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第36話 重なる面影

王都。


 朝靄の残る東倉庫街では、早朝から大小さまざまな荷車が行き交っていた。


 荷を運ぶ者たちの掛け声。


 車輪が石畳を転がる音。


 商人たちの威勢のいい声。


 その喧騒から少し離れた建物の二階で、ヴィオレットは窓辺に立っていた。


「動きは?」


 背後に控える部下へ問いかける。


「例の男は、まだ姿を見せておりません。監視は続けております。」


「分かりました。」


 ヴィオレットは小さく頷いた。


 アンが襲われた夜、逃げた刺客の足取りを辿る中で、一人の男が浮かび上がった。


 複数の偽名を使い、定期的に東倉庫街で荷を受け取っている男。


 おそらく組織の末端に過ぎない。


 捕らえたところで、その先へ辿り着ける可能性は低い。


 それどころか、こちらが男を捕らえたと知られれば、また糸を切られるかもしれない。


「焦る必要はありません。今は、誰と接触するのかを見る方が重要です。」


「承知いたしました。」


 部下が再び通りへ視線を戻す。


 しばらくして、その表情が変わった。


「お嬢様。」


 ヴィオレットも窓の外へ目を向ける。


「あの男です。」


 粗末な外套を羽織った男が、人目を気にするように倉庫へ近づいていた。


 何気ない足取り。


 だが時折、周囲へ視線を走らせている。


 やがて別の男が現れた。


 二人は挨拶すら交わさない。


 すれ違いざま、小さな包みが、一方からもう一方へ渡った。


 ほんの数秒。


 それだけで二人は離れ。


 それぞれ別の方向へ歩き始める。


「受け取った方を追ってください。」


「はい。」


「気付かれないように。接触する必要はありません。」


「承知いたしました。」


 部下が静かに部屋を後にする。


 ヴィオレットは一人、遠ざかっていく男の背中を見つめた。


「少しずつ……ですね。」


 焦って末端を捕らえても、その先を切られてしまう。


 必要なのは、人の流れ。


 誰が誰へ荷を渡し、誰が受け取り、その先で、誰のもとへ運ばれていくのか。


 細い糸を、一本ずつ辿るしかない。


     ◇


 午後。


 ヴィオレットは侍女を伴い、王都の市場を訪れていた。


 表向きは体調の良い日に、珍しく外出した侯爵令嬢。


 けれど本当の目的は情報収集だった。


 市場には、多くの人間が集まる。


 商人。


 職人。


 地方から来た行商人。


 王都の貴族に仕える使用人。


 何気ない世間話の中に。


 思わぬ情報が紛れていることも珍しくない。


「少し、あちらを見てもよろしいかしら。」


「もちろんでございます。」


 侍女とともに歩いていたヴィオレットの足が。


 ふと止まった。


「……?」


 視線の先。


 一軒の雑貨店に、一人の若い女性がいた。


 柔らかな茶色の髪。


 落ち着いた深紅のドレス。


 華やかではあるが、派手すぎない装い。


 どこか大人びた雰囲気を纏った、美しい令嬢だった。


 見覚えはない。


 少なくとも、社交界で親しくしている令嬢ではなかった。


 けれど、なぜだろう。


 妙に目を引いた。


     ◇


 数日後。


 王都では夜会が開かれる。


 そのため、アレンもすでに王都へ入っていた。


 ただし領主アレン・ヴァルティエとしてではない。


 黒髪の旅人、アンでもない。


 アンの姿は、木札を調べている者として、すでに相手に知られている。


 実際、命まで狙われた。


 ならば、もう一度同じ姿で王都を嗅ぎ回る必要はない。


 今回、アレンが使っているのは、もう一つの女性としての顔。


 茶色の髪。


 深紅のドレス。


 そして、アンよりも華やかで、人懐こい笑みを浮かべる女性。


 ――レイ。


「こちら、とても素敵ですね。」


 レイは店に並べられた小箱を手に取った。


「お目が高い。地方から入ったばかりの品でして。」


「まあ、地方から?」


 楽しそうに目を細める。


「王都には色々な商人の方がいらっしゃるのですね。」


「そりゃあもう。毎日のように出入りがありますよ。」


「それでは、お顔を覚えるのも大変でしょう?」


「いやいや、変わった奴は案外覚えてるもんですよ。」


「本当ですか?」


 レイが興味を惹かれたように身を乗り出す。


「では、面白い方もいらっしゃるのでしょうね。」


「そりゃいますとも。この前なんか――」


 店主の口が。


 自然と軽くなっていく。


 レイは笑顔で相槌を打つ。


 問い詰めない。


 知りたいことを直接尋ねることもしない。


 ただ、相手が話したくなるように会話を繋いでいく。


 アンとして木札を見せて回った結果。


 警戒され、最後には命まで狙われた。


 だから今度はやり方を変えた。


 聞くのではなく、相手から話させる。


 その中に使える情報があれば拾えばいい。


     ◇


 少し離れた場所から、ヴィオレットは、その様子を眺めていた。


(お上手ですね。)


 何かを尋ねているようには見えない。


 ただ、買い物のついでに、店主と世間話をしているだけ。


 それなのに、相手は自分から話している。


 必要なことを直接聞かず、会話の流れを作って相手に喋らせる。


(ただ買い物をしているだけの令嬢ではなさそうです。)


 それに何故だろう。


 先ほどから、目が離れない。


 やがて女性は小さな箱を受け取った。


「ありがとうございます。」


「またいらしてください。」


「ええ。ぜひ。」


 店主へ微笑む。


 そして、礼をするため右手が自然にドレスの裾へ伸びた。


「……。」


 ヴィオレットの瞳が。


 僅かに細くなる。


(今の……。)


 どこかで見た。


 同じような仕草を。


 記憶を辿る。


 そして、思い出した。


 黒髪の旅人、アン。


 初めて街ですれ違った時、自分が礼をすると、アンも反射的に右手を腰へ伸ばした。


 あの時、彼女が着ていたのは旅装束だった。


 摘むべき裾などなかったため、途中で手を止めていた。


(……同じ。)


 ただ、それだけなら。


 淑女教育を受けた女性なら、珍しいものではない。


 ヴィオレットは何も言わず、そのまま女性を見つめる。


 店を出てきた彼女の手。


 箱を持つ、白く細い指。


 短く整えられた爪。


 そして、指の付け根にある。


 僅かに硬くなった皮膚。


「……。」


 また、同じものを見たことがある。


 アンの手。


 長年、武器を握ってきた者の手。


(まさか……。)


 黒髪の女性が、脳裏に浮かんだ。


 だが目の前にいる女性は、あまりにも違う。


 髪の色も。


 瞳の色も。


 服装も。


 纏っている雰囲気さえ、アンとは似ていない。


 ヴィオレットは結論を出さない。


 その時だった。


 風が吹いた。


 茶色の髪が揺れる。


 女性は何気なく、髪を耳へ掛けた。


 耳の後ろ。


 そこに、小さな黒子があった。


「……。」


 ヴィオレットの表情から、ほんの僅かに笑みが消えた。


 場所まで、同じだった。


 女性が歩き出す。


 人混みを避け、向かってきた荷車から半歩だけ距離を取る。


 身体を僅かに斜めへ向け、いつでも動けるように、足を運ぶ。


 その動きにも、覚えがあった。


 アンが、人混みの中を歩いていた時と同じ。


(似ている……。)


 礼をする時の癖。


 武器を握ってきた手。


 耳の後ろの黒子。


 そして、身体の使い方。


 一つなら、偶然で済ませられる。


 二つでも、そういうことはあるだろう。


 けれど、ここまで重なると、さすがに無視はできない。


(……アンさん?)


 初めて、明確にその可能性が頭をよぎった。


 髪が違う。


 瞳も違う。


 装いも。


 雰囲気も違う。


 けれど、変えられるものばかりだ。


 髪。


 瞳。


 服装。


 話し方。


 どれも、変装で変えることができる。


 だが、身体に染みついた癖や、長い年月をかけてできた手の痕。


 生まれつきある黒子までは、そう簡単には変えられない。


「お嬢様?」


 侍女が小さく呼びかける。


 ヴィオレットは我に返った。


「何でしょう。」


「先ほどから、あちらの方をご覧になっておりますが。」


「……そうですね。」


 ヴィオレットは柔らかな笑みを戻す。


「少し気になる方を見つけただけです。」


 侍女も茶髪の女性へ目を向けた。


「お調べいたしますか?」


「いいえ。」


 答えは早かった。


「まだ、その必要はありません。」


 確証はない。


 似ているだけかもしれない。


 同じ位置に黒子がある者だって、同じように武器を扱う女性だって、いないとは言い切れない。


 何より、情報屋にとって思い込みほど危険なものはない。


「行きましょう。」


「よろしいのですか?」


「ええ。」


 ヴィオレットは歩き出す。


 その横を、荷車が通り過ぎた。


 そして人混みの向こうへ消えていく茶髪の女性へ、もう一度だけ視線を向ける。


(もし、本当にアンさんなら。)


 なぜ、また王都へ戻ってきたのか。


 なぜ、今度は姿を変えているのか。


 そして、今度は何を追っているのか。


 疑問はいくつもある。


 けれど、今はまだ推測に過ぎない。


(もう一度お会いできれば……。)


 その時は、もう少し確かめられるかもしれない。


 ヴィオレットは何事もなかったように歩き出した。


 黒髪の旅人、アン。


 そして今日初めて見た、茶髪の令嬢。


 二人の姿が、ヴィオレットの中で初めて重なった。


 まだ同一人物だと断定するには足りない。


 けれど一度生まれた疑念は、もう簡単には消えてくれそうになかった。


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