第39話 月下の語らい
夜会の喧騒から少し離れた回廊。
開かれた窓から入り込む夜風が、レイ・ヴァルティエの茶色の髪を優しく揺らしていた。
大広間では今も楽団の演奏が続いている。
少しだけ人の多さに疲れたレイは、グラスを片手に夜の庭園を眺めていた。
「レイ様。」
聞き覚えのある声に、振り返る。
淡い藤色のドレスを纏ったヴィオレットが、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「こんばんは、ヴィオレット様。」
レイは優雅に一礼する。
「先ほどはゆっくりお話しできませんでしたので、ご挨拶だけでもと思いまして。」
「ありがとうございます。」
ヴィオレットは胸元へ手を添え、小さく頭を下げた。
「今夜はお加減がよろしいのですね。」
「ええ。今日は比較的調子が良くて。最後まで参加できそうです。」
「それは何よりです。」
レイは柔らかく微笑んだ。
ヴィオレット・ローラン。
社交界の花と呼ばれる侯爵令嬢。
そして、生まれつき身体が弱く、夜会へ姿を見せることも少ない女性。
「少しだけ、夜風に当たりませんか?」
「ええ。喜んで。」
二人は並んで、庭園へ続く回廊を歩き始めた。
◇
季節の花。
王都で流行している菓子。
最近開かれた音楽会。
他愛のない話ばかりだった。
それでも、不思議と会話は途切れない。
「レイ様は、お話を聞くのがお上手ですね。」
「そうでしょうか?」
「ええ。先ほども、皆様とても楽しそうにお話しされていました。」
レイは少し照れたように笑った。
「私は質問を一つ二つするだけですわ。」
「その一つ二つが難しいのです。相手が話したいと思っていることを見つけるのは、簡単なことではありませんもの。」
「ヴィオレット様にそう仰っていただけるとは思いませんでした。」
「あら。どうしてです?」
「僕――」
一瞬、言葉が止まった。
「……私から見れば、ヴィオレット様の方がお上手ですもの。」
「……。」
ヴィオレットは微笑みを崩さなかった。
けれどレイを見る紫色の瞳が、ほんの僅かに細くなる。
(……僕。)
その一人称を、ヴィオレットは以前にも聞いている。
黒髪の旅人、アン。
二人で紅茶を飲んだ時。
『僕――……私は、甘すぎないものなら』
そう言いかけていた。
そして黒衣に身を隠し、四人の刺客に襲われたアンを助けた夜。
『僕が持ってるものが欲しいなら、話し合うくらいはしてもいいんだけど』
『僕も、剣には少し自信があるんだ』
あの時のアンは、自分を「僕」と呼ぶことを隠していなかった。
おそらくあれが本来の一人称なのだろう。
そして今、目の前のレイも気を抜いた一瞬に、同じ言葉を口にした。
「まあ。お上手ですこと。」
「本当のことですわ。」
レイは何事もなかったように微笑んだ。
ヴィオレットも、それ以上は触れなかった。
今ここで問いただす必要はない。
ただ、覚えておけばいい。
また一つ、アンとレイを繋ぐものが増えたことを。
◇
一方。
レイは、ヴィオレットが何を考えているのかなど知る由もなかった。
(ヴィオレット嬢と話していると、妙に楽なんだよな。)
理由が少し分かった気がする。
相手の言葉を急かさない。
沈黙が生まれても、無理に埋めようとしない。
それでいて、こちらが話せば、自然に続きを促してくれる。
先ほど大広間で見ていた時もそうだった。
ヴィオレットは自分から多くを話していない。
僅かに問いを挟むだけで、相手が楽しそうに話し続けていた。
(だから話しやすいのか。)
社交界の花と呼ばれるだけのことはある。
「レイ様は、王都にはあまりいらっしゃらないのですよね?」
「ええ。普段は領地で過ごしておりますの。」
「では、夜会へいらっしゃるのも?」
「滅多にありませんわ。こういう場所は、少し緊張してしまって。」
「まあ。」
ヴィオレットが楽しそうに笑う。
「とてもそのようには見えませんでした。」
「必死に隠しておりますもの。」
「では、秘密にしておきます。」
「お願いいたします。」
二人で小さく笑う。
大広間で交わす社交辞令とは違う、どこか肩の力が抜けるような会話だった。
その時。
「……こほっ。」
ヴィオレットが小さく咳き込んだ。
「ヴィオレット様?」
「申し訳ありません。少し風に当たり過ぎたようです。」
口元へ手を添え、僅かに苦しそうに息を整える。
レイはすぐに足を止めた。
「中へ戻りましょう。」
「ですが――」
「無理はなさらないでください。」
ヴィオレットが目を瞬かせる。
「せっかく、こうしてお話しできましたのに。」
「また機会はあります。」
レイは柔らかく笑った。
「夜会は今日だけではありませんから。」
「……そうですわね。」
ヴィオレットも微笑む。
「では、その時を楽しみにしております。」
「私も。」
ほどなくして、少し離れたところで控えていた侍女が近づいてきた。
「お嬢様。」
「少し身体が冷えてしまったようです。」
「では、中へ参りましょう。」
「ええ。」
ヴィオレットはレイへ向き直る。
「レイ様。今夜はありがとうございました。」
「こちらこそ。お話しできて楽しかったですわ。」
「また、お話しいたしましょう。」
「ぜひ。」
互いに一礼する。
侍女に付き添われ、ヴィオレットは大広間へ戻っていった。
回廊を歩きながら、ヴィオレットは、先ほどの会話を思い返していた。
『僕――……私から見れば、ヴィオレット様の方がお上手ですもの』
「……。」
それだけではない。
数日前、市場で見かけたレイ。
武器を長く扱ってきた者に残る手の痕。
耳の後ろにあった、小さな黒子。
人混みを避ける時の身体の使い方。
どれもアンを思い出させるものだった。
さらに、アンのもとを訪ねた男はヴァルティエ家の紋章を身につけていた。
そしてレイは、ヴァルティエの名を持っている。
「……。」
ヴィオレットは足を止めず、ほんの僅かに目を伏せた。
(アンさんと、レイ様……。)
一つなら偶然で済ませられる。
だが、偶然にしては、少しずつ重なり過ぎている。
「お嬢様?」
侍女が隣から声を掛ける。
「何でもありません。」
ヴィオレットはいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「少し、考え事をしていただけです。」
「レイ様についてですか?」
「……どうしてそう思うのです?」
「随分と楽しそうにお話しされておりましたので。」
「まあ。」
ヴィオレットは小さく笑った。
「ええ。とても興味深い方でしたわ。」
「興味深い、ですか。」
「それに。」
ヴィオレットは一度だけ振り返った。
回廊の向こう、月明かりの下に、茶色の髪を風に揺らすレイの姿が見える。
「不思議と、初めてお話しした気がしないのです。」
「……?」
「何でもありません。」
ヴィオレットは再び前を向いた。
今は、それでいい。
答えを急ぐ必要はなかった。
◇
一人残されたレイは、夜空を見上げていた。
「……大丈夫かな。」
病弱だとは聞いていた。
本人は慣れているのかもしれない。
それでも、苦しそうな姿を見れば気にはなる。
(ヴィオレット嬢も無理をする人なんだな。)
そう思って。
ふと、自分のことを思い返す。
アンとして王都へ入り、木札について聞き回り、尾行され、挙げ句の果てには、四人もの刺客に命を狙われた。
領地へ戻った後も、こうして別の姿で、また王都へ来ている。
「……。」
少し考えて、苦笑した。
(僕も人のこと言えないか。)
リリアに聞かれれば、間違いなく同じことを言われるだろう。
「さて。」
レイは表情を切り替えた。
今夜ここへ来た目的は、夜会を楽しむためだけではない。
東倉庫街。
商人の流れ。
酒瓶と木札。
まだ拾える情報はあるはずだ。
レイは再び令嬢らしい柔らかな微笑みを浮かべる。
そして煌びやかな夜会の中へ戻っていった。
その背中を少し離れた場所から、一人の男が見ていた。
レオンハルト・アルマダ・ラミレス。
「……。」
彼は何も言わず、ただレイ・ヴァルティエという、これまでほとんど社交界へ姿を見せなかった令嬢を、静かに目で追っていた。




