第75話 終焉
王城。
玉座の間には、重い静寂が満ちていた。
玉座に座る王の前には、数冊の帳簿と一冊の古びた原記録、封蝋の残る十五年前の書状、そして一通の手紙が並べられている。
火災現場から回収されたオルブライト商会の帳簿。
王城に保管されていた過去の申告記録。
王都中央銀行の貸金庫に残されていた、オルブライト自身の原記録。
そして、アレン・ヴァルティエへ宛てられた最後の告白。
その場には宰相、近衛騎士団長、先日の照合を担当した王の側近、そしてアレンとリリアが控えていた。
「確認は終わったのだな。」
王の問いに、宰相が一歩前へ出る。
「はい。火災現場から回収された帳簿と、オルブライトが貸金庫へ残していた原記録を照合いたしました。日付、荷の種類、数量、搬入場所。確認可能な範囲では、複数の取引が一致しております。」
「相違していた部分は。」
「金額と取引相手です。」
宰相は一冊の帳簿を開いた。
「原記録で『L』と記されている取引が、商会側の帳簿では別の商人との取引として処理されております。一度ではございません。同様の相違が、複数の取引で確認されました。」
偶然とは考えにくい。
誰かとの取引を隠すため、意図的に記録が変えられていた可能性が高い。
「王城に残されていた申告記録は。」
「こちらも確認しております。日付と荷の数量は一致しておりますが、申告された金額と取引先については、商会側の帳簿と同じ内容になっておりました。」
「つまり。」
「実際に荷が動いたことそのものは隠さず、その相手と金額を偽って申告していたものと考えられます。」
王の表情は変わらない。
「金の流れは。」
「確認を進めました。」
宰相が別の書類を差し出す。
「原記録に記された取引日の前後に、不自然な資金移動が複数ございます。」
「ラミレス公爵家からか。」
「直接ではございません。」
その言葉に、アレンが僅かに顔を上げた。
「複数の商会や個人を経由しております。ただし、その経路上にはラミレス公爵家と長年取引のある者が複数含まれており、同様の経路が一度ではなく繰り返し使われていました。」
直接、ラミレス公爵家からオルブライトへ送金されていたわけではない。
それでも、一つずつ辿れば、同じ場所へ近づいていく。
「そして、こちらについても確認が終わっております。」
宰相が最後に手に取ったのは、貸金庫に残されていた古い書状だった。
十五年前、オルブライトへ東倉庫を使うよう指示した書状。
署名はない。
だが、末尾には原記録と同じ一文字――L。
「紙とインクは。」
「年代について専門の者に確認させました。正確な作成年まで断定できるものではございませんが、少なくとも近年作られたものではなく、十五年前の文書として矛盾はないとのことです。」
「封蝋は。」
一瞬、玉座の間が静まり返った。
「当時、ラミレス公爵家で使用されていた印章によるものと考えられます。」
アレンの指先が僅かに動く。
王の目が細められた。
「偽造の可能性は。」
「完全に否定することはできません。ただし、当時の公文書に残された印影と比較したところ、紋章だけでなく、印章そのものにあった細かな傷の位置まで一致しております。」
「……そうか。」
王は短く答え、目の前に並べられたものへ視線を落とした。
帳簿。
原記録。
申告記録。
資金の流れ。
十五年前の指示書。
そして、オルブライトの手紙。
一つだけなら、否定することもできたかもしれない。
死者が勝手に書いた。
偶然一致した。
偽造された。
そう言い逃れる余地もあったかもしれない。
だが、別々の場所に残されていた記録が、十五年の時を越えて少しずつ同じ方向を示し始めている。
「ヴァルティエ卿。」
突然、王から名を呼ばれた。
「はい。」
アレンが一歩前へ出る。
「そなたは、どう考える。」
アレンは机の上に置かれたオルブライトの手紙を見つめた。
「……まだ、父上と母上の死について、すべてが証明されたわけではありません。」
「ああ。」
「オルブライトは、二人の死が事故ではなかったと書き残しました。でも、それだけなら死者の証言です。」
一度、息を置く。
そして、アレンは顔を上げた。
「だから僕は、正式に調べていただきたいです。十五年前、父上と母上に何があったのか。誰が命じて、誰が手を貸して、なぜ二人が死ななければならなかったのか。」
胸の奥が僅かに痛む。
けれど、声は揺らさなかった。
「事故だったのか。それとも、殺されたのか。今度こそ、きちんと明らかにしてほしい。」
王はしばらくアレンを見つめていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「分かった。近衛騎士団長。」
「はっ。」
「レオンハルト・アルマダ・ラミレス公爵の身柄を拘束せよ。」
玉座の間へ王の声が響いた。
「王家への虚偽申告、不正取引、帳簿改竄。その証拠は、すでに複数確認されている。」
一度、言葉が切れる。
「加えて、十五年前のヴァルティエ侯爵夫妻死亡事件への関与について、重大な疑いがある。」
「御意!」
「公爵邸及び関係施設の捜索を許可する。関係者も確保せよ。ただし、疑いと罪を混同するな。」
騎士団長が真っ直ぐ王を見る。
「承知しております。」
「証拠を押さえよ。関係者から話を聞け。そして、十五年前に何があったのか、一つ残らず明らかにしろ。」
「御意!」
近衛騎士団長が深く頭を下げ、踵を返す。
重い扉が閉じるまで、アレンは黙ってその背中を見つめていた。
◇ ◇ ◇
ラミレス公爵邸。
午後。
レオンハルトは、いつものように執務机へ向かっていた。
書類へ目を通し、羽ペンを走らせる。
何一つ、普段と変わらない。
その時、屋敷の外から複数の馬蹄が聞こえてきた。
「……。」
羽ペンが止まる。
遠くで誰かが声を上げ、続いて廊下を急ぐ足音が近づいてくる。
「旦那様!」
執事が慌ただしく部屋へ入ってきた。
「近衛騎士団が――」
「そうか。」
レオンハルトは静かに羽ペンを置いた。
「旦那様?」
その直後、執務室の扉が開かれる。
近衛騎士団長を先頭に、武装した騎士たちが部屋へ入ってきた。
「レオンハルト・アルマダ・ラミレス公爵。」
レオンハルトは椅子へ座ったまま、彼らを見る。
「随分と物々しいな。」
「王命である。」
騎士団長が書状を開いた。
「王家への虚偽申告、不正取引、帳簿改竄の容疑。ならびに、十五年前のヴァルティエ侯爵夫妻死亡事件への関与の疑いにより、貴殿の身柄を拘束する。」
僅かな沈黙。
やがて、レオンハルトが小さく笑った。
「私を?」
「そうだ。」
「証拠は。」
「すでに王城で確認されている。」
「聞こう。」
あまりにも落ち着いていた。
騎士団長も、その態度に動じることなく答える。
「オルブライト商会の帳簿。」
レオンハルトの目が僅かに細くなった。
「……焼け残ったものか。」
「それだけではない。」
「……。」
「オルブライトは、別の記録を残していた。」
初めて、レオンハルトの表情が止まった。
「別の記録?」
「実際の取引を記した原記録。王城へ提出された申告との相違。そして、十五年前の指示書。」
沈黙。
「その書状に残されていた封蝋は、当時のラミレス公爵家で使用されていた印章と一致している。」
レオンハルトは何も答えなかった。
「オルブライト自身も、書面を残していた。」
その瞬間、ほんの僅かにレオンハルトの目から余裕が消えた。
「……なるほど。あの商人、最後まで商人だったということか。」
怒りではない。
驚きでもない。
切り捨てられれば、切り捨てた相手も巻き込む。
いかにもオルブライトらしい、最後の取引。
レオンハルトには、そう思えた。
「立て。」
騎士団長が一歩前へ出る。
レオンハルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「一つ聞こう。オルブライトの記録を持ち込んだのは、誰だ。」
「捜査に関わる情報だ。答える義務はない。」
「……そうか。」
レオンハルトはそれ以上聞かなかった。
ただ、僅かに目を伏せる。
オルブライトが、自分の死後に証拠を残す相手。
王家ではない。
他の商人でもない。
十五年前のことを知り、その記録を手にしたなら、決して握り潰さない者。
そして最近、王都と領地の双方でこちらの手をかわし続けていた男。
「……ヴァルティエか。」
小さく呟く。
騎士団長は何も答えなかった。
レオンハルトは静かに両手を差し出す。
カチリ。
冷たい枷が手首へ嵌められ、乾いた金属音が執務室へ響いた。
「連行する。」
騎士たちに囲まれ、レオンハルトは執務室を後にする。
その背後では、すでに別の騎士たちが書棚や机、書類箱を一つずつ確認し始めていた。
十五年間、誰にも踏み込まれることのなかったラミレス公爵家へ、初めて王家の捜査の手が入った。
◇ ◇ ◇
王城。
夕刻。
アレンとリリアは、先ほどとは別の執務室で報告を待っていた。
窓から差し込む光は、すでに茜色へ変わっている。
アレンは何度目か分からないほど、窓の外へ目を向けた。
「……遅いね。」
「ラミレス公爵邸までの距離と、身柄の確保に必要な手続きを考えれば、そろそろかと。」
「うん。」
返事をした直後、扉が叩かれた。
「失礼いたします。」
入ってきたのは近衛騎士だった。
「ご報告いたします。レオンハルト・アルマダ・ラミレス公爵の身柄を拘束いたしました。現在、王命に基づき、公爵邸及び関係施設の捜索を開始しております。」
アレンはゆっくりと立ち上がった。
「……そうですか。ありがとうございます。」
騎士が一礼する。
「ご報告は以上です。」
扉が閉じた。
アレンはしばらく、その場から動かなかった。
「アレン様。」
「うん。」
レオンハルトが拘束された。
ずっと追っていた男が、ようやく王家の正式な捜査を受けることになった。
なのに、嬉しいとは思わなかった。
達成感も、想像していたほどではない。
ただ、胸の奥へ十五年間刺さったままだった何かが、僅かに動いた気がした。
「……終わったのかな。」
リリアはすぐには答えなかった。
「いいえ。まだ、これからです。」
「……そうだね。」
レオンハルトは、まだ罪人ではない。
これから公爵邸が調べられ、関係者への聴取も始まる。
十五年前、本当は何が起きたのか。
父と母の死に、誰が、何のために関わったのか。
それも、これから明らかにしていかなければならない。
事件は、まだ終わっていない。
それでも、一つだけ。
今日、確かに終わったものがある。
十五年前。
五歳だった自分へ告げられた言葉。
――事故でした。
その一言で閉じられてしまった、父と母の死。
誰も調べない。
誰も疑わない。
事故だったのだから、仕方がない。
十五年間、そう扱われ続けてきた。
けれど、もう。
事故という言葉だけで、眠らされることはない。
父と母の死は、正式に調べ直される。
アレンはゆっくりと目を閉じた。
「……父上。母上。ようやく、ここまで来たよ。」
幼い頃の記憶が、ほんの僅かに蘇る。
温かな手。
優しい声。
そして、二度と帰ってこなかった二人。
終わったのは、事件ではない。
真実を「事故」という一言の下へ押し込めていた十五年間。
その長い時間が、今、ようやく終焉を迎えた。




