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第77話 恋人のふり


 数日後。


 ヴァルティエ領。


 アレンは執務室で、領内から届いた書類へ目を通していた。


 王都から戻って以来、溜まっていた仕事を片付けるだけで一日があっという間に過ぎていく。


「……やっぱり増えてる。」


 机の上に積まれた書類を見て、アレンが呟く。


「王都へ何度も足を運ばれておりましたので。」


 向かいで書類を整理していたリリアが、淡々と答えた。


「分かってるけどさ。」


「本日中に、こちらまでお願いいたします。」


 さらに書類の束が置かれる。


「増えた。」


「元からございました。」


「見えないところに置いておいてよ。」


「なくなりませんが。」


「気持ちの問題だよ。」


 アレンは諦めたようにペンを握り直した。


 その時、控えめなノックが響く。


「失礼いたします。」


 執事が入室し、一礼した。


「アレン様。お客様がお見えです。」


「誰?」


「ローラン侯爵家のヴィオレット様でございます。」


 アレンの手が止まった。


「ヴィオレット嬢?」


「はい。」


 思わず、リリアと顔を見合わせる。


 数日前、王城の前で交わした短い約束。


 ――今度、本当にお伺いしても?


 ――うん。待ってる。


「……本当に来てくれたんだ。」


 アレンの口元が自然と緩んだ。


「応接室?」


「はい。お待ちいただいております。」


「すぐ行くよ。」


「かしこまりました。」


 執事が退室する。


 アレンも立ち上がろうとして、机の上の書類へちらりと視線を落とした。


「……。」


「逃げませんよ。」


「分かってる。」


「戻られましたら続きを。」


「分かってるって。」


 リリアの僅かに笑う気配を背中に感じながら、アレンは執務室を後にした。


     ◇ ◇ ◇


 応接室へ入ると、ヴィオレットがソファから立ち上がった。


「突然お伺いして申し訳ございません、アレン卿。」


「全然。来てくれて嬉しいよ。」


「……。」


 ヴィオレットの動きが一瞬止まった。


「どうしたの?」


「いえ。何でもございません。」


 すぐに微笑みを取り戻す。


「先日は、いつでも伺ってよいと仰ってくださいましたので。」


「うん。だから、本当に来てくれてよかった。」


「……ありがとうございます。」


 やはり、本人は何も分かっていない。


 数日前、ここへ来ると決めてから今日まで、ヴィオレットは何度もこの訪問について考えていた。


 ただ会いたかったから来た。


 本当は、それだけでも十分だった。


 けれど、それだけを理由に訪ねてきたと言うのは、少し気恥ずかしかった。


「座って。」


「ありがとうございます。」


 二人が向かい合って腰を下ろす。


 ほどなくして紅茶と菓子が運ばれ、使用人が退室した。


「領地までは大丈夫だった?」


「はい。思っていたよりも、道が整っておりましたので。」


「最近、街道はかなり直したんだ。途中に休憩所もあっただろ?」


「ええ。利用させていただきました。」


「よかった。あれ、最近できたんだよ。」


 どこか嬉しそうに話すアレンを、ヴィオレットは静かに見つめる。


 領主として自分の領地について話す時、アレンは少しだけ表情が変わる。


 誇るというより、大切なものを人に紹介しているような顔をする。


「今度、時間があったら街も案内するよ。」


「よろしいのですか?」


「もちろん。」


「では、ぜひ。」


 また一つ、次に会う約束ができた。


 それだけで、ヴィオレットの胸が少しだけ温かくなる。


「それで。」


 アレンが紅茶を一口飲む。


「今日は、遊びに来てくれたの?」


「……。」


 ヴィオレットの指先が僅かに止まった。


「違った?」


「いえ。間違ってはおりません。」


 会いに来たのだから。


 ただ、今日はもう一つ目的があった。


「アレン卿。」


「ん?」


「実は、一つお願いがございます。」


「お願い?」


「はい。」


 ヴィオレットはカップを置いた。


 アレンと会うための理由は、もう必要ない。


 理由がなくても会いに来ていいと、アレン自身が言ってくれた。


 けれど、自分が欲しいのはそれだけではなかった。


 もう少し、近くへ行きたい。


 今より、ほんの少しだけでも。


「僕にできることならいいよ。」


「まだ何も申し上げておりませんが。」


「だから、できることなら。」


 ヴィオレットは僅かに笑った。


「そうでしたね。」


 一度、息を整える。


 ここへ来る前に何度も決めていた言葉なのに、いざ本人を前にすると心臓が少しだけ早くなる。


「私と、恋人のふりをしていただけませんか?」


「……。」


 アレンが止まった。


「……恋人?」


「はい。」


「僕と?」


「はい。」


 ヴィオレットはもう一度頷いた。


 アレンは少しの間、何も言わなかった。


「どうして?」


 当然の質問だった。


「最近、縁談のお話が増えているのです。」


「ああ……。」


 それだけで、アレンにもある程度は察しがついた。


 ヴィオレット・ローラン。


 ローラン侯爵家の令嬢であり、社交界の花と呼ばれるほど多くの者から注目を集めている。


 病弱という噂があるとはいえ、家柄も容姿も申し分ない。


 縁談が多いこと自体は、何も不思議ではなかった。


「お断りしてはいるのですが、それでも次々とお話が参りまして。」


「大変だね。」


「ええ。少々困っております。」


「それで、恋人がいることにする?」


「はい。すでに想う方がいることにすれば、少なくとも今よりはお断りしやすくなるのではないかと。」


「なるほど。」


 アレンは納得したように頷く。


 そして、すぐに首を傾げた。


「でも、なんで僕?」


「……。」


 分かっていた。


 そこを聞かれることくらい。


 答えも、ちゃんと用意してきた。


 なのに、本人を前にすると、一瞬だけ本当の答えが喉元まで出かかった。


 ――あなたがいいから。


 そんなことを、今言えるはずがない。


「アレン卿でしたら、不自然ではないと思ったのです。」


「僕なら?」


「ええ。以前から、女性との噂が多い方ですから。」


「……。」


 アレンの顔が露骨に曇る。


「それ、まだ言われるんだ。」


「かなり有名ですので。」


「ほとんど誤解なんだけど。」


「そうなのですか?」


「そうだよ。勝手に話が大きくなってるだけ。」


「まあ。」


 ヴィオレットは初めて聞いたように僅かに目を丸くした。


 本当は知っている。


 どの噂がどこから生まれ、どこまで事実と違っているのか。


 情報屋としてなら、アレン本人より詳しいくらいに。


 けれど、今ここにいるのはヴィオレット・ローランだ。


「でしたら、私もその誤解の一つに加えていただこうかと。」


「いや。今回は、わざと誤解させるんだろ?」


「そうとも申しますね。」


「申しますね、じゃないよ。」


 思わず、ヴィオレットの口元が緩んだ。


「笑うところ?」


「申し訳ございません。」


「絶対、申し訳ないと思ってないだろ。」


「少しだけ。」


「ほら。」


 二人の間に小さな笑いが落ちた。


「でもさ。」


 アレンが少し真面目な顔になる。


「ヴィオレット嬢が僕と恋人だって話になったら、ローラン侯爵家にも影響あるんじゃない?」


「その点は問題ございません。」


「そうなの?」


「父には、すでに話を通しております。」


「侯爵にも?」


「はい。正式な婚約ではなく、あくまで私の縁談避けのため、親しい相手がいるように見せるだけだと説明しております。」


「それで許してくれたんだ。」


「ええ。」


 一瞬、父との会話が頭を過った。


 ――縁談避け、か。


 ――はい。


 ――それだけか?


 ――……それもございます。


 ――そうか。


 それ以上、父は何も言わなかった。


 ただ、妙に楽しそうだった。


「ですから、家同士の正式なお話になることはございません。その点は、ご心配なさらないでください。」


「なら大丈夫かな。」


 アレンはあっさり頷いた。


 そして、少し考える。


「それにしても、なんで僕なら安心なの?」


「私は、あなたを信頼しておりますから。」


 今度は迷わなかった。


 アレンが少しだけ目を丸くする。


「それは嬉しいけど。」


 照れたように頬を掻く。


「恋人のふりって、結構大きなお願いじゃない?」


「ですから、誰にでもお願いできることではございません。」


「……。」


 アレンは暫く考えた。


 ヴィオレットが縁談に困っている。


 恋人がいるように見せれば、今よりは断りやすくなる。


 そして、その相手として自分なら安心できると言ってくれている。


「分かった。」


「……よろしいのですか?」


「うん。ヴィオレット嬢が困ってるなら、協力するよ。」


「ですが、アレン卿にも新たな噂が立つと思います。」


「今さら一つ増えても変わらないよ。」


「……。」


 ヴィオレットは思わず笑った。


「また笑った。」


「申し訳ございません。」


「今度も思ってないだろ。」


「ええ。今度は、あまり。」


「認めた。」


 二人の間に、再び笑いが落ちる。


 その後、アレンが改めて尋ねた。


「それで、恋人のふりって具体的に何をすればいいの?」


「……。」


 そこだった。


 頼むことばかり考えて、了承された後のことを考えていなかったわけではない。


 むしろ、考えすぎるほど考えていた。


「まずは、王都でご一緒に出掛けていただければ。」


「二人で?」


「はい。」


「それだけ?」


「……それだけ、では。」


 アレンが首を傾げる。


「恋人に見えなければ意味がございませんので、ある程度、親しく見えるように振る舞っていただく必要がございます。」


「親しく。例えば?」


 聞かないでほしかった。


 ヴィオレットは一瞬だけ黙る。


「……腕を組む、など。」


「ああ。そのくらいならいいよ。」


「……。」


「他には?」


「今のところは、それで十分かと。」


「分かった。」


 何でもないことのように、あっさり了承される。


 ヴィオレットはそっとカップへ手を伸ばした。


 紅茶を飲みたいわけではない。


 少し、間が欲しかった。


「ヴィオレット嬢?」


「はい。」


「顔、赤くない?」


「……気のせいです。」


「暑い?」


「大丈夫です。」


「窓開けようか?」


「結構です。」


「そう?」


「はい。」


 お願いだから、今はそれ以上聞かないでほしい。


 ヴィオレットは紅茶へ口をつける。


 向かいでは、アレンが何も疑わず菓子を一つ取っていた。


 ――恋人のふり。


 自分から言い出した。


 縁談避けという理由は嘘ではない。


 実際に、縁談は増えている。


 けれど、アレンを選んだ本当の理由はもっと単純だった。


 他の誰かでは意味がない。


 アレンだから、恋人のふりをしたかった。


「じゃあ、日を決めようか。」


「え?」


「王都に行く日。」


「あ……はい。」


「ヴィオレット嬢の都合に合わせるよ。」


「ありがとうございます。」


「僕も、久しぶりに用事抜きで王都を歩きたいし。最近は仕事ばっかりだったから。」


「……そうですね。」


 ヴィオレットは微笑んだ。


 最近の王都でアレンが何をしていたのか、それを情報屋として知っていることはもちろん口にはしない。


「では、後ほど日程をお知らせいたします。」


「うん。楽しみにしてる。」


「……。」


 また、何でもない顔で言う。


「私も、楽しみにしております。」


 数日前、王城の前でアレンは言った。


 ――僕も、ヴィオレット嬢に会いたいし。


 だから、会いに来た。


 そして今、次に会う約束もできた。


 理由がなくても、会えるようになった。


 それなのに今度は、もっと近くにいたいと思ってしまった。


 たとえ、偽物でも。


 恋人という名前の距離まで。


 ヴィオレットは、向かいで何も知らず紅茶を飲んでいるアレンを見つめた。


 これは、恋人のふり。


 そのはずなのに。


 そう思うだけで、胸が少しだけ騒がしかった。

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