第65話 それぞれの手掛かり
王都で借りている宿の一室。
机の上には、王城で書き写した資料が整然と並べられていた。
アレンは最後の一枚へ目を通すと、小さく息を吐いた。
「ここまで、かな。」
リリアが湯気の立つ紅茶を机へ置く。
「何か新しい発見はございましたか?」
「新しい発見というより、少し見方が変わったかな。」
アレンは十五年前の都市整備計画を書き写した紙へ視線を落とした。
そこには、東倉庫地区について記された一文がある。
――物流機能への影響を考慮し、当期整備対象より除外とする。
「東倉庫地区は、誰かが十五年間ずっと工事を妨害していたわけじゃない。最初に整備対象から外されて、その判断が前例として引き継がれてきた可能性が高い。」
「担当者が替わっても、改めて見直す理由がなかった。」
「うん。だから次に知りたいのは、その最初だ。」
アレンの指先が、十五年前の記述の上で止まる。
「誰が、どんな根拠でこの判断をしたのか。そこまで辿れれば、何か分かるかもしれない。」
「ですが、今回閲覧した資料には残されていませんでしたね。」
「ああ。」
都市整備計画、事業報告書、そして両親の事故に関する記録。
得たものはあった。けれど、肝心なところにはまだ届いていない。
「もう少し王城で調べますか?」
リリアの問いに、アレンは少し考えた。
「そのつもりだったんだけどね。」
王城を出た時点では、まだ確認していない資料をもう少し調べるつもりだった。
けれど宿へ戻り、これまで集めた記録を改めて並べてみると、少し考えが変わった。
「今のまま同じ年代の資料を追っても、最初の判断まで辿れるとは限らない。それに、これ以上そこばかり調べ続けたら目立つ。」
「では。」
「うん。一度、領地へ戻ろう。王城で調べるのをやめるわけじゃないよ。ただ、少し間を置く。」
「よろしいかと存じます。」
「それに、領地の仕事も溜まってるだろうしね。」
「……否定はいたしません。」
「やっぱり?」
「お戻りになれば、机をご覧いただくだけでお分かりになるかと。」
アレンは嫌そうに眉を下げた。
「帰るのが少し怖くなってきたな。」
「領主のお仕事です。」
「分かってるよ。」
リリアが僅かに笑う。
その時、扉が静かに叩かれた。
リリアが応対すると、そこに立っていたのは黒い外套を纏い、深くフードを被った人物だった。
顔はフードの影に隠れている。
「失礼いたします。」
「来てくれたんだね。」
アレンが席を勧めると、情報屋は一礼して向かいの椅子へ腰を下ろした。
「王城での調査はいかがでしたか?」
「少しだけ分かったことがある。」
アレンは机の上の資料を示す。
「東倉庫地区が十五年間ほとんど手を加えられていない理由だ。誰かが毎年同じ指示を出してたんじゃない。最初の判断が、そのまま前例として引き継がれてきた可能性が高い。」
情報屋は静かに耳を傾ける。
「最初に整備対象から外された理由さえ不自然でなければ、後任が改めて疑問を持つこともない。」
「僕もそう考えてる。だから次に追うなら、最初に方針が変わった時だ。誰が決めたのか、何を根拠にしたのか。」
「今回の資料では、そこまでは?」
「分からなかった。」
情報屋は小さく頷いた。
「でしたら、一度間を置かれるのもよろしいかと存じます。特定の年代を長く調べ続ければ、別の目的を勘繰る者が出てくる可能性もございます。」
「やっぱり、そう思う?」
「ええ。」
アレンは重ねた資料へ手を置いた。
「僕も同じことを考えてた。だから、一度領地へ戻るよ。」
「その方がよろしいでしょう。」
「必要になったら、また王都へ来る。」
「承知いたしました。」
「そっちは?」
「こちらも、ご報告がございます。」
情報屋は懐から数枚の紙を取り出した。
アレンの表情が引き締まる。
「何か動いた?」
「大きな動きはございません。ですが、左頬に刀傷のある男について、気になることがございます。」
「刀傷の男……。」
「以前、こちらの者が彼を追った際、逆に動きを探られました。誰かに見張られていると気付いた可能性が高いでしょう。」
「それなのに、動きは変わってない?」
「はい。」
東倉庫地区、オルブライト商会、荷馬車の動き、商人たちの出入り。
どれも表向きには、これまでと大きな変化はない。
「オルブライト商会も?」
「今のところ、商会側が監視に気付いた様子はございません。」
「じゃあ、刀傷の男は商会に知らせてないのか。」
「その可能性はございます。あるいは、彼自身もこちらが何者なのか見極めようとしているのかもしれません。」
「だから、あえて何も変えない。」
「はい。下手に動けば、自分たちに何かあると示すことになりますから。」
「……厄介だね。」
「ええ。ですので、こちらも方法を変えました。」
情報屋は王都の地図を広げる。
「東倉庫地区への直接の監視を減らしております。」
「やめるわけじゃない?」
「最低限は残します。ですが、人を張り付け続ければ、こちらの動きを逆に読まれます。」
指先が地図の上を滑っていく。
「市場、酒場、宿屋、商店。こちらの人間は、王都の各所におります。」
「王都全体から拾うんだ。」
「はい。」
東倉庫地区だけを見ない。オルブライト商会だけを見るわけでもない。
王都という大きな流れの中から、人の動き、荷の動き、噂。そこに混じる小さな異変を拾っていく。
「相手が普段どおりに振る舞うなら、こっちも普段どおりの王都から探す。」
「その通りです。」
「……さすがだね。」
「それが仕事ですので。」
情報屋は淡々と答えた。
けれど、深く被ったフードの下で、その口元がほんの僅かに緩む。
「分かった。王都のことは任せるよ。でも、無理はしないで。」
情報屋が僅かに目を瞬かせた。
「相手も、こっちの存在に気付き始めてるんだろう? 情報は欲しい。でも、そのために君や仲間が傷つくのは違う。」
「……。」
その言葉に、つい先ほどの光景が脳裏をよぎった。
転んだ少年へ誰よりも早く駆け寄り、傷を洗い、安心させるように笑っていたアレン。
あの時も、今も、きっと本人にとっては特別なことではない。
困っている者がいれば手を差し伸べる。危険な場所へ向かう者がいれば案じる。
そういう人なのだ。
「……承知しております。ただ、そのお言葉はアレン卿にもお返しいたします。」
「僕?」
「ご自身も、これまで何度も危険な目に遭われています。ご自分の安全も、もう少しお考えください。」
「ああ……それを言われると、反論できないな。」
アレンは困ったように笑った。
「でしたら、お互いに無茶はしないということで。」
「うん。もちろん無茶はしない。でも、人任せでは見えないものもあるからね。」
「……それを無茶と呼ぶのでは?」
「違うと思うけど。」
「そうでしょうか。」
二人の間に、小さな笑みが交わされた。
その時、情報屋の脳裏に別の姿が浮かぶ。
黒髪の旅人、アン。
あの人も一人で木札を追い、尾行されてもなお、自分の足で調べようとしていた。
(……やはり、同じですね。)
アレン。
アン。
レイ。
今はもう、ヴィオレットの中ではすべて一人の人間へ重なっている。
けれど、アレン自身はそのことを明かしていない。
ならば、自分から口にするつもりはなかった。
知ろうと思えば、もっと深くまで調べることもできる。
けれど、そこから先は自分が踏み込むべき場所ではない。
いつかアレン自身が話してくれるのなら、その時に聞けばいい。
「それでは、私はこれで。新たな情報が入り次第、ご報告いたします。」
情報屋が立ち上がる。
「頼んだ。僕は明日、領地へ戻るよ。」
「お気を付けて。」
「ありがとう。」
情報屋は深く一礼し、部屋を後にした。
扉が閉じる。
アレンはしばらく、その扉を見つめていた。
「……不思議な人だね。」
「何がでしょう?」
「名前も顔も知らないのに、妙に話しやすい。」
リリアは資料を片付けながら、僅かに笑った。
「信頼できる方なのでしょう。」
「うん。そうだと思う。」
◇ ◇ ◇
翌朝。
王都の大通りを、ヴァルティエ家の紋章を掲げた馬車がゆっくりと進んでいた。
向かう先は王都の城門。
その馬車を、少し離れた場所に停まった別の馬車の中から、ヴィオレットは静かに見つめていた。
今日は黒い外套も、深く被ったフードもない。
侯爵令嬢、ヴィオレット・ローランとしての姿だった。
もちろん、アレンを見送るためにここへ来たわけではない。
これから向かう場所へ行く途中、偶然ヴァルティエ家の馬車を見つけただけ。
――そういうことにしておく。
やがて、馬車が城門の向こうへ消えていく。
「……お気を付けて。」
小さく漏れた声に、向かいに座る侍女が顔を上げた。
「お嬢様?」
「何でもありません。参りましょう。」
ヴィオレットはいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「はい。」
馬車が静かに動き出す。
ヴィオレットはもう一度だけ、アレンが去った方角へ視線を向けた。
昨日の夕暮れに会った時には、もう少し王都に滞在するつもりだと話していた。
けれど、その夜。
情報屋として訪ねた自分は、アレンの予定が変わったことを知った。
アレンは知らない。
昨日、夕暮れの街を隣で歩いた令嬢と、夜になって宿を訪れた情報屋が、同じ人間であることを。
そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになる。
ヴィオレットは、誰にも気付かれないほど小さく微笑んだ。
アレンはヴァルティエ領へ。
ヴィオレットは王都に残る。
追う場所も、使う手段も違う。
けれど、二人が探しているものは同じだった。
十五年前、何が起きたのか。
その答えへ向かって、二人はそれぞれの場所から少しずつ手がかりを辿っていた。




