入った。
先ほどまでの喧騒が嘘のように遠くなる。
建物の間を心地よい風が吹き抜けていった。
「こちらは落ち着きますね。」
「僕もこっちの方が好きかな。」
「先ほどは大人気でしたもの。」
「勘弁してほしいよ。」
アレンが苦笑する。
先ほど子供を助けたことで正体が知られ、あっという間に人に囲まれてしまった。
ヴィオレットがくすりと笑う。
「皆様、本当にアレン卿がお好きなのですね。」
「ありがたいことではあるんだけどね。」
「王都でも有名でいらっしゃいますもの。」
「……そっちは、あんまり嬉しくない噂も多いけど。」
「遊び人、ですか?」
アレンの足が止まった。
アレンは少し考えて。
ふっと、口元に笑みを浮かべた。
普段の穏やかなものとは違う。
夜会で令嬢たちを煙に巻く時に見せる笑み。
少し低い声で。
「……で。ヴィオレット嬢は、どう思う?」
「……。」
ヴィオレットが僅かに目を見開いた。
不意打ちだった。
ほんの少しだけ胸が高鳴る。
(なるほど……。)
王都の令嬢たちが騒ぐ理由も。
少し分かった気がした。
「女性の扱いには、随分と慣れていらっしゃるようにお見受けします。」
「そう?」
「ええ。」
「じゃあ。」
アレンは笑ったまま。
「ご想像にお任せするよ。」
「否定はなさらないのですね。」
アレンが肩を竦める。
「噂なんて、好きに言わせておけばいいよ。」
先ほどと同じ答えだった。
肯定もしない。
否定もしない。
けれど。
ヴィオレットには、どうにも噂通りの人物には思えなかった。
女性に慣れているような振る舞いはする。
けれどそれだけだ。
少なくとも、自分が屋敷を訪ねた時、アレンは一度たりとも必要以上に距離を詰めてこなかった。
(……やはり、分かりませんわね。)
二人は再び歩き出した。
その時だった。
「……。」
ヴィオレットの視線が僅かに動いた。
路地の先、建物と建物の隙間。
一瞬。
何かが光った。
「あっ……。」
ヴィオレットの身体がふらりと傾いた。
「ヴィオレット嬢!」
アレンが咄嗟に腕を伸ばす。
だが、思った以上の勢いでヴィオレットの身体が倒れ込んできた。
「うわっ!」
支えきれない。
アレンはそのまま後ろへ倒れ込んだ。
「っ……!」
背中に石畳の硬さが伝わる。
けれど、それどころではなかった。
「……。」
目の前にヴィオレットの顔がある。
アレンが下。
ヴィオレットが上。
紫色の髪がさらりと落ち、アレンの頬へ触れている。
近い。
あまりにも。
「……っ。」
アレンの鼓動が跳ねた。
(ち、近い……!)
吐息まで感じる。
夜会で見た時はただ綺麗な人だと思った。
けれど、こんな距離で見ることになるとは思っていない。
「ご、ごめんね!」
アレンが慌てて口を開く。
「受け止めきれなくて……! 怪我してない?」
直後。
――カンッ!!
鋭い金属音が響いた。
「……え?」
アレンが顔を向ける。
ほんの数歩先。
石壁に。
細長い金属片が突き刺さっていた。
「……。」
アレンの表情が変わる。
「何……今の?」
周囲にいた通行人も突然の音に足を止めている。
「何だ?」
「何か飛んできたぞ。」
「どこから?」
アレンはヴィオレットを支えながら身体を起こした。
壁へ近づく。
「触れないでください。」
「え?」
ヴィオレットの声に、伸ばしかけた手が止まった。
「何が付着しているか分かりません。」
「……確かに。」
アレンは手を引く。
改めて壁に刺さった金属片を見る。
細い。
刃物というより、鋭く削った鉄片に近い。
「これ……。」
アレンが目を細める。
「僕たちが立ってたところに飛んできた?」
「……おそらく。」
「じゃあ。」
アレンが振り返る。
先ほどまで自分たちが歩いていた位置。
そして、金属片の刺さった場所。
軌道を考えれば。
「……当たってた?」
ヴィオレットは答えなかった。
その沈黙だけで。
十分だった。
「……。」
アレンは周囲を見回す。
路地。
建物の窓。
屋根。
人の姿。
けれど誰が投げたのか、どこから飛んできたのか。
分からない。
「またか……。」
小さく呟く。
夜会では薬を盛られた。
そして今度は金属片。
偶然。
そう考えるには、少し出来すぎている。
「アレン卿。」
「ん?」
「お怪我は?」
「僕?」
「はい。」
「大丈夫。ヴィオレット嬢が倒れてきただけだから。」
「……。」
「ヴィオレット嬢こそ大丈夫?」
「ええ。」
「本当に? 急に倒れたけど。」
「……少し、立ちくらみが。」
「やっぱり。」
アレンの表情が曇る。
「だから無理しないでって言ったのに。」
「申し訳ございません。」
「謝らなくていいよ。」
アレンが困ったように笑う。
「むしろ。」
もう一度。
壁へ視線を向ける。
「ヴィオレット嬢が倒れたおかげで、助かったみたいだし。」
「……。」
ヴィオレットは何も答えなかった。
偶然立ちくらみを起こした。
その結果、二人とも金属片を避けることができた。
アレンはそう思っている。
「それにしても。」
「はい?」
「ヴィオレット嬢、意外と重――」
「アレン卿?」
「何でもない。」
即座に口を閉じた。
危ない。
今のは絶対に言ってはいけないやつだ。
「……何を仰ろうとなさいました?」
「何も。」
「本当に?」
「うん。」
「そうですか。」
にこり。
ヴィオレットが微笑む。
儚げないつもの笑顔。
なのに何故だろう。
少しだけ怖い。
「……侍女さん戻ってこないかな。」
アレンはそっと話題を変えた。
◇
少し離れた建物の陰。
「……外した。」
男が小さく舌打ちする。
確実だった。
あと一瞬、女が倒れ込むのが遅ければ。
金属片はアレンへ届いていた。
「偶然か……?」
男は路地の先を見る。
ヴィオレットがアレンの隣に立っている。
病弱で有名なローラン家の令嬢。
「……。」
男は帽子を深く被り直した。
これ以上ここにいれば、騒ぎを聞きつけた騎士が来る。
男は静かにその場を離れた。
◇
「お嬢様!」
侍女が駆けてきた。
手には先ほど買いに行った菓子の包みがある。
「何があったのですか?」
「少々、立ちくらみを。」
「まあ……!」
「大丈夫です。」
ヴィオレットが微笑む。
「アレン卿がいらっしゃいましたから。」
「いや、僕何もしてないけど。」
むしろ下敷きになっただけだ。
とは、何となく言わない方がいい気がした。
「とりあえず、人の多いところへ戻ろう。」
「ええ。」
「ヴィオレット嬢は、もう歩かない方がいいかも。」
「そこまでではございません。」
「でもまた倒れたら危ないよ。」
「では。」
ヴィオレットがアレンを見る。
「支えていただけます?」
「もちろん。」
何の疑いもなく。
アレンが腕を差し出す。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
ヴィオレットが。
その腕へそっと手を添えた。
アレンは気づかない。
ヴィオレットが倒れる直前、何を見ていたのか。
何故あの方向へ倒れたのか。
そして、先ほどの金属片が偶然外れたわけではないことにも。
ヴィオレットは何も言わず、アレンの腕に掴まりながら歩き出す。
その表情はいつも通り、儚げな令嬢のものだった。
ただ紫色の瞳だけが、先ほど金属片が飛んできた方向を一度だけ、静かに振り返っていた。




