第45話 情報屋の忠告
数日後。
夜も更けた頃。
ヴァルティエ邸の執務室では、アレンが一人、書類へ目を通していた。
昼間の仕事はすでに終えている。
それでも眠る気にはなれず、机の端には、十五年前の記録について書き出した紙が置かれたままだった。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「アレン様。」
「どうぞ。」
入ってきた執事が一礼した。
「王都より、お客様がお見えです。」
「こんな時間に?」
「はい。いつもの印をお持ちの、情報屋の方です。」
「……本人が?」
「はい。」
アレンは思わず姿勢を正した。
これまで情報屋とのやり取りは、ほとんど書簡だった。
直接顔を合わせたことはない。
まして、わざわざ王都からヴァルティエ邸まで訪ねてくるなど、初めてのことだった。
「通して。」
「かしこまりました。」
ほどなくして、扉が静かに開いた。
「夜分に失礼いたします。」
入ってきたのは、黒い外套を纏った人物だった。
深く被られたフード。
その奥にある顔は、影に隠れて見えない。
声も本来のものとは分からない程度に、低く抑えられている。
「構いません。どうぞ。」
アレンが向かいの椅子を示す。
黒衣の人物は一礼して腰を下ろした。
「今回は、書簡ではないんですね。」
「はい。直接お伝えした方がよいと判断いたしました。」
情報屋は懐へ手を入れた。
取り出した一枚の紙を、机の上へ置く。
「……焼き印。」
木札に残されていたもの、その写しだった。
「何か分かったんですか?」
「新しい痕跡を見つけました。」
アレンの表情が変わる。
「十五年前の記録からです。」
「……十五年前?」
「はい。」
情報屋は静かに続けた。
「王都の東倉庫街。現在、こちらが監視している倉庫と同じ場所が、十五年前にも使用されていたことが確認できました。」
「同じ倉庫が……。」
「そして。当時の荷の管理記録に、こちらと同じ印が残されています。」
「――」
アレンが身を乗り出した。
「じゃあ、やっぱり父上と母上の事故に――」
「まだ、そこまでは申し上げられません。」
静かな声が遮る。
アレンは言葉を止めた。
「……そうですね。」
「同じ時期に、同じ印が使われていた。それだけでは、ヴァルティエ夫妻の事故との直接的な関係までは証明できません。」
「分かってます。」
そう答えながら。
アレンは小さく息を吐いた。
「……十五年前って聞いて、ちょっと先走りました。」
「お気持ちは理解しております。」
責める声音ではなかった。
「ただし。無関係と考えるにも、不自然な点がございます。」
「同じ倉庫だから?」
「それもございます。」
情報屋はもう一枚、紙を取り出した。
「十五年前、その倉庫を使用していた者の名が記されていたと思われる頁だけが、帳簿から切り取られていました。」
「……切り取られていた?」
「はい。自然に失われたものではありません。ただ、いつ、誰が行ったものかまでは分かっておりません。」
アレンは黙った。
同じ焼き印。
同じ倉庫。
そして失われた使用者の記録。
まだ証拠にはならない。
けれど。
「偶然って言うには、ちょっと多いね。」
「私も同意見です。」
「今は?」
「倉庫へは接触せず、監視を続けています。」
「踏み込まないんですか?」
「倉庫そのものを押さえることが目的ではありませんので。」
黒いフードの奥から、視線がアレンへ向けられる。
「知りたいのは、荷がどこから来て、どこへ渡り、その先で誰に辿り着くのかです。」
「……なるほど。」
末端を捕まえても、そこで糸を切られる。
王都で捕らえた刺客が、自ら毒を噛んだように。
「その方がいいと思います。」
「ありがとうございます。」
「引き続き、お願いします。」
「承知いたしました。」
そこで情報屋は僅かに間を置いた。
「今夜こちらへ伺ったのは、その報告だけが理由ではございません。」
「……?」
アレンが顔を上げる。
「もう一つ、お伝えしたいことがございます。」
「何でしょう。」
「以前、王都で焼き印について調べていた女性をご存じですね。」
「――」
ほんの一瞬、アレンの鼓動が跳ねた。
アン。
あの姿で聞き込みをしていたことだ。
「……ええ。」
否定する必要はないと判断する。
「僕の関係者です。」
「やはり、そうでしたか。」
淡々とした返事だった。
「その方へ、お伝えいただけますか。」
「何を?」
「しばらく、焼き印の調査から離れるように、と。」
アレンの目が僅かに細くなる。
「理由を伺っても?」
「危険だからです。」
即答だった。
「こちらが追っている相手は、すでに周囲を警戒しています。今後、さらに強い手段へ出る可能性もございます。」
アレンは黙って聞く。
「その女性は、王都で焼き印について聞いて回っていました。」
「ええ。」
「その結果、一度尾行されています。」
知っている。
自分のことだから。
「そして。」
情報屋の声が少しだけ低くなる。
「命も狙われました。」
「……。」
「ですから。今は、こちらへ任せていただきたいのです。」
アレンは少し考えた。
自分が狙われたことだけなら、まだ動くつもりだったかもしれない。
けれど同じ時期、ヴァルティエ邸にも侵入者が現れ、リリアまで傷を負った。
「……分かりました。」
「ありがとうございます。」
「その人には、しばらく動かないように言っておきます。」
自分自身へ言うことになるのだが、そこは口にしない。
するとふと、一つ引っ掛かった。
「……その女性を、ご存じなんですね。」
「面識はございます。」
「どこで?」
「王都で。」
簡潔な返事。
「焼き印を追っていたため、依頼人であるあなたの関係者ではないかと考えておりました。」
「それだけ?」
「それだけではございません。」
一拍。
「以前、二度ほど危険な場面に居合わせましたので。」
「……二度?」
アレンの表情が止まった。
頭の中で、記憶が繋がる。
王都の裏路地。
何者かに尾行されていた時。
『こちらへ』
突然現れ、裏道を迷いなく進み、自分を逃がした黒衣の人物。
そして、四人の刺客に襲われた夜。
『左です』
危機へ飛び込み、自分と並んで戦った人物。
「……。」
アレンは改めて、目の前の情報屋を見る。
黒い外套。
深いフード。
低く作られた声。
それだけなら、似たような格好の人間はいくらでもいる。
けれど二度、自分が危険に陥った場面へ介入した。
そこまで一致する人物は、一人しかいない。
「……あなただったんですね。」
情報屋が僅かに顔を上げる。
「あの人を、二度助けてくださったのは。」
短い沈黙。
「……仕事の範囲です。」
「でも、依頼は情報の調査だけだったでしょう?」
「依頼に関係する方が目の前で危険に晒されていても、見捨てるほど薄情ではありませんので。」
「……。」
その言葉にも覚えがあった。
『困っている方を見捨てる趣味はありませんので』
やっぱり同じ人だ。
アレンの口元が、少しだけ緩む。
「そうですか。」
それ以上は聞かなかった。
名前も、顔も、相手が明かさないのなら、無理に暴くつもりはない。
自分だって、アレン、アン、レイ。
いくつもの顔を使い分けているのだから。
「忠告は必ず伝えます。」
「お願いいたします。」
情報屋が立ち上がる。
「東倉庫街については、このままこちらで追います。動きがあり次第、ご報告いたします。」
「分かりました。」
「では。」
黒衣の人物が扉へ向かう。
その途中、ふと足を止めた。
扉へ手を掛ける前に、僅かに耳を澄ませ、廊下の気配を確認する。
「……。」
その仕草も、見たことがあった。
あの夜、アンを逃がした時にも同じように、次の道へ進む前に、人の気配を確認していた。
「それでは、失礼いたします。」
「あ。」
思わず声が出る。
情報屋が振り返った。
「何でしょう。」
「……。」
アレンは少し迷った。
それから、小さく笑う。
「ありがとうございました。」
「……何がでしょう。」
「あの人を二度も助けてくれたこと。」
ほんの僅かに、フードの奥の空気が変わった。
「本人じゃない僕が言うのも変かもしれないけど。」
「……。」
「でも、僕の大切な関係者なので。」
それは嘘ではない。
アンも自分なのだから。
「本当に、ありがとうございました。」
数秒、沈黙が流れた。
やがて。
「……どういたしまして。」
短い返事、それだけを残し、情報屋は今度こそ部屋を出ていった。
◇
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
アレンはしばらく、その扉を見つめていた。
「……不思議な人だな。」
顔も知らない、名前も知らない、本当の声さえ知らない。
けれど王都で、自分を二度も助けてくれた人。
そして今は、十五年前の真実を、自分と同じように追っている。
アレンは机へ視線を戻した。
十五年前。
同じ焼き印。
同じ倉庫。
切り取られた使用者の記録。
一つ、また一つ。
断片だったものが増えている。
まだ答えにはならない。
けれど、十五年前と現在を隔てていた距離は確実に、縮まり始めていた。




