第63話 重なる痕跡
夕暮れの王都は、一日の終わりを迎えようとしていた。
店先には焼きたてのパンが並び、香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
露店では夕食の食材を買い求める人々が行き交い、仕事を終えた職人たちは笑い声を上げながら酒場へ向かっていた。
アレンとヴィオレットは並んで歩き、その少し後ろをリリアと侍女がついていく。
「王都へは、しばらく滞在されるのですか?」
ヴィオレットが尋ねる。
「そのつもりです。まだ王城で確認したい資料があるので。」
「領地の整備についてでしたね。」
「ええ。せっかく来たんです。参考にできるものは、できるだけ持ち帰りたいですから。」
アレンが穏やかに笑う。
ヴィオレットも微笑み返した。
その時。
通りの向こうから、小さな囁き声が聞こえてきた。
「あの方……。」
「ヴァルティエ領の領主様じゃない?」
「本当だ……。」
アレンの姿に気付いた若い女性たちが、足を止めている。
頬を染めながら見つめる者、友人同士で顔を寄せ、何かを囁き合う者。
けれど、誰も近付いてはこない。
以前、勇気を出してアレンへ声を掛けた令嬢が、緊張のあまり倒れてしまった。
そんな話まで、王都では噂になっている。
当の本人は、気付いていないのか、それとも、気付かないふりをしているのか。
いつもと変わらない様子で歩いていた。
後ろから、リリアが小さく笑う。
「相変わらずですね。」
「何が?」
「いえ。アレン様は、そのままでいてください。」
「……?」
アレンは不思議そうに首を傾げる。
その様子に、ヴィオレットもそっと口元を緩めた。
社交界では、女好き。遊び人。
そう噂されている人だ。
けれど、こうして普段の姿を見ていると、本当に同じ人物なのかと思ってしまう。
その時だった。
「いたっ!」
幼い声が上がった。
アレンたちが振り返る。
少し離れた場所で、一人の少年が石畳の段差につまずき、前へ倒れ込んでいた。
「大丈夫?」
母親が駆け寄るより早く、アレンは少年のそばへしゃがみ込んでいた。
少年は目に涙を浮かべながら、こくりと頷く。
「どこをぶつけた?」
「手……。」
「見せてくれる?」
おそるおそる差し出された掌には、擦り傷ができていた。細かな砂も入り込んでいる。
「少し痛いけど、きれいにしよう。」
アレンは近くの店へ顔を向ける。
「すみません。水を少しお借りできますか?」
「え、ええ。もちろんです!」
店主が慌てて水を用意する。
「ありがとうございます。」
アレンは革手袋を外した。
「リリア。」
「はい。」
差し出された手袋を、リリアが受け取る。
「……。」
その瞬間。
ヴィオレットの視線が止まった。
手袋の下から現れた手。
指の付け根には、剣を握り続けた者に残る、硬くなった皮膚があった。
(……剣ダコ。)
見覚えがある。
王都の喫茶店で同席した、黒髪の旅人。
アン。
あの時、彼女の手にも同じものがあった。
「少ししみるよ。」
「……うん。」
「我慢できそう?」
「できる。」
「偉いね。」
アレンは水で濡らしたハンカチを使い、傷へ入り込んだ砂を丁寧に拭っていく。
「いたっ……。」
「ごめん。もう少しだから。」
少年を安心させるように、アレンが微笑む。
ヴィオレットは黙って、その手を見つめていた。
もっとも、それ自体は何もおかしなことではない。
アレンが剣を扱うことは知っている。貴族であっても、護身や嗜みとして剣術を学ぶ者はいる。
だから、アレンの手に剣ダコがあっても、それだけなら何の証拠にもならない。
けれど。
ヴィオレットの脳裏に、先ほど見たものが蘇る。
耳の後ろにある、小さな黒子。
「はい。これで大丈夫。今日は家に帰ったら、もう一度きれいに洗ってもらうんだよ。」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
「どういたしまして。」
アレンが笑い、しゃがんでいた身体を起こす。
その拍子に、短い金色の髪がさらりと揺れた。
「……。」
ヴィオレットの紫の瞳が、僅かに細められる。
耳の後ろ。
そこには、先ほど確かめたばかりの小さな黒子がある。
以前、情報屋としてヴァルティエ邸を訪れた時にも、一度だけ見ている。
そして。
アンにも。
レイにも。
同じ位置にあった。
(……同じ場所。)
黒子だけなら、偶然で済ませることもできた。
剣ダコだけでも、何も不自然ではない。
けれど、二つが重なった。
「ありがとうございました。」
少年の母親が何度も頭を下げる。
「お気になさらず。大きな怪我じゃなくてよかったです。」
アレンは穏やかに答え、それからリリアから手袋を受け取った。
何事もなかったように、再びその手を革の下へ隠す。
ヴィオレットは何も言わなかった。
ただ、今まで見てきたものが頭の中で静かに並び始めていた。
アン。
レイ。
アレン。
アンとレイが同一人物であることは、すでに分かっている。
そして今、そこへアレンが重なり始めた。
同じ位置にある黒子。
剣を握り続けた者の手。
(一つなら、偶然です。)
けれど偶然が、少しずつ重なっている。
それでも、まだ事実と呼ぶには足りない。
「ヴィオレット嬢?」
アレンの声に、ヴィオレットは顔を上げた。
「どうしました?」
「……いいえ。何でもありません。」
いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「そう?」
「ええ。」
アレンはそれ以上、追及しなかった。
ヴィオレットも、何も聞かなかった。
確かめようと思えば、方法はいくらでもある。
けれど、今アレン本人へ探りを入れる必要はない。
もし、自分の中に浮かび始めている可能性が正しいのなら。
この人は、誰にも知られないように何かを隠している。
ならば、自分の疑問を晴らすためだけに、不用意に触れるべきではない。
「行きましょうか。」
何も知らないアレンが、いつも通り笑う。
「はい。」
ヴィオレットも、いつも通り微笑み返した。
四人は再び歩き始める。
その隣を歩きながら、ヴィオレットは一度だけアレンの横顔を見た。
(……まさか。)
胸の奥に浮かんだ言葉を、そこで止める。
まだ。
答えにはしない。
情報は、思い込みで決めるものではない。
けれど、これまで散らばっていた欠片は、もうただの偶然として片付けるには、少しだけ、重なりすぎていた。




