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第52話 情報網


 ローラン侯爵邸。


 その地下には、表向きの屋敷からは想像もつかないほど、広い一室が存在していた。


 部屋の中央には、大きな机。


 その上には、王都の地図が広げられている。


 東倉庫街。


 オルブライト商会。


 市場。


 宿屋。


 酒場。


 王都の各所に、小さな印が書き込まれていた。


 やがて、扉が開く。


 一人、また一人と構成員たちが地下室へ入ってくる。


 ある者はどこにでもいる使用人の姿。


 ある者は商人の装い。


 ある者は旅装のまま。


 市場ですれ違っても、酒場で隣り合っても、彼らをローラン家の人間だと見抜く者は、まずいない。


「東地区担当です。東倉庫に大きな変化はありません。」


「南地区担当です。オルブライト商会も通常どおり営業しております。荷馬車の出入りにも、目立った変化はございません。」


「西地区担当です。酒場を数軒回りましたが、東倉庫に関する噂は確認できませんでした。」


 ヴィオレットは地図の前に立ったまま。


 一つずつ報告を聞いていく。


「分かりました。続けてください。」


「はい。」


 次の構成員が前へ出る。


 ローラン家。


 表向きは古くから続く侯爵家。


 だが、その裏では代々、情報収集と暗殺を生業としてきた一族でもある。


 屋敷で働く使用人たちも、ただ主人に仕えているだけではない。


 必要とあれば情報を集め、誰かを追い、護衛となり、時には別人として人前へ立つことさえある。


 そして、ローラン家の目と耳が存在するのは、この屋敷だけではなかった。


 王都には、ローラン家が直接、あるいは間接的に関わる店がいくつも存在する。


 店主として客を迎える者。


 給仕として何気ない会話へ耳を傾ける者。


 宿屋で旅人の噂を拾う者。


 酒場で常連客に紛れる者。


 市場で商人や荷運びたちと言葉を交わす者。


 誰も、自分が情報を与えているとは思わない。


 世間話。


 愚痴。


 自慢話。


 酔った勢いで漏らした一言。


 それだけでは、何の意味も持たないような言葉。


 けれど、別の場所で拾われた情報と重ねれば、見えてくるものがある。


 そうして無数の小さな情報が、誰にも気づかれないまま、ローラン家へ集まってくる。


 何代にもわたって築かれてきた、ローラン家の情報網だった。


「お嬢様。」


 一人の構成員が前へ出る。


「先日の件について、ご報告がございます。」


 ヴィオレットの視線が動いた。


「聞きましょう。」


「刀傷の男に尾行を悟られた可能性があったため、以降、直接の追跡は控えておりました。」


「ええ。」


 それは、ヴィオレット自身が出した指示だった。


 一度こちらの存在を疑われた以上、同じ人間を追い続ければ、相手に確信を与えかねない。


「ですが昨日、東倉庫周辺を確認していた者の一人が、帰路で尾行を受けました。」


「……。」


 ヴィオレットの表情から、僅かに柔らかさが消えた。


「相手は?」


「刀傷の男本人ではございません。」


「顔は確認できましたか?」


「はい。ただ、こちらの記録にはない男です。」


「偶然という可能性は?」


「考えました。ですが、こちらが三度進路を変えても付いてきました。」


「……三度。」


「はい。」


 偶然ではない。


 少なくとも、そう考えた方がいい。


「どう対処しました?」


「予定していた経路を外れ、市場へ入りました。そこで別の構成員へ合図を送り、追跡者を引き継がせております。」


「あなたは?」


「そのまま人混みに紛れ、屋敷とは無関係の場所へ向かいました。」


「追跡者は。」


「こちらを見失った後もしばらく周囲を探っていたようですが、その後、姿を消しました。」


「尾行し返しましたか?」


「いいえ。」


「それで結構です。」


 ヴィオレットは迷わず答えた。


 相手がこちらを探ろうとしている。


 なら追い返す必要はない。


 正体を突き止めようとして、こちらまで深く踏み込めば、同じことの繰り返しになる。


「他にも同じ報告は?」


「今のところございません。」


「そう。」


 ヴィオレットは地図へ視線を落とした。


 東倉庫街。


 オルブライト商会。


 そして左頬に刀傷のある男。


 こちらは相手を見ていた。


 だが今度は、相手もこちらを見始めた。


「東倉庫は?」


「変化ありません。」


「オルブライト商会も?」


「普段どおりです。」


「荷馬車は?」


「これまでと同じ動きを続けております。」


「……。」


 ヴィオレットの指先が、東倉庫街の上で止まった。


 何も変わっていない。


 監視を悟られた可能性があるにもかかわらず、荷を止めない。


 人を逃がさない。


 商会も通常どおり営業している。


 証拠を処分するような動きもない。


 知らないのか、それとも気づいた上で、何も知らないふりをしているのか。


「……判断できませんね。」


 小さく呟く。


「お嬢様。」


 一人が尋ねる。


「東倉庫の監視は、このまま続けますか?」


「ええ。ただし、人数を減らします。」


「……減らすのですか?」


「こちらの存在を悟られた可能性があります。同じ場所を同じように見続ければ、今度はこちらが何者なのかを探られるでしょう。」


 ヴィオレットの指が、地図の上を滑る。


 東倉庫。


 オルブライト商会。


 市場。


 酒場。


 宿屋。


「刀傷の男を直接追うのも、一度やめます。」


「よろしいのですか?」


「ええ。」


 ヴィオレットは迷わなかった。


「こちらを探している可能性のある人間を、わざわざ追い続ける必要はありません。」


 構成員たちが静かに耳を傾ける。


「人を追えば、いずれ気づかれます。」


 一度、言葉を切る。


「ならば。」


 紫色の瞳が、机いっぱいに広げられた王都を見渡した。


「人ではなく、その人が残す痕跡を探します。」


「痕跡……。」


「一人で動いているのでなければ、必ずどこかと繋がっています。」


 食事をする。


 人と会う。


 物を受け取る。


 金が動く。


 馬車を使う。


 どれほど姿を隠しても、王都で生きている以上、何とも関わらずに動くことはできない。


 そして、その一つ一つを、ローラン家が直接追う必要もない。


「今日から、見る範囲を広げます。」


 一拍置いて。


「王都全体を。」


 何人かの表情が変わった。


 それが何を意味するのか、ローラン家の者なら理解している。


「酒場で交わされる何気ない世間話。宿屋で旅人が漏らす愚痴。市場で聞こえる商人同士の立ち話。店で給仕が耳にした会話。」


 ヴィオレットは、集まった構成員たちを一人ずつ見渡した。


「最近、急に姿を見せなくなった者。反対に、今まで見なかったのに頻繁に現れるようになった者。荷を運ばない荷馬車。使われていないはずなのに、人の出入りがある建物。」


「どんなに些細なことでも構いません。違和感があれば、すべて報告してください。」


「承知しました。」


 構成員たちが一斉に頭を下げる。


「ただし。」


 ヴィオレットが続けた。


「探していると悟られないように。こちらから尋ねる必要もありません。」


 いつもの仕事をして、いつもの客と話して、いつもの王都を見る。


 それだけでいい。


「相手が隠れようとすればするほど、必ずどこかに不自然さが生まれます。それを拾います。」


「はい。」


 やがて一人ずつ、地下室を後にしていく。


 使用人は使用人へ戻る。


 商人は商人へ戻る。


 旅人は再び旅人として街へ消えていく。


 誰も、情報屋には見えない。


 それでいい。


 ローラン家の情報網は、情報を探して歩く者だけで作られているわけではない。


 普段の生活の中で、そこにいることそのものが、目となり耳となる。


 最後の一人が退出すると、地下室にはヴィオレットだけが残った。


「……。」


 机いっぱいに広げられた王都の地図。


 その中で、東倉庫街は、ほんの小さな一点に過ぎない。


 一つの倉庫。


 一つの商会。


 一人の男。


 そこだけを追えば、相手もこちらを見る。


 ならば、こちらから追わなければいい。


「一つの倉庫を見ていても、見えるものには限界があります。」


 ヴィオレットは、王都全体へ視線を巡らせた。


 こちらが一人を追えば、相手には追っている人間が見える。


 けれど市場で働く者が、いつもと違う荷馬車を覚えていたら。


 酒場の給仕が、客の何気ない一言を耳にしていたら。


 宿屋の主人が、見慣れない客の出入りに気づいていたら。


 それは誰かを尾行したことにはならない。


 ただ、そこにいた人間が見た。


 聞いた。


 覚えていた。


 それだけだ。


「相手が姿を隠すのなら……。」


 紫色の瞳が静かに細められる。


「王都そのものに、探してもらいましょう。」


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