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第53話 名も知らぬ人


 朝の執務室には、柔らかな陽射しが差し込んでいた。


 アレンは机へ向かい、領内から届いた報告書を、一枚ずつ確認している。


 今年の収穫量、新しい井戸の工事、街道の補修。


 どれも今すぐ対応しなければならない案件ではない。


 だからこそ、一つひとつ丁寧に目を通していた。


「こちらは承認をお願いいたします。」


 リリアが書類を差し出す。


「うん。」


 アレンは内容を確認し、迷うことなく署名した。


「西地区の橋も、もうすぐ終わりそうだね。」


「予定より十日ほど早いそうです。」


「じゃあ、職人たちにお礼を伝えておいて。予定より早く終わったからって、次も無理をする必要はないとも。」


「承知しました。」


 リリアが書類をまとめる。


「王都からお戻りになると、いつも通りですね。」


「その方が落ち着くから。」


 アレンは小さく笑った。


 王都とは違う。


 誰が誰を探っているのか、どこに敵の目があるのか、そんなことばかりを考えずに済む。


 領地へ戻れば、領主としていつもの仕事が待っている。


「……。」


 ペンが止まった。


 数秒して、また書類へ目を落とす。


 数行読む。


「……。」


 そして、もう一度止まった。


「アレン様。」


「ん?」


「先ほどから、同じところを読んでおられますよ。」


「……本当?」


「はい。」


 リリアが僅かに笑う。


「何か気になることでも?」


「いや……。」


 答えかけて、アレンは口を閉じた。


 気になることなら、いくつもある。


 十五年前のこと、東倉庫街、オルブライト商会。


 どれも、今すぐ自分で調べに行きたいくらいには気になっている。


 けれど、さっきから頭に浮かんでいるのは、そのどれでもなかった。


「……情報屋さん。」


「はい?」


「大丈夫かなって。」


 リリアの手が、僅かに止まった。


「情報屋の方が、ですか?」


「うん。」


 アレンは椅子へ背を預けた。


「調査を任せた以上、危険があることは分かってる。向こうはプロだし、僕より王都の裏事情にも詳しい。それも分かってるんだけど。」


 それでも、思い出す。


 アンとして尾行されていた時、突然現れ、王都の裏路地から自分を逃がしてくれた、黒い外套。


 刺客に囲まれた夜も、あの人は迷うことなく戦いへ飛び込んできた。


 そして今も、自分の依頼を受け、危険な相手を追っている。


「無茶してなきゃいいけど。」


 ぽつりと漏らす。


 リリアが、少しだけ目を丸くした。


「ご心配なのですね。」


「そりゃ心配するよ。」


「依頼を受けてくださっている方だから?」


「それもあるけど……。」


 アレンは少し考えた。


「二回も助けてもらってるし。」


「そうでしたね。」


「僕の関係者だと思って助けてくれたんだろうけど。それでも、普通ならあそこまでしないでしょ。」


「どうでしょう。」


「リリアならする?」


「アレン様でしたら。」


「ほら。」


「私の場合は仕事です。」


「それもそうか。」


 アレンは苦笑する。


 理由ならいくらでもある。


 危険な仕事を頼んでいるから。


 二度も助けてもらったから。


 信用しているから。


 だから無事かどうか気になる。


 何もおかしくない。


「信用してないわけじゃないんだよ。」


「分かっております。」


「むしろ、信用してる。」


 アレンは机へ頬杖をついた。


「顔も知らないのにね。」


 そこまで言って、ふと、眉を上げる。


「……そういえば。」


「はい?」


「僕、あの人の名前も知らない。」


「……今さらですか?」


「仕方ないでしょ。」


 アレンが笑う。


「正体を隠して仕事してる人に、『本名教えて』なんて聞けないし。」


「本名でなくてもよろしいのでは?」


「え?」


「呼び名くらいはあった方が便利でしょう。」


「……。」


 それは、考えたことがなかった。


「次にお会いした時にでも、お尋ねになっては?」


「次……。」


 何気なく、その言葉を繰り返す。


 次に会った時。


「……。」


 アレンは、無意識に扉へ視線を向けた。


 もちろん、誰も来るはずはない。


「アレン様?」


「何でもない。」


 すぐに書類へ視線を戻す。


「仕事しよう。」


「はい。」


 リリアはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、僅かに楽しそうな笑みだけが残っている。


「……何その顔。」


「何も。」


「絶対何かあるでしょ。」


「お仕事をなさるのでしょう?」


「するけど。」


 アレンは少し不満そうにしながら、再び報告書へ目を落とした。


 今度こそ、仕事へ集中する。


 けれど、しばらくすると、また黒い外套の姿が頭をよぎった。


 名前も知らない。


 顔も知らない。


 本当の声すら知らない。


 知っているのは、自分を二度助けてくれたこと。


 今も、自分のために動いてくれていること。


(……次の報告、いつになるかな。)


 そこまで考えて、アレンは小さく首を振った。


(別に、急かしたいわけじゃないけど。)


 報告は、何か分かってからでいい。


 何も分からないなら、無理に来る必要もない。


 ただ次に会った時、またいつもの声で、何事もなかったように話してくれればそれでいい。


「……。」


 アレンは、もう一度だけ扉を見た。


 そして今度こそ、書類へ視線を戻した。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 王都。


 ローラン侯爵邸。


 ヴィオレットは窓辺の椅子に腰掛け、各所から届いた報告へ目を通していた。


 東倉庫街。


 オルブライト商会。


 左頬に刀傷のある男。


 そして王都各地へ散った構成員たちから集まる、小さな情報。


 昨日、東倉庫周辺を見ていた構成員の一人が、何者かに尾行された。


 こちらの存在は、すでに相手に疑われている。


 だからこそ、今まで以上に慎重に動かなければならない。


「……。」


 一枚、また一枚と、報告を確認していく。


 必要なもの、今は保留にするもの、別の情報と照合するもの、それぞれを分けていく。


 やがて、紅茶へ手を伸ばした。


 その途中、ふと指が止まる。


『あなたを信じるよ』


「……。」


 脳裏に浮かんだのは、先日訪ねたヴァルティエ邸。


 何の迷いもなく、そう言って笑ったアレンだった。


 ヴィオレットは、静かにカップを持ち上げる。


 情報屋として、依頼人から信頼されることは珍しくない。


 信用がなければ、そもそも仕事など任されない。


 だからあの言葉も、本来なら、特別なものではない。


「……。」


 紅茶を一口。


 それでも、何故か。


 時折、思い出す。


 あの言葉だけではない。


『気をつけて』


 帰り際、そう声を掛けられたことまで。


「……。」


 ヴィオレットはカップを置いた。


 そして、何事もなかったように報告書へ視線を戻す。


「次にお会いする時には、もう少し良いご報告をしたいですね。」


 東倉庫街。


 オルブライト商会。


 刀傷の男。


 そして、こちらの存在へ気づき、今度はこちらを探り始めた、正体不明の相手。


 まだ、アレンへ持っていけるほどの新しい事実はない。


 だから、次に会うのは、もう少し先になる。


「……。」


 頁を捲ろうとして、ヴィオレットの指が止まった。


 ほんの一瞬だけ、そのことを残念に思った。


「……何を考えているのでしょう。」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 仕事だ、今は。


 相手の正体を掴むこと、こちらの情報網を悟らせないこと、そして、依頼された十五年前の真相へ近づくこと。


 それが、アレンへ返すべき答えだ。


 ヴィオレットは、次の報告書を手に取った。


 ただ、先ほど胸を掠めた小さな感情については、それ以上、深く考えなかった。


 アレンも、ヴィオレットも、まだ相手のことを知らない。


 アレンは、情報屋の名前すら知らず。


 ヴィオレットは、アレンがアンであることを知らない。


 互いに、知らないことばかりだった。


 それなのに、次に会う時を、ほんの少しだけ、待つようになっていた。


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