第37話 仮面の舞踏会
煌びやかなシャンデリアが、大広間を照らしていた。
王家主催の夜会。
楽団の奏でる音楽が流れ、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑している。
その中を、一人の茶髪の令嬢が優雅に歩いていた。
柔らかな茶色の髪、深いワインレッドのドレス。
唇には、普段より少し濃い紅。
華やかな化粧を施し、穏やかな微笑みを浮かべる姿は、どこから見ても一人の若い令嬢だった。
レイ・ヴァルティエ。
ヴァルティエ家の遠縁として、社交界に名を置く女性。
普段は地方で暮らしており、王都へ姿を見せることは少ない。
そして、その正体を知る者は、ヴァルティエ家の中でも限られている。
今、レイとしてこの場所に立っているのは、アレン本人だった。
「レイ様、お久しぶりでございます。」
声を掛けられ、アレンは柔らかく微笑んだ。
「まあ。覚えていてくださったのですね。」
「もちろんですとも。王都へいらっしゃることは珍しいですから。」
「ふふっ。ですから今夜は、とても楽しみにしておりましたの。」
普段より少し高く、柔らかな声。
幼い頃から身につけている淑女としての所作。
背筋。
指先。
微笑む角度。
歩幅さえ。
普段のアレン・ヴァルティエとは異なる。
相手は何の疑いも抱かず、楽しそうに話を続けていた。
(無事に入れたね。)
アレンは笑みを崩さないまま、会場へ視線を巡らせる。
その瞬間、数日前のリリアとの会話が脳裏をよぎった。
◇
「王都で夜会が開かれます。」
リリアが一通の封書を机へ置いた。
「主催は王家です。」
アレンは封を開き、中へ目を通した。
「僕宛てか。」
「はい。」
領主アレン・ヴァルティエへ届いた、正式な招待状。
「私がアレン様として出席いたします。」
「お願い。」
答えながらも、アレンは招待状を置かなかった。
「……僕も行こうかな。」
「アレン様も?」
「うん。」
リリアが僅かに目を瞬かせる。
「アンとしては、もう動けない。」
王都で木札について聞き回った結果、アンは何者かに命を狙われた。
逃げた刺客もいる。
相手が今もアンの行方を探している可能性は高い。
同じ姿で王都へ戻れば、再び狙われるだけではなく、こちらがまだ調査を続けていることまで知られてしまう。
「だから、別の顔を使う。」
リリアにもすぐに分かったらしい。
「レイ様ですね。」
「うん。」
レイ・ヴァルティエ。
ヴァルティエ家の遠縁という身分を持つ、アレンのもう一つの顔。
「リリアはアレンとして夜会へ出て。僕はレイとして入る。」
「承知しました。」
「同じ場所にアレンとレイがいれば、二人を結びつける人もいないだろうしね。」
「ですが。」
リリアがアレンを見る。
「夜会で木札を取り出すようなことは、絶対になさらないでください。」
「流石にしないよ。」
「本当に?」
「……信用ないなあ。」
「王都で暗殺されかけたばかりの方がおっしゃっても、説得力がございません。」
「今回は話を聞くだけ。」
アレンは苦笑しながら、招待状を机へ戻した。
「王家主催なら、王都の古い事情を知っている家も来る。東倉庫街について、何か拾えるかもしれない。」
「それでしたら。」
リリアは少し考え。
「私も、アレン様として不自然にならない範囲で探ってみます。」
「お願い。でも、無茶はしないでね。」
「それは私の台詞です。」
「……。」
「何か?」
「いや。何でもない。」
アレンは小さく笑った。
◇
楽団の音色が耳へ戻ってくる。
レイはグラスを手に、会場を歩いていた。
今夜の目的は、木札そのものを追うことではない。
もっと遠いところから、相手に警戒されないように情報を拾う。
「レイ嬢は、王都にはあまりいらっしゃらないそうですね。」
一人の貴族が声を掛けてきた。
「ええ。ですから、こうして皆様のお話を伺うのが楽しくて。」
「それでしたら、何でもお尋ねください。」
「まあ。頼もしいですわね。」
嬉しそうに笑う。
「王都も、以前とは随分変わったのでしょう?」
「ええ。中央区などは、この十年ほどで随分と変わりましたよ。」
「まあ。それでは、街並みも?」
「新しい商館も増えましたし、道も整備されました。」
「素敵ですわね。倉庫街の辺りも?」
何気なく、会話の中へ混ぜる。
男は少し考えた。
「いや。東側は昔とあまり変わりませんな。」
「そうなのですか?」
「古い倉庫の多い場所ですから。ご令嬢が足を運ばれるようなところでもありませんよ。」
「まあ。そうですの?」
レイはくすりと笑った。
それ以上は尋ねない。
男も気に留めた様子はなく、別の話を始める。
(昔とあまり変わってない……か。)
それだけで、何かが分かるわけではない。
十五年前の事件と関係があるかどうかも不明だ。
◇
その頃。
会場の反対側では、一人の青年が、令嬢たちに囲まれていた。
「アレン様、今夜こそ私と踊ってくださいませ。」
「まあ、抜け駆けはずるいですわ。」
「順番でしたら、私が先ではなくて?」
アレン・ヴァルティエ。
そう呼ばれた青年は、困ったように笑った。
「これは参ったな。僕は一人しかいないんだけど。」
低く落ち着いた声。
穏やかな笑み。
グラスを持つ手。
令嬢たちとの距離。
どこから見ても、若き領主、アレン・ヴァルティエだった。
けれど、その正体はリリアだ。
長くアレンの傍に仕え、歩き方。
声。
表情。
仕草。
細かな癖まで覚え込んできた影武者。
「でしたら、一曲だけでも。」
一人の令嬢が期待するように手を差し出す。
「……。」
リリアは一瞬だけ考え、柔らかく微笑んだ。
「では、一曲だけ。」
「本当ですの?」
「もちろん。」
令嬢の表情が明るくなる。
リリアはその手を取り、二人で広間の中央へ向かった。
少し離れたところから、レイとして振る舞うアレンも、その様子を確認していた。
(……踊るんだ。)
思わず、心の中で呟く。
自分なら、おそらく断っていた。
女好き。
遊び人。
そんな噂を利用してはいるが、実際の夜会では、特定の令嬢と親しくなり過ぎないよう気をつけている。
『申し訳ない。今日は先約があってね。』
そう言って、相手の機嫌を損ねない程度に躱すのが、いつものやり方だった。
(まあ、一曲くらいならいいか。)
何より、周囲の誰も疑っていない。
令嬢たちから見れば、今夜のアレンは、いつもより少し機嫌がいい。
その程度だろう。
レイは何事もなかったように、別の貴族へ微笑みかけた。
◇
しばらくして。
ヴィオレットも会場へ姿を見せた。
侍女に付き添われ、ゆっくりと広間を歩いている。
「ローラン嬢。」
「ご機嫌よう。」
「今夜はお加減がよろしいのですね。」
「ええ。せっかく王家からお招きいただきましたので、少しだけ。」
柔らかな微笑み。
儚げな声。
誰が見ても、病弱ながら、体調の良い日に夜会へ姿を見せた侯爵令嬢だった。
挨拶を交わしながら、ヴィオレットは何気なく会場へ目を向ける。
「……。」
視線が止まった。
茶色の髪、深いワインレッドのドレス。
数日前、市場で見かけた女性だった。
(あの方……。)
ヴィオレットは自然に目で追う。
市場で見た時から、少し気になっていた。
剣を扱う者に見られる手。
耳の後ろにある小さな黒子。
人混みの中での身体の使い方。
そして、どこかアンを思い出させる仕草。
だが、それだけだ。
黒髪の旅人だったアンと、目の前の華やかな令嬢では、見た目も、声も、纏う雰囲気も違う。
「お嬢様?」
「いいえ。」
ヴィオレットは柔らかく微笑んだ。
「先日、市場でお見かけした方です。」
その時。
近くにいた令嬢が、茶髪の女性へ声を掛けた。
「レイ様。」
ヴィオレットの瞳が僅かに動く。
「王都へいらしていたのですね。」
「ええ。久しぶりに。」
「今夜はアレン卿もいらしておりますわ。ヴァルティエ家の方が揃うなんて珍しいですわね。」
「ふふっ。私など遠縁に過ぎませんもの。」
(レイ・ヴァルティエ様。)
初めて知った名前。
ヴァルティエ家の遠縁。
ヴィオレットは静かにその名を覚えた。
(ヴァルティエ家……。)
少しだけ、アンのことが頭をよぎる。
アンもまた、ヴァルティエ家と何らかの繋がりを持っていた。
だからといって、それだけで二人を結びつけることはできない。
ただ。
(少し、気になりますね。)
それだけだった。
◇
楽団の演奏が変わった。
ヴィオレットが何気なく中央へ視線を向ける。
「……。」
アレン・ヴァルティエが、一人の令嬢と踊っていた。
(珍しい。)
思わず、そんな言葉が浮かんだ。
アレンが夜会で令嬢に囲まれていること自体は珍しくない。
むしろ、いつものことだ。
酒と女性に目がない遊び人。
世間では、そう噂されている。
けれど、ヴィオレットが実際に見てきたアレンは、令嬢から踊りに誘われても、ほとんど応じない。
『申し訳ない。今日は先約があってね。』
『次の機会には、ぜひ。』
そう言って、笑顔のまま、するりと躱してしまう。
誰にでも優しい。
けれど、誰か一人だけを特別扱いすることはない。
だからこそ、今夜の姿は少し珍しく見えた。
(今日は気が向いたのでしょうか。)
人の気分など、日によって変わる。
ヴィオレットは一度視線を外した。
けれど。
「……。」
何故か。
もう一度だけ、アレンを見る。
踊りは上手い。
立ち姿も。
笑い方も。
令嬢への接し方も。
何度も夜会で見てきたアレン・ヴァルティエ、そのもの。
なのに。
(……何でしょう。)
ほんの僅かに、何かが違うような気がした。
いつもより、目の前の令嬢へ向ける意識が強い。
普段のアレンなら、女性と話していても、どこか周囲を見ているようなところがある。
誰が入ってきたのか、どこで何が起きているのか。
何気なく把握しているような、そんな視線をすることがあった。
けれど今夜は少し違う。
(……気のせいでしょうね。)
ヴィオレットは静かにグラスへ口をつける。
その視界の端を、深いワインレッドのドレスが横切った。
「……。」
レイだった。
ヴィオレットは、そちらへも視線を向ける。
人とすれ違う直前、僅かに身体をずらす動き。
グラスを持ちながらも、周囲へ向けられている視線。
(……。)
また、アンを思い出した。
そして会場の中央では、いつもより少しだけ違って見えるアレンが踊っている。
今夜は妙に、小さな違和感が多い。
(私が気にし過ぎているのでしょうか。)
ヴィオレットは小さく笑い、再び周囲の貴族たちへ意識を戻した。
◇
音楽が終わる。
リリアは令嬢の手を取り、丁寧に一礼した。
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。夢のような時間でしたわ。」
「それは光栄だ。」
柔らかな笑み。
低く落ち着いた声。
誰も疑わない。
そこにいるのはアレン・ヴァルティエだ。
少し離れた場所では、レイ・ヴァルティエが貴族たちと談笑しながら、静かに情報を拾っている。
そしてさらに離れた場所では、病弱な侯爵令嬢として微笑むヴィオレットが、誰にも悟られないまま、人々の言葉と仕草を観察していた。
アレンはレイを演じ。
リリアはアレンを演じ。
ヴィオレットもまた、本当の自分を隠している。
誰もがそれぞれの仮面を被っていた。
華やかな音楽と、笑い声に満ちた夜会の中で。




