第42話 もう一人の調査者
ローラン侯爵家。
夜会を終えた翌日、ヴィオレットは自室の机へ、数枚の資料を並べていた。
十五年前のヴァルティエ夫妻の馬車事故。
酒瓶の底に刻まれていた印。
木札の焼き印。
東倉庫街で追っている荷の流れ。
どれも、アレン・ヴァルティエから依頼を受けて調べているものだ。
けれど今、ヴィオレットが見つめているのは、それらではなかった。
一枚の白い紙。
そこへ羽ペンを走らせる。
――レイ・ヴァルティエ。
少し間を空け、その下へ、もう一つ。
――アン。
「……。」
二つの名前を見つめる。
最初に出会った時。
二人は、まるで違う女性に見えた。
アンは腰まで流れる黒髪に、黒に近い藍色の瞳。
王都へ一人でやってきた旅人。
レイは茶色の髪に、華やかな化粧。
ワインレッドのドレスを纏った、ヴァルティエ家の遠縁。
服装も。
髪も。
瞳も。
纏う雰囲気さえ違う。
けれど。
「一つずつなら、偶然で済ませられましたけれど……。」
ヴィオレットは羽ペンを置いた。
思い返す。
アンと初めて茶を飲んだ時、黒髪を耳へ掛けた、その向こうにあった小さな黒子。
後日、市場で見かけたレイにも、まったく同じ位置に、同じ黒子があった。
それだけではない。
アンの手。
親指の付け根。
指に残った、武器を長年扱ってきた者特有の痕。
レイの手にも、同じものがあった。
人混みの中を歩く時、荷車や人が近づいた瞬間に、無意識に半歩だけ身体をずらす癖。
周囲へ視線を配りながら、決して不自然には見せない歩き方。
それも、二人はよく似ていた。
「そして……。」
ヴィオレットの脳裏に、昨夜の会話が蘇る。
『僕――……私から見れば、ヴィオレット様の方がお上手ですもの』
ほんの一瞬。
レイが口にした一人称。
――僕。
それを聞いたのは、初めてではない。
アンと茶を飲んだ時にも。
『僕――……私は、甘すぎないものなら』
そう言いかけていた。
あの時は、少し変わった一人称を使う癖があるのかもしれない。
その程度にしか思わなかった。
けれど、あの夜。
アンが四人の刺客に襲われた時、黒衣に身を隠し正体を伏せて助けた自分の前で、アンは確かに言っていた。
『僕が持ってるものが欲しいなら、話し合うくらいはしてもいいんだけど』
そして。
『僕も、剣には少し自信があるんだ』
命を狙われ、剣を抜いたあの場面で。
アンは一度も一人称を取り繕わなかった。
ならば、あれこそが、アン本来の話し方なのだろう。
「……レイ様も、同じ。」
黒子。
手。
身体の使い方。
そして気を抜いた時に零れる一人称。
さらに、もう一つ。
アンが王都を離れる直前、彼女の宿へ現れた男。
外套の内側にはヴァルティエ家の紋章があった。
アンは、確実にヴァルティエ家と繋がっている。
一方。
レイは、レイ・ヴァルティエと名乗っている。
「……。」
ヴィオレットは二つの名前を見る。
違うものは、変えられるものばかりだった。
髪。
瞳。
化粧。
服装。
声や雰囲気すら、訓練すれば変えることはできる。
それは、ヴィオレット自身が誰よりよく知っている。
病弱な侯爵令嬢を演じ、黒衣を纏えば、声まで変えて別人になる。
ならば同じことを他人がしていても、何ら不思議ではない。
むしろ、変えられないものばかりが、二人の間で一致していた。
「それに。」
アンが王都にいた間、レイの姿を見た者はいない。
アンが王都を去った後、今度はレイが現れた。
二人が同時に同じ場所へいたことも、一度もない。
一つなら偶然。
二つなら、よく似た者同士で済ませられる。
けれどここまで揃ったものを、すべて偶然だと考える方が、よほど不自然だった。
ヴィオレットは羽ペンを取った。
そして、アン、レイ・ヴァルティエ。
二つの名前を、一本の線で結ぶ。
「……やっぱり。」
迷いはなかった。
「アンさんとレイ様は、同じ方ですわね。」
声に出してみると、驚きよりも、納得の方が大きかった。
散らばっていた違和感が、ようやく一つの形へ収まったような感覚。
「随分と器用な方ですこと。」
思わず、小さく笑う。
あの黒髪も、旅人という身分も、おそらくは偽り。
だから、アンは家名を明かさなかったのだろう。
では何故、レイ・ヴァルティエという身分を持つ女性が、わざわざアンという別人になり、危険を冒してまで木札を追っていたのか。
「……。」
ヴィオレットの視線が、別の紙へ移った。
そこに記されている名前。
アレン・ヴァルティエ。
自分へ十五年前の事故について調査を依頼した若き領主。
「アレン卿……。」
アレンが追っているものと、アン――レイが追っているものは同じだった。
酒瓶。
灰色亭。
木札。
焼き印。
偶然とは考えにくい。
「やはり、お二人には何か繋がりがある。」
ヴィオレットは羽ペンの先を。
アレンの名前へ向ける。
アレンがレイへ調査を命じているのか。
レイが自ら協力しているのか。
あるいは、ヴァルティエ家の中で別の役割を担っているのか。
分からない。
アレンと、どのような関係にあるのか。
「もう一人の調査者……。」
ヴィオレットは小さく呟いた。
奇妙な感覚だった。
顔も素性も知らなかった頃から、何度も道が交わっている。
自分が木札を調べれば、彼女も木札を追っていた。
自分が刺客を追えば、その刺客が狙っていたのも彼女だった。
同じ事件を、別々の場所から追っている。
それなのに互いにどこまで知っているのかさえ知らない。
◇
コン、コン、コン。
一定の間隔で。
扉が三度叩かれた。
「入りなさい。」
入室したのは、執事姿の青年だった。
「報告です。」
「聞きましょう。」
「東倉庫街の監視ですが、今のところ大きな変化はありません。」
「例の男は?」
「これまでと同じです。決まった時間に現れ、荷を受け取った後、短時間で立ち去っております。」
「接触は?」
「しておりません。」
「それで結構です。」
ヴィオレットは迷わず答えた。
あの男を捕らえるつもりはない。
末端を一人押さえたところで、またその先へ続く糸を切られるだけだ。
「欲しいのは、あの方ではありません。誰から指示を受け、誰へ荷を渡し、その先で誰が待っているのか。見るべきなのは、そちらです。」
「監視を継続いたします。」
「ええ。相手に気付かれないことを最優先にしてください。」
「承知いたしました。」
青年は一礼し部屋を後にした。
再び、静寂が戻る。
ヴィオレットは机へ視線を落とした。
十五年前の事故。
酒瓶の印。
木札の焼き印。
東倉庫街。
アレン・ヴァルティエ。
そして一本の線で結ばれた二つの名前。
アン。
レイ・ヴァルティエ。
もう迷う必要はない。
「アンさん。」
ヴィオレットは僅かに笑う。
「いえ。」
線の先、もう一つの名前を見る。
「レイ様、とお呼びした方がよろしいのでしょうか。」
もちろん、本人へ尋ねるつもりはない。
彼女が二つの顔を使い分けるのには、何か理由があるのだろう。
話すつもりがないのなら、無理に暴く必要もない。
今のところ、同じ真実を追っているのだから。
「いずれ。」
ヴィオレットは資料を重ねた。
「ご自分から教えてくださる日が来るかもしれませんね。」
そして、最後にアレンの名前へ視線を落とす。
アン――レイと。
アレン・ヴァルティエ。
この二人の間に何があるのか、それだけは、まだ見えない。
まして同じ夜会で、二人を別々に目にしたヴィオレットがその線を一本に重ねるはずもなかった。
同じ真実を追う、もう一人の調査者。
その本当の正体が、自分へ調査を依頼した本人であることにはまだ、気付かないまま。




