第62話 夕暮れの邂逅
王城を出た頃には、空はすっかり夕暮れの色へ染まっていた。
アレンとリリアは待たせていた馬車へ乗り込み、宿へ向かう。
窓の外には、昼間とは少し違う王都の賑わいが流れていた。
「今日は随分読みましたね。」
向かいに座るリリアが苦笑する。
「さすがに目が疲れたよ。二十年分だからね。」
「明日は少しお休みになられてはいかがですか。」
「そうしようかな。」
そう答えながらも、アレンの頭には先ほどまで読んでいた記録が残っていた。
十五年前、東倉庫地区が整備対象から外された。
その後、担当者が替わり、理由の記述が薄れていっても、最初の判断だけは引き継がれ続けた。
「でも、無駄ではなかった。」
「はい。」
「どうして十五年間、誰も疑問を持たなかったのか。その理由は少し見えた気がする。」
最初の判断を次の担当者が引き継ぎ、さらにその次へ。
年月を重ねるうちに、一つの判断が疑う必要のない前例へ変わっていく。
「問題は、最初ですね。」
「うん。東倉庫地区が初めて整備対象から外された時、誰が決めて、何を根拠にそう判断したのか。」
「今日の資料では、そこまでは分かりませんでした。」
「ああ。」
それだけではない。
両親の事故についても、まだ分からないことがある。
『御者は事故現場より離れた街道上にて発見。救助を求めるため現場を離れたものと判断する』
御者は亡くなっていた。
確認した記録には、そう判断した根拠も、御者が実際に救助を求めようとしていたと裏付けるものも残されていない。
「調べたいことが増えたね。」
「減るどころか増えましたね。」
「本当に。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
けれど、焦る必要はない。
王城で確認できるのは、公に残された記録。
東倉庫地区やオルブライト商会については、情報屋が調査を続けている。
「オルブライト商会の方も気になるけど、今は任せよう。」
「情報屋の方との約束ですからね。」
「うん。僕は僕にできることをするよ。」
あの人を信じると決めた。
だからこそ、勝手に動いて調査を邪魔するつもりはない。
やがて、馬車が宿の近くへ差し掛かった。
アレンは窓の外へ目を向ける。
夕日に染まった雲が、王都の屋根の向こうへゆっくりと流れていた。
「リリア。」
「はい。」
「ここから歩かない?」
「宿までは、まだ少しございますが。」
「ずっと座って古い文字を見てたから、少し歩きたいんだ。考え続けてると、見えるものまで見えなくなりそうだし。」
リリアはアレンを見つめ、小さく息を吐いた。
「では、少しだけですよ。」
「うん。」
馬車を止めてもらい、二人はそこで降りた。御者には、そのまま宿へ戻ってもらう。
夕暮れの大通りには、まだ多くの人が行き交っていた。
露店を覗く親子。
買い物籠を提げた女性。
仕事帰りらしい男たち。
焼き菓子の香りに誘われ、アレンが露店へ視線を向ける。
「美味しそうだね。」
「夕食前ですよ。」
「見るだけだよ。」
「アレン様の『見るだけ』は信用しておりません。」
「失礼だな。」
そんなことを話しながら歩いていると。
「アレン卿?」
聞き覚えのある声に、アレンの足が止まった。
振り返る。
少し離れた場所に、一人の令嬢が立っていた。
柔らかく波打つ紫の髪に、上品なドレス。その傍らには、一人の侍女が控えている。
「ヴィオレット嬢。」
ローラン侯爵家の令嬢。
ヴィオレット・ローラン。
ヴィオレットは柔らかな微笑みを浮かべ、優雅に一礼した。
「お久しぶりです、アレン卿。」
「久しぶり、こんなところでお会いするとは思わなかったよ。」
「私も驚きました。王都へいらしていたのですね。」
「領地の整備に役立ちそうな資料があって、王城へ。」
嘘をつく必要はない。
実際、それも今回の目的の一つだった。
「ヴィオレット嬢は?」
「今日は体調も良かったので、少し買い物を。」
そう言って、ヴィオレットは侍女が持つ小さな包みへ視線を向けた。
「そうか。でも、無理はしないでね。日が落ちると少し冷えるから。」
「ありがとうございます。もう少ししたら戻るつもりです。」
「それなら良かった。」
アレンが穏やかに微笑む。
ヴィオレットも微笑み返した。
表向きは、久しぶりに顔を合わせた貴族同士の何気ない会話。
けれど、ヴィオレットは目の前に立つアレンを、ほんの少しだけ以前とは違う目で見ていた。
アレン・ヴァルティエ。
十五年前の事故について、自分へ調査を依頼した若き領主。
そして、ふと別の二人の姿が脳裏をよぎる。
黒髪の旅人、アン。
茶髪の令嬢、レイ・ヴァルティエ。
アンとレイが同一人物であることは、すでに確信している。
けれど、そこへもう一人。
小さな違和感を覚える人物がいた。
「ヴィオレット嬢?」
呼び掛けられ、ヴィオレットは我に返った。
「申し訳ありません。少し考え事を。」
「疲れた?」
そう言って、アレンが僅かに身を屈める。
心配そうに顔を覗き込まれ、ヴィオレットは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いいえ。大丈夫です。」
「ならよかった。」
アレンはそれ以上何も聞かず、身体を起こした。
その拍子に、短い金色の髪がさらりと揺れる。
「……。」
ヴィオレットの視線が、一瞬だけアレンの耳元で止まった。
耳の後ろ。
小さな黒子。
以前、情報屋としてヴァルティエ邸を訪れた時にも、一度だけ見えたもの。
あの時はほんの一瞬だったため、見間違いかもしれないと思っていた。
けれど。
今も確かに、そこにある。
(……やはり。)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
似た位置にある黒子を、ヴィオレットは知っていた。
アン。
そして、レイ。
けれど、黒子など珍しいものではない。
同じような位置にある人間がいたとしても、それだけで何かを決めることはできない。
情報を扱う者として、推測と事実を混同するつもりはなかった。
「では、私たちはそろそろ。」
ヴィオレットが微笑む。
「うん、暗くなる前に戻った方がいいね。」
「お気遣いありがとうございます。」
ヴィオレットが歩き出そうとした、その時。
「ヴィオレット嬢は、こちらへ?」
アレンが示したのは、自分たちが向かおうとしていた道だった。
「はい。途中までは同じ道です。」
「それなら、一緒に行く?」
「……。」
ヴィオレットの瞳が、僅かに揺れた。
「ご迷惑でなければ。」
「もちろん。僕たちも宿まで歩こうと思っていたところなんだ。」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。」
「うん。」
アレンが歩き出し、その隣へヴィオレットが並ぶ。
少し後ろを、リリアと侍女がついていく。
夕暮れの王都。
行き交う人々の中を、四人は同じ方向へ歩き始めた。
ヴィオレットは、隣を歩くアレンの横顔をそっと見る。
短い金色の髪。
穏やかな青い瞳。
男として、若き領主として生きている人。
そして。
耳の後ろにあった、小さな黒子。
今分かっているのは、それだけ。
まだ答えを出すには足りない。
けれど、一度気付いてしまった小さな違和感は、夕暮れの中でも消えることなく。
ヴィオレットの胸の奥に残っていた。




