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第68話 動く者、待つ者


 情報屋が去った後、執務室には重い沈黙が残されていた。


 オルブライト商会の全焼。


 商会主の死。


 そして、原因不明の火災。


 アレンはしばらく、机の上に残された報告を見つめていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……リリア。」


「はい。」


 アレンは椅子から立ち上がった。


「王都へ行く。」


「反対です。」


 即答だった。


 アレンがリリアを見る。


「……理由は?」


「お分かりのはずです。」


 リリアの声は穏やかだったが、譲るつもりはないらしい。


「木札を調べ始められた頃、アレン様は王都で襲撃を受けました。同じ頃、領地ではアレン様の影武者を務めていた私も襲われています。」


「うん。」


「そして今度は、オルブライト商会の火災です。」


 アレンは何も言わない。


「まだ放火と決まったわけではありません。商会主が口封じされたとも分かっておりません。」


「分かってる。」


「でしたら、なおさら今は動くべきではありません。偶然の火災なら、アレン様が王都へ向かわれる必要はありません。もし何者かが証拠を消すために火を放ったのであれば、今動くのは危険です。相手がどこまでこちらを把握しているのか、まだ分からないのですから。」


 正論だった。


 だからこそ、言い返せない。


 アレンは僅かに眉を寄せる。


「でも、商会が燃えたんだ。東倉庫から運び込まれた荷が、そこで見えなくなっていた。その先を追っていたところだったのに。」


「お気持ちは分かります。」


「なら――」


「先ほど、情報屋の方に何と仰いましたか?」


 リリアの言葉に、アレンが口を閉ざす。


「何か分かっても、一人で踏み込まないで、と。」


「……。」


 つい先ほど、自分が口にした言葉だった。


 相手が本当に火をつけたのなら、今までとは違う。


 そう考えたからこそ、情報屋へ無茶をするなと告げた。


 それなのに、彼女が部屋を出た途端、自分は王都へ向かおうとしている。


「ご自分が危険だと判断されたから、あの方を止めたのではありませんか?」


「……そうだけど。」


「でしたら、アレン様も同じです。」


 アレンは黙り込んだ。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「……ずるいな。」


「何がでしょう?」


「僕が言い返せないことばかり言う。」


「必要ですので。」


 リリアは涼しい顔で答えた。


 アレンは困ったように息を吐く。


 それでも視線は、情報屋が残していった報告へ向かっていた。


「追えていたんだ。東倉庫からオルブライト商会へ入るところまでは分かった。その先を追えば、何か見えてくるかもしれなかった。」


 なのに、一夜にして焼け落ちた。


 自分はここにいて、何もできない。


 その事実が、どうしようもなくもどかしかった。


「だからこそ、今はあの方を信じる時ではありませんか。」


 リリアが静かに言う。


 アレンは目を伏せた。


 名前も知らない、素顔も知らない。


 それでも何度も自分を助け、十五年前の出来事を追い続けてくれている。


 そして今も、調査のために王都へ向かっている。


「……そうだね。」


 やがて、握っていた拳からゆっくりと力を抜く。


「分かった。王都には行かない。情報屋を信じるよ。」


 リリアの表情が僅かに和らぐ。


「ありがとうございます。」


 アレンは椅子へ座り直し、小さく苦笑した。


「待つの、本当に苦手だな。」


「存じております。」


「そこは否定してよ。」


 リリアは答えず、ただ僅かに笑った。


     ◇ ◇ ◇


 その頃、王都へ続く街道を一台の馬車が走っていた。


 規則正しい車輪の音が響く中、ヴィオレットは深く被っていたフードを下ろし、窓の外を流れていく景色を静かに眺めていた。


 ――何か分かっても、一人で踏み込まないで。


 先ほど告げられた言葉が、まだ耳に残っている。


 情報屋として仕事をしていれば、危険など珍しくない。


 それを承知で、この仕事を続けている。


 けれど、依頼人から真っ直ぐに身を案じられたことが、不思議と胸に残っていた。


 アレンは、情報屋の正体を知らない。


 どこの誰なのかも、その背後でどれだけの人間が動いているのかも知らない。


 それでも、自分の身を案じてくれた。


 ヴィオレットは僅かに目を伏せる。


 その時、前方から馬蹄の音が聞こえてきた。


 やがて一頭の馬が馬車へ近づき、速度を合わせるように横へ並ぶ。


「お嬢様。」


 騎手は、ヴィオレットの家に仕える者だった。


 ヴィオレットは窓を少しだけ開ける。


「報告を。」


「火災現場についてです。」


 その一言で、ヴィオレットの表情から先ほどまでの柔らかさが消えた。


「王都の兵が現場を封鎖しております。現在、焼け跡の確認が進められております。」


「こちらの者は?」


「中へは入れておりません。」


「それで結構です。兵の調査を邪魔する必要はありません。」


「はい。」


「周囲の様子は?」


「火事の噂を聞きつけた者が集まっております。近隣住民、商人、野次馬……かなりの人数です。」


「こちらの者も?」


「数名が紛れております。」


「不自然な動きをした者は?」


「今のところ、確認されておりません。」


 ヴィオレットは静かに考える。


 焼け落ちた建物そのものを、自分たちが調べる必要はない。


 そこは兵に任せればいい。


 見るべきなのは、火災の前後で変化したもの。


 そして、その時に動いた人間だ。


「商会の従業員を確認してください。昨夜勤務していた者、火災から逃げ出した者、負傷した者。それから、火災後に所在が確認できなくなった者。」


「承知いたしました。」


「商会と頻繁に取引していた者についても確認を。」


「はい。」


 ヴィオレットは一度言葉を切った。


「刀傷の男は?」


「まだ姿を確認できておりません。」


 紫の瞳が僅かに細められる。


「探してください。」


「見つけ次第、追跡を?」


「ええ。ただし、接触はしないでください。以前、こちらの動きを探られています。今度は存在を悟られないことを最優先に。何か変化があれば、すぐに知らせてください。」


「承知いたしました。」


 男は深く頭を下げ、馬の速度を上げる。


 その姿は、やがて王都の方角へ遠ざかっていった。


 再び馬車の中には、規則正しい車輪の音だけが響く。


 ヴィオレットは窓の外へ目を向けた。


 オルブライト商会は燃えた。


 商会主も亡くなった。


 書類も、そこに残されていたものも、炎の中で失われた可能性がある。


 だが、建物が燃えたからといって、そこへ繋がっていたものまですべて消えるわけではない。


「……終わってはいません。」


 小さく呟く。


 火災が事故なのか、誰かが意図的に起こしたものなのかは、まだ分からない。


 商会主の死が、ただ火災に巻き込まれただけなのかも、まだ分からない。


 だから、今は決めつけない。


 見るべきなのは炎そのものではなく、その前後で何が変わったのか。


 人。


 荷。


 取引。


 金の流れ。


 十五年間続いてきた繋がりがあるのなら、一夜の炎ですべてを消し去ることなどできない。


「誰かが終わらせようとしたのなら、残ったものを辿るだけです。」


 ヴィオレットの紫の瞳が静かに細められる。


 焼け落ちた商会ではなく、その炎によって動いたものを追う。


 アレンが待つと決めたその間にも、王都では静かに人が動き始めていた。


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