第5話 お礼
ヴァルティエ邸。
昼下がり。
執務室で書類に目を通していたアレンの元へ、執事がやってきた。
「アレン様。」
「どうしたの?」
「ローラン家のご令嬢がお見えです。」
アレンの手が止まる。
「……ヴィオレット嬢?」
「はい。」
時計を見る。
今日は誰かと会う予定など入っていない。
「珍しいね。」
アレンはペンを置いた。
「応接室へ案内して。」
「承知いたしました。」
◇
応接室へ入るとヴィオレットはすぐに立ち上がり、丁寧に一礼した。
「突然お訪ねしてしまい、申し訳ございません。」
「気にしないで。」
アレンは向かいの椅子へ腰を下ろす。
「今日はどうしたの?」
「先日の夜会の件で、改めてお詫びを申し上げたくて参りました。」
「手紙もくれたのに?」
「ええ。」
ヴィオレットが僅かに目を伏せる。
「ですが、やはり直接お伝えした方がよいかと思いまして。」
「腕を掴んだこと?」
「はい。」
「僕は全然気にしてないよ。」
「ですが、皆様の前で突然あのようなことを。」
「でも、あれで薬入りの酒を飲まずに済んだんでしょ?」
「……。」
アレンは少し考えてから、肩を竦めた。
「だったら、腕を掴まれたことよりそっちの方が大事だよ。」
ヴィオレットが一瞬、目を丸くする。
「僕は助けてもらった側なんだから。むしろ、僕の方がお礼を言わないと。」
「……そう仰っていただけると、安心いたします。」
ヴィオレットの表情が柔らかくなった。
「それに。」
「はい?」
「別に痛くなかったし。」
「……。」
「振りほどけなかったけど。」
ヴィオレットの笑みが僅かに固まる。
「あ。」
「……。」
「ごめん。今のは忘れて。」
「覚えていらしたのですね。」
「そりゃ覚えてるよ。」
「……失礼いたしました。」
「だから謝らなくていいって。」
アレンは苦笑した。
やっぱり本人も少し気にしているらしい。
それなら、これ以上触れない方がいいだろう。
ほどなくして。
リリアがお茶を運んできた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
ヴィオレットは丁寧に礼を言う。
そしてカップへ手を伸ばした。
その指先が僅かに震えた。
「……。」
アレンはそれを見て、少しだけ目を細める。
(やっぱり身体は弱いのかな。)
夜会で見た時も。
歩みはゆっくりだった。
侍女も常に近くに控えていた。
腕力のことは未だによく分からないけれど。
病弱という噂そのものが、全て嘘というわけでもないのかもしれない。
「無理して来なくても良かったのに。」
「いいえ。」
ヴィオレットは首を横に振った。
「どうしても、直接お伝えしたかったのです。」
「手紙だけでも十分だったよ。」
「それでも。」
ヴィオレットが柔らかく笑う。
「私が直接お伝えしたかったのです。」
「……そっか。」
そこまで言われると。
何も言えない。
「じゃあ、来てくれてありがとう。」
「はい。」
ヴィオレットが小さく微笑んだ。
真面目な人だ。
アレンはそう思う。
少なくとも王都で噂されている「社交界の花」という華やかな印象より。
実際に話してみると、ずっと落ち着いた人に見えた。
「そういえば。」
アレンが尋ねる。
「普段は夜会にあまり出ないって聞いたけど。」
「ええ。」
「やっぱり体調の問題?」
「そうですね。体調の良い日だけ、出席するようにしております。」
「先日の夜会も?」
「本当は、当日まで出席できるか分からなかったのですよ。」
「そうだったんだ。」
ヴィオレットは少し寂しそうに笑う。
「せっかく招待をいただいても、お断りすることの方が多くて。」
「それで滅多に姿を見せないって言われてるのか。」
「おそらくは。」
社交界の花。
その名は有名なのに、実際に会ったことがない者も多い。
そう聞いていた。
「大変だね。」
「慣れておりますので。」
「慣れてても、大変なものは大変でしょ。」
「……。」
ヴィオレットがアレンを見る。
「何?」
「いいえ。」
「何か変なこと言った?」
「そうではありません。」
ヴィオレットは少しだけ笑った。
「アレン卿は、お優しいのですね。」
「普通だと思うけど。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
アレンは本気でそう思っている。
身体が弱いなら無理をしない方がいい。
ただそれだけの話だ。
その時。
ヴィオレットがカップを置こうとした瞬間。
「っ……。」
身体が僅かに傾いた。
「大丈夫?」
アレンは反射的に立ち上がった。
「申し訳ございません。」
ヴィオレットが椅子の背へ手を添える。
「少し、立ちくらみが。」
「横になる?」
「いいえ。少し休めば。」
「本当に?」
「ええ。」
アレンは困ったように眉を寄せる。
「医者、呼ぼうか?」
「そこまでではございません。」
「でも。」
「大丈夫です。」
ヴィオレットが微笑んだ。
「本当に?」
「はい。」
「無理してない?」
「しておりません。」
「ならいいけど……。」
アレンはすぐには座らなかった。
ヴィオレットの顔色を確認するように見ている。
「……。」
「ヴィオレット嬢?」
「何でしょう?」
「やっぱり医者呼ぶ?」
「ふふ。」
「何で笑うの。」
「いいえ。」
ヴィオレットは口元へ手を添えた。
「本当に、お優しい方なのだと思いまして。」
「だから普通だって。」
「それでしたら。」
ヴィオレットは楽しそうに目を細める。
「アレン卿の『普通』は、随分とお優しいのですね。」
「……そう?」
「ええ。」
よく分からない。
アレンは首を傾げながら、ようやく椅子へ戻った。
◇
しばらく休んだあと、ヴィオレットは帰ることになった。
アレンは玄関まで見送りに出る。
「今日はありがとう。」
「こちらこそ。突然お伺いしたにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございました。」
「気にしなくていいよ。」
馬車の扉が開く。
ヴィオレットは乗り込む前に、一度振り返った。
「アレン卿。」
「何?」
「また、お会いできますか?」
「もちろん。」
アレンは特に考えることもなく答えた。
ヴィオレットの瞳が僅かに細められる。
「今度は。」
「うん?」
「もう少し体調の良い日にお伺いいたしますね。」
「そうして。今日みたいに立ちくらみ起こしたら心配だから。」
「……はい。」
ヴィオレットが微笑む。
「では、また。」
「うん。また。」
馬車がゆっくりと走り出す。
アレンはその姿が門の向こうへ消えるまで見送っていた。
「……。」
少しして。
「アレン様。」
「何?」
後ろにいたリリアが声を掛ける。
「随分と丁寧にお見送りになるのですね。」
「客人なんだから普通でしょ。」
「左様でございますか。」
「またその顔。」
「何も。」
「絶対何か思ってる。」
アレンは小さくため息をつき、屋敷へ戻っていった。
◇
一方。
ローラン家へ向かう馬車の中。
ヴィオレットは窓の外へ視線を向けていた。
先ほどまで浮かべていた儚げな微笑みが、ほんの少しだけ薄れる。
(……やはり。)
夜会で感じた違和感は、今日さらに強くなった。
女好き。
酒好き。
毎晩のように女性を屋敷へ連れ込む遊び人。
それが、王都で知られているアレン・ヴァルティエの姿だ。
けれど今日のアレンは、ヴィオレットが一人で屋敷を訪ねても。
妙な言葉を掛けることも。
距離を詰めることもなかった。
身体に触れたのも、立ちくらみを起こした時。
支えようと手を伸ばしかけただけ。
それすらヴィオレットが自分で身体を支えると分かれば、すぐに止めている。
視線も。
態度も。
ただの客人に向けるものだった。
(噂とは、随分違いますわね。)
もちろん。
だからといって、すぐに何かを決めつけるつもりはない。
人は外で見せる顔と、屋敷で見せる顔が違うこともある。
アレンも、女性によって態度を変えるのかもしれない。
まだ知り合って間もない相手だ。
分からないことの方が多い。
ただ。
「ますます、気になりますわ。」
ヴィオレットは小さく笑った。
噂の遊び人領主。
けれど実際に会うほど、その噂とは少しずつ違って見える。
アレン・ヴァルティエ。
どうやら簡単には分からない人らしい。




