第50話 新たな足跡
夜更け。
ローラン侯爵家の地下に設けられた一室。
机の上には、王都の地図と、何冊もの帳簿。
そして、ここ数日で集められた監視記録が広げられていた。
ヴィオレットは、その中の一枚へ視線を落とす。
「オルブライト商会……。」
王都中央区に店を構える商会。
穀物や織物を中心に扱い、貴族家との取引も多い。
長く王都で商売を続けてきた、信用のある商会だ。
少なくとも、表向きには。
「東倉庫街との繋がりは?」
向かいに立つ構成員が答える。
「引き続き確認しております。本日も、オルブライト商会のものと思われる荷馬車が東倉庫へ入りました。」
「荷は?」
「確認できませんでした。少なくとも、外から見えるものは。」
「倉庫へ入った後は?」
「荷馬車ごと奥へ入っております。ただ、滞在時間は短く、出てきた時にも積み荷が増えた様子はございませんでした。」
「御者は?」
「降りておりません。」
「……。」
何も積まず、誰も降りず、短時間だけ倉庫へ入り、また出てくる。
「その後は?」
「一度、王都南門の方向へ向かいましたが、途中で進路を変えています。」
構成員の指が地図の上をなぞる。
「そのまま、オルブライト商会の裏門から敷地へ入りました。」
「他の日にも?」
「同じような動きを二度確認しております。」
「毎回、空荷に見える?」
「はい。」
ヴィオレットは小さく息を吐いた。
商会の荷馬車が、三度も荷を運ぶ様子もなく、同じ場所を往復している。
もちろん、それだけで不審とは言い切れない。
書状かもしれない。
帳簿かもしれない。
金銭。
鍵。
あるいは、単に人と人を繋ぐためだけに使われている可能性もある。
「荷馬車そのものに拘る必要はありませんね。」
「と申しますと?」
「運んでいるものが、目に見える荷とは限りません。それに、同じ馬車ばかり追っていては、他の動きを見落とします。」
荷は積み替えられる。
馬車も取り替えられる。
けれど、それらを動かすのは人だ。
「次からは、人を見てください。」
「人を?」
「誰が入るのか。誰が出てくるのか。東倉庫街へ出入りしている者と、同じ人物がいないか。」
「監視する人数を増やしますか?」
「いいえ。今までと同じ人数で。」
「ですが。」
「こちらが監視を強めたと気づかれれば、それまでです。」
「……承知しました。」
「交代の間隔だけ調整してください。一人で長く追わないように。」
「はい。」
その時。
コンコン。
扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。」
別の構成員が入室する。
「追加のご報告がございます。」
「聞きましょう。」
「オルブライト商会へ出入りする人物を確認していたところ、気になる男を一人見つけました。」
ヴィオレットの目が僅かに細められる。
「どのような人物ですか?」
「年齢は四十代ほど。商会の者とは服装が異なります。商人にも見えず、護衛として雇われている様子もございません。」
「出入りの頻度は?」
「この三日で二度。」
「正面から?」
「いいえ。いずれも裏口です。」
ヴィオレットの指が止まった。
「顔は?」
「普段は帽子を深く被っています。ただ、一度だけ確認できました。」
構成員が、自分の左頬へ指を添える。
「ここに、古い刀傷があります。」
「左頬……。」
ヴィオレットは紙の余白へ書き加える。
四十代ほど。
左頬に古い刀傷。
商人には見えない。
護衛でもない。
そして、オルブライト商会の裏口へ、三日の間に二度。
「東倉庫街では?」
「今のところ、本人の姿は確認できておりません。」
「そう。」
まだ、商会との関係も分からない。
従業員かもしれない。
取引相手かもしれない。
あるいは、まったく別の用件で訪れている可能性もある。
「この男を見てください。」
「尾行を?」
「可能なら。ただし、深追いはしないでください。」
「承知いたしました。」
「商会の監視も、そのまま続けてください。」
「はい。」
ヴィオレットは、刀傷の男について記された紙。
オルブライト商会の記録。
そして、東倉庫街の地図を並べた。
「荷馬車も。商会も。この男も。まだ、何かに関与しているとは決まっていません。今あるのは、いくつかの事実だけです。」
「はい。」
「推測で答えを作らないように。今は見るだけです。」
「承知いたしました。」
二人の構成員が一礼し、部屋を後にした。
◇
翌日。
王都中央区。
オルブライト商会の裏口から、一人の男が姿を現した。
深く被った帽子。
地味な外套。
そして左頬に走る、古い刀傷。
男は周囲を見ることもなく、人通りのある道へ出た。
少し離れた場所から、一人の男がその背中を追う。
ローラン家の構成員だった。
距離は十分に取っている。
視線も向け続けない。
道を曲がれば、別の構成員へ引き継ぐ。
一人で長く追わない。
昨夜、ヴィオレットから受けた指示通りだった。
刀傷の男は、王都中央区を南へ進んでいく。
大通りを抜け、市場の前を通り、さらに南へ。
その間、一度も振り返らない。
「……。」
尾行する構成員も、一定の距離を保ったまま歩き続ける。
やがて、刀傷の男が角を曲がった。
構成員はすぐには追わない。
少し間を置き、同じ角を曲がる。
「……?」
男の姿がなかった。
一本道ではない。
左右へ細い路地が伸び、その先には人の多い通りがある。
見失うこと自体は、不自然ではない。
だが。
「……。」
構成員は足を止めた。
何かが、引っ掛かる。
ここへ来るまで、男は一度も振り返らなかった。
こちらを気にする素振りすらなかった。
それなのに、人通りの少ない道へ入った直後、忽然と姿を消した。
追うべきか、僅かに迷い、昨夜の言葉を思い出す。
『可能なら。ただし、深追いはしないでください』
構成員はそのまま足を止めた。
◇
同じ頃。
二本先の通り。
刀傷の男が、何事もなかったように人混みの中を歩いていた。
足取りは変わらない。
振り返りもしない。
けれど、その目だけが、僅かに細められていた。
(……やはり。)
オルブライト商会を出てから、気配があった。
一人ではない、途中で何度か変わっている。
距離も取っている。
素人ではない。
だからこそ、すぐには気づかなかった。
(誰だ。)
アレン・ヴァルティエ。
その名が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
だが、決めつけるには早い。
そもそも、自分が監視されているのか、オルブライト商会が見られているのか、それすらまだ分からない。
「……。」
男は人混みへ紛れた。
誰が、何を、どこまで調べているのか確かめる必要がある。
◇
その夜。
ローラン侯爵家。
「見失った?」
「はい。」
報告を受けたヴィオレットが顔を上げる。
「どこで?」
構成員が地図の一点を示した。
「こちらです。角を曲がった直後、姿が消えました。」
「追いましたか?」
「いいえ。深追いはするなとのご指示でしたので。」
「それで結構です。」
ヴィオレットは地図へ目を落とした。
「偶然だと思いますか?」
「……何とも。」
構成員は少し考える。
「ただ。尾行に気づかれた可能性はあるかと。」
「理由は?」
「こちらを確認する仕草は一度もございませんでした。ですが、姿を消した場所が少々出来すぎています。」
「……そう。」
ヴィオレットは静かに目を細める。
相手がこちらに気づいた。
そう決まったわけではない。
けれど、その可能性がある以上、今までと同じように追うべきではない。
「刀傷の男への直接の尾行は、一度止めましょう。」
「よろしいのですか?」
「ええ。気づかれているかもしれない相手を追い続ければ、今度はこちらが探られます。」
「では。」
「オルブライト商会の監視は継続してください。ただし、配置を少し変えます。」
「承知いたしました。」
構成員が一礼し、部屋を後にする。
ヴィオレットは一人、机の上へ視線を落とした。
十五年前にも存在した焼き印。
現在も使われている東倉庫。
そこから伸びた、オルブライト商会。
そして新たに現れた、左頬に刀傷を持つ男。
「……。」
まだ、この男が何者なのか、どこへ繋がっているのか、何も分からない。
けれどもし、本当に尾行へ気づいていたのなら、こちらも、初めて相手の視界へ入ったことになる。
「……少し、慎重になった方がよさそうですね。」
ヴィオレットは、刀傷の男について記された紙へ目を落とした。
ローラン家は新しい足跡を見つけた。
だが、その足跡を追ったことで、こちらもまた僅かな痕跡を残したのかもしれない。
それがこの先、何を動かすことになるのか。
この時はまだ誰も知らなかった。




