第69話 焼け跡の確認
――時間は、少し遡る。
オルブライト商会を焼いた炎が消え、夜が白み始めた頃。
消火に当たっていた人々も少しずつその場を離れ、王都の兵が現場を完全に封鎖するまでの僅かな空白が生まれていた。
その隙を縫うように、一人の男が焼け落ちた商会の裏手へ姿を現した。
左頬には、古い刀傷。
オルブライト商会へ何度も出入りし、東倉庫周辺を探っていた者たちの存在をレオンハルトへ報告した男だった。
男は物陰から通りの様子を窺う。
表には消火に使われた水桶や道具が散乱し、焦げ臭い煙もまだ完全には消えていない。
何人かが後片付けをしているようだったが、裏手に人の姿はなかった。
男は崩れた壁の隙間から、静かに中へ入った。
足元には、まだ熱を残した瓦礫が転がっている。
それを慎重に避けながら、かつて商会主が仕事に使っていた一角へ向かう。
焼け落ちた書棚。
崩れた机。
黒く煤けた壁。
それでも、男は迷わなかった。
以前からオルブライト商会へ出入りしていたため、どこに書類が保管されていたのかは把握している。
机の引き出し、書棚の奥、床板の一部、暖炉脇の収納。
火に晒されにくい場所を、一つずつ確かめていく。
探しているのは、商会の帳簿そのものではない。
レオンハルト・アルマダ・ラミレス公爵へ繋がるもの。
書状や命令書、あるいは公爵家との関係を示す何らかの記録だった。
「……。」
倒れた棚の下から、半ば炭になった紙束が見つかった。
男はそれを拾い上げ、辛うじて残った文字へ目を走らせる。
取引先。
荷の記録。
そして、東倉庫の名。
いくつかの記録は焼け残っているらしい。
だが、そこから公爵家へ繋がる記述はない。
男は紙束を元の場所へ戻した。
持ち去る必要はない。
こちらへ繋がらないものなら、不自然に消す方が余計な疑いを招く。
必要なのは、何が残っているのかを確かめることだけだった。
さらにいくつかの保管場所を確認する。
だが、目的のものは見つからない。
やがて、遠くから複数の足音と声が聞こえてきた。
兵が動き始めたのだろう。
男はすぐに捜索を打ち切り、入ってきた時と同じく、人目のない裏手から静かに焼け跡を離れた。
◇ ◇ ◇
続いて男が向かったのは、商会主オルブライトの屋敷だった。
火災と商会主の死の報せを受け、使用人たちが慌ただしく出入りしている。
主を失ったばかりの屋敷は、まだ混乱の中にあった。
男は以前から商会主の使いとして、この屋敷へ何度も出入りしていた。
書類の受け渡しを任されることもあり、使用人たちにも顔を知られている。
だからこそ、この混乱の中でも、屋敷へ入ること自体を不審に思う者はいなかった。
「商会のことで確認したいことがある。すぐに済む。」
応対した使用人は一瞬だけ戸惑ったものの、それ以上は問い返さなかった。
男は何度か通ったことのある廊下を進む。
主を失った屋敷では、使用人たちが慌ただしく行き交っている。
その動きを確認しながら、男は誰にも見られていない隙を選び、商会主の書斎へ滑り込んだ。
扉を静かに閉める。
ここから先を見られるわけにはいかない。
だが、確認すべき場所には目星をつけていた。
机の下段、書棚の奥、鍵の付いた小箱、壁際の収納。そして、小型の金庫。
男は痕跡を残さないよう、手早く一つずつ確かめていく。
だが、公爵家へ繋がるものは何一つ見つからない。
「……。」
念のため、書斎に残されていた書類にも目を通す。
商会の取引に関するものばかりで、それらしいものはなかった。
男は開けた場所を元通りに整える。
商会にも、屋敷にもない。
少なくとも、自分が把握している範囲には。
「……問題ない。」
小さく呟く。
廊下に人の気配がないことを確認すると、男は書斎を出た。
そして何事もなかったかのように使用人たちの間を抜け、屋敷を後にした。
◇ ◇ ◇
その日の朝。
ラミレス公爵邸。
「ご報告いたします。」
執務机へ向かっていたレオンハルトは、書類から目を上げなかった。
「申せ。」
「商会とオルブライトの屋敷、双方を確認いたしました。旦那様へ繋がる書状、命令書の類は残されておりません。」
「隠していそうな場所も?」
「はい。把握している場所は、一通り確認しております。」
「そうか。」
そこでようやく、レオンハルトが書類から顔を上げた。
「焼け残ったものは。」
「帳簿がいくつか残っております。東倉庫との取引が記されたものもございます。」
レオンハルトの表情は変わらない。
「こちらへ辿れるか。」
「いいえ。」
「ならば構わん。オルブライトは、元より切り捨てる駒だ。東倉庫との取引が露見したところで、調べられるのはオルブライト商会まで。その先に何もなければいい。」
「承知しております。」
「帳簿には手を付けていないな。」
「はい。旦那様へ繋がる記述がない以上、持ち去る方が不自然と判断いたしました。」
レオンハルトの口元が僅かに上がる。
「それでいい。」
男は黙って頭を下げた。
「オルブライトも死んだ。死人は何も語らん。」
レオンハルトは淡々と言った。
まるで、一つの取引が終わったとでもいうように。
刀傷の男は表情を変えなかった。
「現在は兵が現場を封鎖しております。焼け跡の確認も始まっております。」
「好きに調べさせておけ。商会と屋敷にこちらへ繋がるものが残っていないのなら、慌てて動く必要はない。」
「では、監視は。」
「続けろ。火が消えたからといって、こちらを探っていた者まで消えたわけではない。」
刀傷の男が僅かに顔を上げる。
「ヴァルティエ卿でしょうか。」
「それだけとは限らん。東倉庫を見張っていた連中がいる。」
「何者かは、まだ掴めておりません。」
「だから調べろ。ただし、余計な手は出すな。」
「泳がせるのですか。」
「ああ。何を知っているのか。誰のために動いているのか。それが分かるまではな。」
「承知いたしました。」
刀傷の男は一礼し、静かに部屋を後にした。
扉が閉じる。
レオンハルトは一人、グラスを傾けた。
オルブライト商会は消えた。
オルブライトも死んだ。
そして、商会にも屋敷にも、自分へ直接続くものは残されていない。
少なくとも、レオンハルトはそう考えていた。
ならば、今見るべきなのは焼け落ちた駒ではない。
その駒を追っていた者たちだ。
「さて。」
レオンハルトは静かに笑った。
「今度はこちらが、見させてもらおう。」
◇ ◇ ◇
その頃、焼け跡では兵たちによる現場検証が進められていた。
焦げた木材が運び出され、焼け残った帳簿や品が一つずつ確認されていく。
その周囲には、火事の噂を聞きつけた人々が次々と集まり始めていた。
商人や近隣の住民、通りすがりの者。
何が起きたのかと噂する声が、あちこちから聞こえる。
そして、その人混みの中には、ただ焼け跡を見物するためだけに来たのではない者たちもいた。
商人を装った者。
近隣住民に紛れた者。
通りの端で、何気なく人の出入りを眺める者。
誰も互いに声を掛けない。視線さえ合わせない。
ただ、焼け跡そのものではなく、そこへ集まってくる人間を見ていた。
火災の後、誰が現れるのか。
誰が消えたのか。
そして、誰がこの場所を気にしているのか。
ヴィオレットの命を受けた者たちが、人混みの中から静かにその動きを見始めていた。
けれど、彼らが監視を始めた時には。
左頬に刀傷のある男は、すでにこの場所を離れていた。




