第61話 十五年という時間
事故報告書を閉じたアレンは、静かに椅子へ背を預けた。
窓の外では、夕日が王都の街並みを茜色に染め始めている。
「もうこんな時間か。」
リリアも窓へ目を向けた。
「朝から資料を読み続けていましたから。」
「今日はここまでにしようか。」
アレンは机の上へ視線を戻す。
都市整備計画書、事業報告書、そして事故報告書。
今日一日で読んだ資料が、机の上に積み重なっている。
その中から、アレンは十五年前の都市整備計画書をもう一度手に取った。
『物流機能への影響を考慮し、当期整備対象より除外とする』
その翌年。
『前年度方針を踏襲し、当期も整備対象外とする』
さらに年月が経つにつれ。
『現状維持』
『整備優先度低』
記述の仕方は変わっている。
それでも、東倉庫地区が大きな整備の対象にならないという結論だけは、十五年間変わっていなかった。
「……リリア。」
「はい。」
「これ、十五年間ずっと誰かが意図して残してたわけじゃないのかも。」
リリアが僅かに首を傾げる。
「と、仰いますと?」
「十五年もあれば、担当者だって替わるだろ?」
「ええ。異動や昇進もございます。同じ者が担当し続けていた可能性は低いかと。」
「だったら。」
アレンは翌年の計画書を開いた。
「十五年前、誰かが『物流に影響するから、今回は整備対象から外す』と決めた。次の担当者は前年の記録を見て、特に問題が起きていなければ、その判断を引き継ぐ。」
指先が、その次の年へ移る。
「その次の担当者も……。」
「同じ。」
アレンは頷いた。
「誰かが十五年間、東倉庫地区を整備させないよう働きかけ続けなくてもいいんだ。」
「最初の判断さえ残れば……。」
「後は、それが前例になる。」
短い沈黙が落ちた。
「十五年って、長いんだね。」
アレンがぽつりと呟く。
「最初は誰かが理由を考えて決めたことでも、人が替わって、また替わって……そのうち『そういうもの』になる。」
何故そうなったのか、誰が決めたのか。
それを知らない者が担当になっても、前年の記録を確認し、大きな問題が起きていなければそのまま引き継ぐ。
それは行政として、決して不自然なことではない。
「だから、今の担当者に聞いても。」
「おそらく、十五年前の事情まではご存じないでしょうね。」
「うん。今まで問題がなかったから、変える必要もないと思っていた。それだけかもしれない。」
それなら、十五年間、東倉庫地区だけが取り残されていたことにも説明がつく。
誰かが守り続けていたのではない。
最初に作られた流れが、人が替わっても残り続けただけ。
「……記録って、すごいな。人より長く残る。」
「ええ。」
「書いた人がいなくなっても、次の人の判断に影響する。」
そこで、アレンの視線が止まった。
先ほどまで読んでいた事故報告書。
『御者は事故現場より離れた街道上にて発見。救助を求めるため現場を離れたものと判断する』
「……僕も、同じだったのかも。」
「アレン様?」
「父上と母上が亡くなった時、僕は五歳だった。」
覚えていることは多くない。
ただ、二人は事故で亡くなったのだと、そう聞かされた。
幼かったアレンには、それを確かめる術などなかった。
「ずっと、事故だったって聞いて育った。」
けれど、何も疑わなかったわけではない。
大きくなるにつれ、時折、胸の奥に小さな引っ掛かりが残ることはあった。
そして、自分の周囲で不自然な出来事が続いた。
ワインへ混ぜられていた睡眠薬。
命を狙うように飛んできた金属片。
一つなら、偶然だと思えたかもしれない。
けれど重なれば、考えずにはいられなかった。
「僕を狙ってる誰かがいるなら、父上と母上の事故も、本当にただの事故だったのかなって。」
だから情報屋へ、十五年前のことを調べてほしいと頼んだ。
「疑ってはいたんだ。」
アレンは事故報告書へ視線を落とす。
「でも、それでも僕の中には、どこかで『事故だった』っていう前提が残ってた。」
「……幼い頃から、そう聞かされてこられたから。」
「うん。」
アレンはゆっくりと頷いた。
「今日だって、この一文に引っ掛からなかったら、事故じゃなかった証拠を探すんじゃなくて、『事故の中に何か不自然なことがなかったか』って読み方をしてたかもしれない。」
事故ではなかったのではないか。
そう疑っているつもりだった。
なのに、十五年前から残り続けた言葉は、知らないうちに自分の中にも根を張っていた。
「記録って、不思議だね。」
アレンは古びた帳簿へ触れる。
「残っているから、過去を知ることができる。でも、そこに書かれていることを最初から正しいと思って読めば、それ以外の可能性は見えなくなる。」
「……はい。」
アレンは再び、都市整備計画書を開いた。
「だったら、見るべきなのは十五年間じゃない。」
指先が、十五年前の記述で止まる。
『物流機能への影響を考慮し、当期整備対象より除外とする』
「ここだ。」
リリアも同じ場所を見る。
「最初に方針が変わった時、誰が決めたのか。何を根拠に決めたのか。本当に、物流だけが理由だったのか。」
「はい。」
まだ分からない。
本当に当時は工事が難しかっただけかもしれないし、誰かの意図があったのかもしれない。
今の段階では、どちらとも言えない。
「事故報告書も同じだ。後から引き継いだ人じゃない。最初に調べて、最初に結論を出した人を見る。」
十五年前、東倉庫地区を整備対象から外した者。
そして、両親の死を調べ、『事故』と判断した者。
「最初を調べよう。」
「承知しました。」
アレンはようやく資料を閉じた。
「今日は十分だ。帰ろう。」
「はい。」
二人は閲覧した資料をまとめ、文官へ返却する。
王城を出る頃には、空はすっかり夕暮れの色へ染まっていた。
馬車へ向かいながら、アレンは一度だけ背後の王城を振り返る。
十五年で人は替わった。
それでも、最初に残された記録は人から人へ引き継がれてきた。
ならば追うべきなのは、十五年間のすべてではない。
始まりだ。
東倉庫地区が、初めて整備対象から外された時。
両親の死が、『事故』とされた時。
十五年前、二つの記録が生まれたその瞬間。
そこに何があったのか。
次に追うべきものが、ようやく見えてきた。




