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第49話  報告


 夜の帳が下り始めた頃。


 ヴァルティエ邸の執務室では、ランプの灯りが静かに揺れていた。


 アレンは机に向かい、領内から届いた報告書へ目を通している。


 コンコン。


 控えめなノックが響いた。


「アレン様。例の方がお見えです。」


 入ってきたリリアが一礼する。


 アレンは手を止めた。


「情報屋さんが?」


「はい。」


「分かった。通して。」


「かしこまりました。」


 リリアが一度退室し、ほどなくして、黒い外套を纏った人物が静かに入ってきた。


 深く被られたフード。


 顔は影に隠れ、表情までは見えない。


「夜分に失礼いたします。」


「構わないよ。来てくれてありがとう。座って話そう。」


「では、失礼いたします。」


 情報屋が向かいの椅子へ腰を下ろす。


 リリアは二人分の紅茶を置くと、一礼して部屋を後にした。


 扉が閉じる。


 残されたのは、アレンと情報屋としてここへ来たヴィオレットだけだった。


「調査に進展がありました。」


 ヴィオレットが外套の内側から、数枚の紙を取り出した。


 アレンの表情が引き締まる。


「聞かせて。」


「以前、東倉庫街で監視対象と接触した後、追跡中に見失った人物が再び姿を現しました。」


「前に包みを受け取ってた人?」


「はい。今回は一人で追わず、複数名で尾行を引き継ぎました。相手に気づかれた様子はございません。」


「それで、どこへ?」


「王都中央区の、オルブライト商会です。」


「……オルブライト商会。」


 アレンは小さく繰り返した。


 聞き覚えのある名前だった。


 王都でも名の知られた商会の一つ。


 穀物や織物を中心に扱い、ヴァルティエ領とも、わずかながら取引がある。


「その商会が関わってるの?」


「まだ、そう判断する段階ではございません。」


 ヴィオレットは即座に答えた。


「現時点で確認できたのは、その人物がオルブライト商会の裏口から出入りしたという事実だけです。商会の人間なのか。取引相手なのか。あるいは、誰かを訪ねただけなのか。それすら分かっておりません。」


「そっか。」


 アレンは素直に頷く。


「でも、調べる価値はある?」


「はい。」


 ヴィオレットは一枚の資料をアレンの前へ置いた。


「現在は、商会へ出入りする人物と荷の流れを調べています。扱っている商品。主要な取引先。所有している倉庫。使用している運送業者。それから、商会主と役員についても。」


「かなり調べるんだね。」


「名前が出たからといって、すぐに答えへ結びつけるわけにはまいりませんから。」


「……確かに。」


 アレンは資料へ目を落とした。


 十五年前にも、同じ焼き印が使われていた東倉庫街。


 現在も残る、同じ印。


 そこへ出入りする男。


 その男から包みを受け取った人物。


 そして、ようやく浮かび上がった、一つの商会名。


「オルブライト商会……。」


 まだ、何かが繋がったわけではない。


 けれど、これまで追ってきた相手には、名前がなかった。


 偽名を使った商人。


 身元の分からない人間。


 捕らえられるより死を選んだ刺客。


 その先に初めて、今の王都に存在する具体的な名前が出てきた。


「……ここまで調べてくれたんだね。」


 アレンが顔を上げる。


「ありがとう。」


 ふっと、その表情が柔らかくなった。


「……。」


 ヴィオレットの視線が止まる。


 アレンの笑顔なら、これまでにも何度か見ている。


 夜会で、王都で、女性へ向けて柔らかく微笑む姿も、相手の反応を窺うように、口元を緩める姿も、遊び人という噂さえ、自分を守るための仮面として利用してきた人だ。


 以前、ヴィオレットとして、その噂について話した時も。


『……で。ヴィオレットは、どう思う?』


 そう言って、こちらを試すように見つめてきた。


 あの時は、これなら、女性が放っておかないのも分かる。


 そんなことを思った。


 けれど今の笑顔は違う。


 誰かを惑わせるためでも、相手の反応を見るためでもない。


 ただ自分のために動いてくれた相手へ、素直に感謝しているだけ。


(……こちらの方が。)


 ヴィオレットはほんの僅かに目を伏せた。


(ずっと、素敵ですね。)


「……情報屋さん?」


 呼ばれ、ヴィオレットは顔を上げる。


「どうかした?」


「いいえ。失礼いたしました。」


「?」


 アレンが不思議そうに首を傾げる。


 ヴィオレットの声は、いつも通りだった。


 フードがあってよかった。


 そんなことをほんの一瞬だけ思った。


「もう一つ、お伝えしておきたいことがございます。」


「うん。」


「オルブライト商会は、表向きには特に問題のない商会です。貴族家との取引も多く、王都での信用もございます。」


「だから、下手に疑ってるって知られるわけにはいかない?」


「その通りです。」


 ヴィオレットは静かに頷いた。


「今までにも、こちらは何度か痕跡の先で糸を切られております。一度でも監視を悟られれば、オルブライト商会との繋がりが本当にあったとしても、消される可能性があります。」


「だから、今は見るだけ。」


「はい。誰が出入りし。何を運び。その荷がどこへ向かうのか。一つずつ確認いたします。」


「分かった。」


「ですから。」


 ヴィオレットは真っ直ぐアレンを見る。


「以前にも申し上げましたが、ご自身では動かないでください。それから、木札を調べていたあの女性にも。」


 アレンが一度、目を瞬かせた。


 アン、つまり、自分自身のことだ。


「分かってる。約束は守るよ。彼女にも、ちゃんと伝えてある。」


「そうですか。」


 ヴィオレットの声から、僅かに力が抜けた。


「それなら安心いたしました。」


「そんなに心配だった?」


「ええ。」


「……そっか。」


「相手が何者なのか分からない以上、用心するに越したことはございません。」


「うん。」


 アレンは迷いなく頷いた。


「じゃあ、任せる。」


「はい。」


「あなたを信じるよ。」


「……。」


 ヴィオレットの胸の奥へ、小さな熱が落ちた。


 情報屋として、依頼人から信頼される。


 それ自体は、珍しいことではない。


 依頼を受け、必要な情報を集め、結果を返す。


 そうやって、これまで何度も仕事をしてきた。


 信頼を得ることも、仕事の一部だ。


 だから今の言葉だって、本来なら、それだけのはずだった。


「……ありがとうございます。」


 けれど何故だろう。


 アレンに言われると、少しだけ違うもののように聞こえた。


「では、次の動きがありましたら、改めてご報告いたします。」


「お願いします。」


 ヴィオレットが立ち上がる。


 資料をまとめ、扉へ向かう。


「情報屋さん。」


 背後から呼び止められた。


 ヴィオレットが足を止める。


「何でしょう。」


「気をつけて。」


「……。」


 返事が、ほんの一瞬だけ遅れた。


 アレンは、こちらがどんな人間なのか知らない。


 顔も、名前も、素性も何一つ知らない。


 それでも、危険な相手を追っている自分を気遣ってくれた。


「はい。」


 フードの奥で、ヴィオレットは小さく微笑んだ。


「アレン卿も、どうかお気をつけください。」


「うん。」


 今度こそ、扉へ手を掛ける。


 その直前。


 ふと、ヴィオレットは思った。


 アレン・ヴァルティエ。


 世間では、酒と女性を好む遊び人。


 そう噂されている男。


 けれど実際に知っていくほど、噂とは違う顔ばかりが見えてくる。


 領民を守ろうとするところ。


 自分が危険でも前へ出るところ。


 誰かに助けられれば、素直に礼を言えるところ。


 そして顔も知らない情報屋にまで、気をつけて、と言えるところ。


(……本当に。)


 ヴィオレットは静かに扉を開く。


(噂というものは、当てになりませんね。)


 扉が閉じた。


     ◇


 一人になった執務室。


 アレンはしばらく、閉じた扉を見つめていた。


「……。」


 二度。


 アンとして動いていた自分を助けてくれた。


 そして今も、十五年前の真実を追っている。


 姿も、名前も、何一つ知らない。


 けれど。


「本当に、不思議な人だな。」


 アレンは小さく笑った。


 そして机の上へ視線を戻す。


 新しく加わった名前。


 ――オルブライト商会。


 十五年前。


 東倉庫街。


 木札の焼き印。


 まだ、一本の線にはならない。


 それでも少しずつ、具体的な形を持ち始めている。


 アレンは資料を手に取った。


 今は約束通り、自分から動くつもりはない。


 信じると決めたのだから。


 情報屋が、次の糸を手繰り寄せてくれるのを待つ。


 その情報屋が、何度も顔を合わせ、少しずつ距離を縮めているヴィオレット・ローラン本人であることなど、アレンはまだ知らなかった。


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