第73話 残された証拠
王都中央区。
王都中央銀行の地下へ続く階段を、アレンとリリアは支配人の後について下りていた。
昨日、ヴァルティエ領へ届けられた一通の書簡。
故オルブライト商会主の死亡が確認されたため、生前に結ばれていた契約に従い、指定された人物へ貸金庫の存在を通知する。
そこに記されていたのが、アレン・ヴァルティエの名だった。
だから、アレンは王都へ来た。
気になるからと、情報屋との約束を破って火災現場へ飛び込むためではない。
死んだオルブライトが、なぜ自分を選んだのか。そして、何を残したのか。
それを確かめるために。
「こちらでございます。」
支配人が足を止めた。
地下金庫の奥、重厚な鉄扉の向こうには、同じ形をした貸金庫が整然と並んでいる。
支配人は、その一つを示した。
「故オルブライト様よりお預かりしていた貸金庫でございます。」
アレンは銀行から届いた書簡と、封印された小さな包みを取り出す。
「こちらを。」
「確かに。」
支配人が書簡と包みの封印を確認する。
「ご本人様であることも確認できております。こちらの封をお切りください。」
「分かりました。」
アレンが封を切る。
中から現れたのは、真鍮色の小さな鍵だった。
それを貸金庫の鍵穴へ差し込み、そのまま回す。
カチリ。
静かな地下へ、小さな音が響いた。
「……開いた。」
扉を引く。
中にあったのは、一つの木箱だけだった。
金貨も宝石もない。
アレンは両手で木箱を取り出した。
「中身をご確認いただける部屋をご用意しております。」
「ありがとうございます。」
◇ ◇ ◇
地下金庫に隣接した閲覧室。
支配人が退室すると、部屋にはアレンとリリアだけが残された。
机の中央には、オルブライトが残した木箱。
アレンはしばらくそれを見つめていた。
「……開けるよ。」
「はい。」
留め金を外し、蓋を持ち上げる。
最初に目へ入ったのは、一冊の古びた帳面だった。
その下には数枚の紙。
封蝋の残る古い書状。
そして、一通の封書。
アレンは紙の一枚を取り上げた。
「……これ。」
見覚えがあった。
紙に描かれているのは、灰色亭で手に入れた木札に残されていた、あの焼印。
「木札の印ですね。」
「ああ。」
もう一枚には、瓶の底に残されていた印が描かれていた。
木札の焼印。
瓶底の印。
十五年前の出来事を追い始めてから、何度も目にしてきた二つの痕跡。
それが、この箱の中に揃っている。
「オルブライトは、この二つを知ってたんだ。」
「少なくとも、記録として残す理由はあったのでしょう。」
「……うん。」
まだ、それだけだ。
二つの印が何を意味するのか、この紙だけでは分からない。
アレンは紙を置き、古びた帳面を開いた。
日付、荷の種類、数量、金額、受け渡し場所。
細かな取引記録が、びっしりと並んでいる。
「東倉庫……。」
何度も、その名が現れた。
アレンは頁を遡っていく。
一年前、三年前、五年前、十年前。
そして、十五年前。
指が止まった。
父と母が亡くなった年。
当時、アレンは五歳だった。
事故だと、そう知らされた。
父と母を一度に失い、その後、ヴァルティエ家を継いだ。
あの日から、すべてが変わった。
「アレン様。」
「……大丈夫。」
短く答え、再び頁へ視線を落とす。
十五年前にも、東倉庫を使った取引が記録されていた。
さらに、木札の焼印、瓶底の印。
そして、取引相手の名があるはずの場所には、同じ符号が何度も残されていた。
「……L。」
アレンが小さく呟く。
帳面だけでは、何を意味するのか分からない。
「アレン様。こちらは?」
リリアが、木箱に残っていた古い書状へ目を向ける。
アレンはそれを手に取った。
紙は黄ばみ、封蝋も一部が欠けている。
それでも、印の形は残っていた。
「……これ。」
アレンの目が細くなる。
「ラミレス公爵家の紋章に似ていますね。」
「僕もそう見える。」
けれど、似ているというだけでは何の証明にもならない。
アレンは慎重に書状を開いた。
そこに記されていたのは、短い指示だった。
指定された日に東倉庫へ荷を入れること。
表向きの記録とは分けて処理すること。
その後、指定された経路へ荷を流すこと。
誰のための荷なのか、何に使われるのか。
直接的なことは何一つ書かれていない。
署名もない。
ただ、末尾には帳面と同じ一文字が残されていた。
――L。
「……同じだ。」
「はい。」
アレンは書状を机へ置いた。
そして最後に残された封書へ手を伸ばす。
表には、自分の名。
――アレン・ヴァルティエ殿。
「……これを読めば、分かるのかな。」
「恐らくは。」
アレンは静かに封を切った。
中から取り出した紙には、丁寧な文字が並んでいた。
――アレン・ヴァルティエ殿。
――この手紙を貴殿が読んでいるということは、私はすでに死んでいるのだろう。
アレンの表情が僅かに強張る。
――病か、事故か。あるいは、誰かに消されたか。
――それを私自身が知ることはない。
――だからこそ、私が残したものについて記しておく。
アレンは黙って読み進めた。
――私は商人だ。
――利益のためなら、危険な橋も渡った。十五年前もそうだった。
指が止まる。
――私は、ある者から持ち掛けられた取引を受けた。
――東倉庫を使い、指定された荷を運び、表へ残す記録の一部を書き換えた。その見返りとして、私の商会は大きな利益を得た。
そして、次の行。
――私は、その取引がヴァルティエ夫妻の死へ繋がると知った後も、口を閉ざした。
「……。」
アレンの喉が小さく動いた。
さらに、その下。
――ヴァルティエ夫妻の死は、事故ではない。
紙を持つ指先が僅かに震えた。
リリアは何も言わなかった。
十五年前。
五歳だったアレンから父と母を奪った事故。
ずっと疑っていた。
本当に事故だったのか。
事故記録には、なぜ根拠の分からない結論が残されていたのか。
なぜ同じ年に、東倉庫地区だけが整備の対象から外されたのか。
それでも、心のどこかには僅かな可能性が残っていた。
自分が、事故だったものへ無理に意味を探しているだけなのかもしれない。
父と母の死を受け入れきれずにいるだけなのかもしれない。
「……事故じゃなかった。」
掠れた声が漏れた。
「アレン様……。」
「……大丈夫。」
そう答えたものの、すぐには続きを読むことができなかった。
一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
そして、もう一度手紙へ視線を戻した。
――私は共犯者だ。
――許されるとは思っていない。今さら悔いていると書いたところで、貴殿が信じるとも思っていない。
――だから、これは懺悔ではない。
そして、次の一文。
――これは、私が自分のために残した保険だ。
「……保険。」
昨日から抱いていた疑問。
なぜオルブライトは、自分が死んだ後にだけ動くよう、これを残したのか。
その答えが、そこにあった。
――私へ仕事を持ち掛けた者は、役目を終えた人間を躊躇なく切り捨てる。
――私は長く関わるうちに、それを嫌というほど見てきた。いずれ自分にも同じ日が来る。そう考え、記録を残した。
アレンは木箱へ視線を移した。
帳面。
二つの印。
古い指示書。
それらすべてが、オルブライトにとって、自分が切り捨てられた時に相手も道連れにするための保険だった。
――商会へ置けば見つかる。屋敷へ置いても同じだ。
――だから、ここへ預けた。
商会は燃えた。
商会や屋敷に残されたものが、誰かに確認された可能性もある。
けれど、銀行へ預けられたものまでは消されなかった。
アレンはさらに読み進める。
――この帳面は、私が別に保管していた原記録だ。
――商会に残した帳簿では、取引相手と金額の一部を書き換えている。外へ提出した記録にも、同じように偽りを混ぜた。
――だが、日付と荷の種類、数量まで変えれば、実際に動いた品との辻褄が合わなくなる。そこは残した。
――照合すれば、どこが意図して書き換えられたのか分かるはずだ。
リリアが帳面へ視線を向ける。
「だから、商会に残っていた帳簿だけでは分からないのですね。」
「ああ。商会の帳簿。外部へ提出された記録。そして、この原記録。三つを比べれば、意図して隠された部分が見えてくる。」
次の行へ進む。
――帳面に記した『L』は、私へ指示を出していた者を示す。
アレンの目が止まった。
――レオンハルト・アルマダ・ラミレス。
静寂が落ちた。
「……レオンハルト公爵。」
その名を声に出す。
驚きよりも、これまで拾ってきたものが一つの場所へ集まり始める感覚の方が強かった。
王都で起きた襲撃。
領地で、自分の影武者を狙った襲撃。
東倉庫。
二つの印。
オルブライト商会。
そして、十五年前の父と母の死。
その先に、同じ男の名が現れた。
けれど、アレンはすぐに手紙を机へ置いた。
「……これだけじゃ駄目だ。」
リリアが顔を上げる。
「はい。」
「オルブライトがレオンハルト公爵の名前を書き残した。それだけなら、死者の告発でしかない。」
「ですが、こちらもございます。」
リリアが古い指示書へ目を向ける。
「ラミレス公爵家のものと思われる封蝋。そして、帳面と同じ『L』。」
「それも、本物だと確かめないと。」
「はい。」
「帳面も照合する。火災現場から回収された帳簿。外部へ提出された記録。それから、この原記録。」
「一致する部分と、書き換えられた部分を確認するのですね。」
「ああ。それだけじゃない。この書状の紙も、インクも、筆跡も、封蝋も調べる。本当に十五年前のものなのか。本当にラミレス公爵家から出されたものなのか。一つずつ確かめないと。」
それでも、昨日までとは違う。
追うべきものが初めて形になって、目の前へ現れた。
アレンはもう一度、手紙を手に取った。
まだ続きがある。
――最後に。
――なぜ、この記録を貴殿へ託したのか。
アレンの視線が止まる。
最も分からなかったこと。
その答え。
――この記録を残すと決めた時、私は考えた。もし私が切り捨てられた後、これを渡すべき相手は誰か。
――王家へ託すことも考えた。だが、私が生きている間に存在を知られれば、それだけで私の立場は危うくなる。
――他の商人へ託すつもりもなかった。金へ替える者も、自分の身を守るため握り潰す者もいるだろう。
そして、次の一文。
――ならば、十五年前に奪われた者へ返すのが最も確実だと考えた。
「……。」
アレンの指が僅かに止まった。
――ヴァルティエ夫妻の子。
――現在のヴァルティエ領主。
――アレン・ヴァルティエ。
――貴殿なら、この記録を見て何もせず捨てることだけはないだろう。
アレンは何も言わなかった。
信頼されたからではない。
親しかったからでもない。
オルブライトは、ただ計算したのだ。
自分が死んだ後、十五年前の記録を最も確実に使う人間は誰なのか。
その答えが、アレンだった。
手紙は最後の数行を残すのみとなった。
――私は最後まで商人だった。
――正義のために、これを残したのではない。
――自分が裏切られた時、私を切り捨てた者を道連れにするためだ。
――貴殿のご両親へ許しを乞うつもりもない。私には、その資格がない。
そこで、僅かに筆跡が乱れていた。
――ただ。
――十五年前の真実まで、私と一緒に消してしまうことだけは、最後になってできなかった。
――この記録を、然るべき場所へ届けてほしい。
最後に、オルブライトの署名。
アレンは静かに手紙を畳んだ。
「……許せないよ。この人も、父上と母上の死に繋がると知って、それでも黙ってた。」
「はい。」
「自分が切り捨てられた時のために証拠を残した。最初は、自分を守るためだった。」
正義ではない。
贖罪でもない。
少なくとも、始まりは自分のためだった。
「でも、残したものは使わせてもらう。」
アレンは木箱を見つめた。
父と母に何が起きたのか。
十五年前から何が続いているのか。
それを終わらせるために。
「王城へ行こう。」
「はい。」
「まず、火災現場から回収された帳簿と照らし合わせる。それから、当時外部へ提出された記録も確認してもらう。この指示書も、本物か調べてもらう。」
「一つずつですね。」
「ああ。一つずつ確かめる。」
死人の言葉だけで、誰かを罪人にはしない。
けれど、死者が残したものを、無かったことにもさせない。
誰にも否定できない形へ、一つずつ積み上げていく。
アレンは木箱を閉じた。
昨日、突然届けられた一通の書簡。
その中にあった、小さな鍵。
それが開いたのは、ただの貸金庫ではなかった。
十五年前、五歳だったアレンから父と母を奪った出来事。
その真実へ続く扉が、今、ようやく開き始めていた。




