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第35話 静かな備え

 

 アレンが領地へ戻ってから、三日。


 ヴァルティエ邸は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


 執務室では、アレンが机に向かい、古い帳簿を広げている。


 王都で負った頬の傷は薄くなってきたものの、まだ完全には消えていない。


 今は無理に外へ出るより、屋敷の中でできることを進めるつもりだった。


 コンコン。


「失礼いたします。」


 リリアが部屋へ入ってくる。


 左腕には、まだ白い包帯が巻かれていた。


 アレンはすぐにそこへ目を向ける。


「傷はどう?」


「日常生活には支障ありません。ただ、剣を握るにはもう少しかかりそうです。」


「無理はしないでね。」


「アレン様こそ。頬の傷がまだ残っております。」


 言われて、アレンは自分の頬へ触れた。


「これくらいなら平気だよ。」


「私も同じことを申し上げたつもりですが。」


「……それを言われると弱いな。」


 二人は顔を見合わせ。


 小さく笑った。


 その時、再び扉が叩かれる。


「失礼いたします。」


 入ってきたのは、騎士団長ガレスだった。


「何か分かった?」


「襲撃者についてですが、大きな進展はございません。」


 ガレスは報告書を差し出した。


「襲撃後の足取りを追いましたが、街道へ出たところで途絶えております。使用したと思われる馬も発見できておりません。」


「領内では?」


「襲撃以降、不審な人物を見たという報告はございません。」


 アレンは報告書へ目を通す。


「もう領外へ出たか……それとも、どこかでこっちの様子を見てるのか。」


「どちらも考えられます。」


「警備は?」


「引き続き強化しております。」


「ありがとう。でも、あまり露骨にはしないで。」


「承知しております。」


 こちらが警戒していると悟られれば。


 相手はさらに姿を隠すだろう。


 何より領民を不安にさせたくはない。


「何かあったら、すぐに知らせて。」


「はっ。」


 ガレスは一礼し、部屋を後にした。


     ◇


 再び静寂が戻る。


 アレンは机の端に置かれた木札へ視線を向けた。


 小さな焼き印。


 これを調べ始めてから王都では、アンとして命を狙われた。


 そして同じ頃。


 領地では、ヴァルティエ邸そのものが襲撃された。


 侵入者が向かおうとしていたのは、執務室か、あの酒瓶が保管されていた酒蔵。


 偶然とは考えにくい。


「リリア。」


「はい。」


「十五年前の記録を調べよう。」


 リリアが僅かに目を見開いた。


「先代様方の事故についてですか?」


「ああ。」


 アレンは古い帳簿へ手を置く。


「今起きてることだけ追ってても、相手が残した痕跡を後から辿ることになる。」


 酒瓶。


 商人。


 灰色亭。


 木札。


 どれも、何かが起きた後に見つけたものだ。


「だったら一度、始まりまで戻ってみたい。」


 十五年前。


 父と母が亡くなった馬車事故。


 ずっと事故だったと聞かされてきた。


 幼かったアレンも、それを疑ったことなどなかった。


 けれど今は違う。


「父上と母上が亡くなる前後に、何かなかったか調べたい。いつもと違う来客とか、急に辞めた使用人とか。小さなことでもいい。」


「では、私は当時の使用人に関する記録を確認いたします。」


「お願い。」


 リリアは向かいの席へ座り。


 別の帳簿を開いた。


     ◇


 紙をめくる音だけが、静かな執務室へ響く。


 来客記録。


 使用人の出入り。


 領内の収支。


 両親が亡くなる前後の日程。


 一冊、また一冊。


 十五年前まで遡っていく。


「……。」


 アレンの指が、ある頁で止まった。


 じっと目を走らせる。


 だが。


「……違うか。」


 再び頁をめくる。


 それを何度繰り返しただろう。


 やがて。


「……ないな。」


 アレンは小さく息を吐いた。


 何か目立った出来事があったわけではない。


 不自然な来客も、突然途絶えた取引も、事故の前後だけ抜け落ちた記録もない。


「こちらもです。」


 リリアが帳簿を閉じた。


「当時の使用人について確認しましたが、事故の前後で大きな入れ替わりはありません。」


「そっか。」


 アレンは椅子へ背を預けた。


「そう簡単には見つからないよね。」


 十五年前の出来事だ。


 しかも。


 ここにあるのは、ヴァルティエ家に残された記録だけ。


「事故そのものについては?」


「屋敷に残されているものは、先代様方の死亡後に届いた通知と、その後の手続きに関する書類がほとんどです。」


「見せて。」


「こちらです。」


 差し出された書類へ目を通す。


 事故が起きた日時。


 場所。


 死亡した二人の名前。


 その後の遺体の引き渡し。


 領主継承に関する手続き。


 必要なことは記されている。


 けれど。


「……事故現場のことが、ほとんど書いてない。」


「はい。」


「馬車がどういう状態だったとか、どうして転落したとか。」


「こちらには残されておりません。」


「調査記録は?」


「見当たりません。」


 アレンの眉が寄った。


「じゃあ、事故を調べたのは……。」


「当時の管轄から考えますと、王都側かと。」


「王都……。」


 アレンは小さく呟いた。


 馬車が転落した経緯、現場の状況。


 車輪や馬具に異常はなかったのか、目撃者はいたのか。


 そして。


 誰が、何を根拠に事故だと判断したのか。


 それを知るための記録が残っているとすれば、ここではない。


「王城に残ってる可能性があるね。」


「おそらくは。」


「……見られるかな。」


 リリアは少し考え、慎重に答えた。


「十五年前の事故記録を、当事者であるアレン様が閲覧したいと申し出ること自体は不自然ではありません。ただ……。」


「今の状況で急に動けば、目立つ。」


「はい。」


 アレンは静かに頷いた。


 王都で焼き印を調べ、その直後に命を狙われた。


 領地でも襲撃が起きている。


 相手がこちらの動きを警戒している可能性は高い。


 そんな時に、十五年前の事故記録まで調べ始めれば、こちらが何を疑っているのか、自分から教えるようなものだ。


「……今はやめておこう。」


 リリアが顔を上げる。


「よろしいのですか?」


「ああ。調べないわけじゃない。」


 アレンは閉じた帳簿へ手を置く。


「今じゃないってだけ。」


「承知しました。」


「相手がこっちを見てるなら、見せるものは選ばないと。」


 こちらが持っている情報、調べようとしているもの、どこまで真相へ近づいているのか。


 それを悟らせないことも、これからは必要になる。


「……なんだか。」


 アレンが小さく笑った。


「領主の仕事じゃなくなってきたね。」


「元々、アレン様はご自分で動きすぎです。」


「それは否定できないな。」


「もう少し人をお使いください。」


「善処します。」


「そのお返事は信用できません。」


「ひどいなあ。」


 少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。


 アレンは机の上へ視線を戻す。


 酒瓶の刻印。


 木札の焼き印。


 灰色亭。


 王都での襲撃。


 領地での襲撃。


 そして、十五年前の両親の死。


 まだ、それらを一本に繋ぐ証拠はない。


 むしろ。


 調べるほど、相手が痕跡を消そうとしてくる。


 焦れば、また先回りされるかもしれない。


「今は、できることからだね。」


「はい。」


 リリアが静かに頷く。


 アレンは十五年前の帳簿を閉じた。


 今日。


 ここから真実へ繋がるものは、何も見つからなかった。


 けれど無駄ではなかった。


 ヴァルティエ家に残された記録だけでは、十五年前の事故の真相には辿り着けない。


 知りたければ、いずれ王城に残されているはずの事故記録を調べる必要がある。


「……王城か。」


 アレンは小さく呟く。


 今はまだ動かない。


 だがその場所を、次に辿るべき手掛かりとして、覚えておく。


 十五年間、事故として閉じられていた両親の死。


 その記録が今も本当に、十五年前と同じ姿で残されているのか。


 それを確かめる時は、そう遠くないのかもしれなかった。


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