第54話 残された空白
それから一週間が過ぎた。
初夏の風が、ヴァルティエ邸の窓を揺らしていた。
アレンは執務室で、領内から届いた書類へ目を通している。
コンコンコン。
控えめなノックが三度響いた。
「どうぞ。」
扉が開く。
入ってきたのは、黒い外套を纏い、フードで顔を隠した情報屋だった。
その姿を見た瞬間、アレンは思わず席を立った。
「無事でよかった。」
ヴィオレットの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……ご心配をお掛けしました。」
「いや。無事ならいいんだ。」
アレンは少し照れたように笑う。
この一週間、何度か気になっていた。
相手はプロなのだから、自分が心配する必要などない。
そう思っていたのに、こうして変わらぬ姿を見れば、素直に安堵した。
「座って。」
「失礼いたします。」
ヴィオレットが向かいへ腰を下ろす。
「それで。何か分かった?」
「はい。少し気になるものを見つけました。」
ヴィオレットは革筒を机へ置いた。
留め具を外し、中から古びた地図を取り出す。
机いっぱいに広げられたのは、王都だった。
「これは?」
「十五年前の王都です。」
「十五年前……。」
アレンの表情が変わる。
ヴィオレットは地図の端へ指を添えた。
「当時、王都では大規模な都市整備が行われています。主要道路の拡張、排水路の整備、区画整理。複数の地域を対象とした事業です。」
「それが事件と関係してる?」
「まだ分かりません。」
ヴィオレットは即座に答えた。
「ですが、気になる場所があります。」
指先が、地図の東側へ移動する。
「ここです。」
アレンが身を乗り出した。
「東倉庫街……。」
「はい。」
周囲には、工事が行われたことを示す書き込みがいくつも残されている。
道路。
水路。
区画。
その中で、東倉庫街の一角だけが、不自然なほど手を加えられていなかった。
「ここだけ……何もない。」
「正確には、当時の整備対象から外されています。」
「理由は?」
「分かりません。」
アレンが顔を上げた。
「記録がない?」
「私が確認できた範囲にはありませんでした。」
ヴィオレットは東倉庫街を指先でなぞる。
「通常、これほど大きな都市整備であれば、計画書だけでなく、担当部署や予算、工事区域についても何らかの記録が残ります。」
「なのに、東倉庫街だけ理由が分からない。」
「はい。」
偶然なのか、何らかの事情があったのか。
それすら今は判断できない。
「現在の地図と比べてみたいな。」
アレンが立ち上がった。
「確か、ここに……。」
壁に掛けられている現在の王都地図へ手を伸ばす。
留め具を外そうと、少し顔を横へ向けた。
短い金髪が揺れる。
「……。」
ヴィオレットの視線が止まった。
耳の後ろ。
髪の隙間から覗いた。
小さな黒子。
(……黒子。)
胸の奥に、小さな違和感が落ちた。
どこかで、同じ位置にあるものを見たことがある。
けれど。
「取れた。」
アレンが振り返った。
ヴィオレットの意識も、すぐに目の前へ戻る。
「こちらへ。」
「うん。」
現在の地図が、十五年前の地図の隣へ広げられた。
二人で見比べていく。
「西側はかなり変わってる。」
「はい。」
「南側も道路が増えてるね。」
「北側も区画整理が進んでいます。」
そして二人の視線が、同じ場所へ辿り着いた。
「……東倉庫街。」
アレンが呟く。
十五年前と現在。
周辺は変わっている。
それなのに問題の区画だけが、取り残されたように残っている。
「十五年も……?」
「少なくとも、この二枚を見る限りでは。」
ヴィオレットが答える。
「大きな変更は確認できません。」
アレンは腕を組んだ。
「十五年前に整備から外されて、そのまま残っている。」
「そういうことになります。」
「誰が決めたんだろう。」
「それを調べる必要があります。」
ヴィオレットの指が、古い地図へ戻る。
「都市整備は、一人の判断だけで行われるものではありません。計画を立案した部署があり、それを確認した者がいて、予算や工事区域を承認した者もいるはずです。」
「だったら、当時の計画を辿れば……。」
「何か残っている可能性はあります。」
誰が東倉庫街を整備対象から外したのか。
あるいは、最初から対象に入れなかったのか。
そして何故、その状態が十五年も続いているのか。
「でも……。」
アレンは古い地図を見つめた。
「これだけ昔の行政資料となると、領地にはない。」
「ええ。」
「王都でも、簡単に手に入るものじゃないよね。」
「はい。」
そこで、アレンは一つの場所を思い浮かべた。
「……王城か。」
ヴィオレットが静かに頷く。
「正式な資料が残されているとすれば、可能性が高いかと。」
王都の都市整備に関する計画書。
事業報告。
担当部署。
承認の経緯。
十五年前のものが今も残されているなら、王城の記録庫。
「でも。」
アレンは小さく息を吐いた。
「いきなり十五年前の東倉庫街について調べたいなんて言ったら、さすがに不自然だな。」
「私もお勧めいたしません。」
「だよね。」
領主だからといって、王城の資料を何でも自由に閲覧できるわけではない。
まして十五年前の、特定の区画だけを調べようとすれば、何故そこを調べるのかと問われる。
「……何か理由が必要だな。」
アレンは二枚の地図を見比べた。
怪しまれず、都市整備に関する資料へ目を通せる理由。
すぐには思いつかない。
けれど、探すべきものは、はっきりした。
「ありがとう。」
アレンが顔を上げる。
「今までより、一歩進めた気がする。」
「お役に立てたのでしたら何よりです。」
ヴィオレットは古い地図を巻いていく。
十五年前、東倉庫街だけが都市整備から取り残された理由。
その答えは、王城に眠る記録の中にあるのかもしれない。




