第34話 帰還
夕暮れが近づく頃。
一頭の馬が、ヴァルティエ領へ続く街道を駆けていた。
手綱を握るのは、長い黒髪の女性。
アンだった。
見慣れた森が近づいてくる。
領境を越え、しばらく進んだところで、アンは街道を外れた。
人目のない林へ入る。
「……ここなら大丈夫かな。」
周囲に誰もいないことを確認し、馬から降りる。
まず、腰まである黒髪へ手を伸ばした。
固定具を外し、ゆっくりとウィッグを取る。
その下から現れたのは、短く整えられた金色の髪。
「ふぅ……。」
軽く頭を振る。
長時間押さえられていた髪を指先で整えた。
次に、小さな手鏡を取り出す。
黒に近い深い藍色へ見せていたカラコンを外せば、本来の青い瞳が鏡の中に現れた。
それから、馬の荷へ手を伸ばす。
取り出したのは、男装用の衣服。
胸へさらしを巻き、シャツを着る。
肩幅を補う上着を羽織り、手袋を嵌める。
少しだけ背丈を高く見せる靴へ履き替え、最後に、襟元を整えた。
鏡の中にいた黒髪の旅人は、もういない。
「ここからは――」
普段より低い声で。
小さく呟く。
「領主だ。」
◇
ヴァルティエ邸。
門が開く。
馬に乗ったアレンの姿を見ると、古参の使用人たちが静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ、アレン様。」
「ただいま。」
それだけ。
誰も、どこへ行っていたのかとは聞かない。
ここにいる者たちは、ヴァルティエ家が抱える秘密を知っている。
「リリアは?」
「執務室でお待ちです。」
「分かった。」
アレンは馬を預けると、足早に屋敷へ入った。
◇
執務室。
扉を開ける。
「リリア。」
机へ向かっていたリリアが顔を上げた。
「アレン様。」
すぐに立ち上がる。
「お帰りなさいませ。」
「ただいま。」
いつもと変わらない。
穏やかな笑み。
けれど。
アレンの視線は、すぐに一か所へ止まった。
リリアの左腕。
白い包帯が巻かれている。
「……。」
アレンの笑みが消えた。
「見せて。」
「アレン様。」
「いいから。」
リリアは少し困ったように笑い、腕を差し出した。
「深い傷ではありません。」
「医者は?」
「診ていただきました。数日で問題なく動かせるようになるとのことです。」
「……そう。」
ようやく。
アレンの肩から僅かに力が抜けた。
「よかった。」
それから、表情を引き締める。
「何があったの。」
リリアも笑みを消した。
「二日前の夜です。屋敷へ、複数の侵入者が入りました。」
「人数は?」
「確認できたのは四人です。」
アレンの眉が僅かに動く。
「目的は?」
「断定はできません。ですが、侵入経路から考えて、執務室か酒蔵を目指していたものと思われます。」
「酒蔵……。」
アレンの声が低くなる。
思い浮かんだのは、一本の酒瓶。
以前、偽の商人が持ち込んだ酒。
瓶底には、正体不明の印が刻まれていた。
「でも、あの瓶は情報屋に預けたままだよね。」
「はい。」
「……じゃあ。」
アレンの眉が寄る。
「もし酒瓶を探してたなら、相手はそれを知らなかった?」
「その可能性はございます。」
酒瓶がヴァルティエ家へ渡ったことは知っている。
だから酒蔵へ向かった。
だが。
その後、情報屋へ預けられたことまでは把握していなかった。
「……全部知られてるわけじゃないんだ。」
「少なくとも、そう考えることはできます。」
「そっか。」
アレンは少し考える。
こちらの動きが、すべて筒抜けになっているわけではない。
それならまだ、こちらにも動ける余地はある。
「捕まえた人は?」
リリアが首を横へ振る。
「一人を追い詰めましたが、煙玉を使われました。」
「その時に?」
「はい。」
リリアが包帯へ視線を落とす。
「逃走を阻止しようとして、斬られました。」
「……。」
アレンの手が僅かに握られる。
「ご心配なさらないでください。」
「心配するよ。」
すぐに返した。
「僕の代わりに領地を守ってくれてたんだから。」
「……アレン様。」
「ありがとう、リリア。」
短い言葉だった。
リリアは少しだけ目を伏せる。
「お役に立てたのでしたら。」
そう答えた。
「それで。」
アレンは椅子へ腰を下ろす。
「外には?」
「漏れておりません。」
「使用人にも?」
「事情を知る者以外には、侵入者があったことだけ伝えております。」
「影武者については?」
「もちろん。」
リリアは微笑んだ。
「誰にも。」
「よかった。」
アレンも小さく笑う。
領民を不安にさせたくない。
それに。
アレンが領地にいなかったと知られるわけにもいかなかった。
表向き、領主アレン・ヴァルティエは、この数日間もずっと領地にいたのだから。
「僕の方でも、色々あった。」
アレンが旅鞄へ手を伸ばす。
布包みを取り出し。
机の上へ置いて、ゆっくりと開いた。
中にあるのは、焼き印の押された木札。
「情報屋から聞いていた通り、これは荷を受け取る側を示す印らしい。」
「はい。」
「でも。」
アレンの指先が焼き印へ触れる。
「肝心の『誰を示しているのか』までは分からなかった。」
商人。
木工職人。
荷運び。
馬車屋。
何人にも尋ねた。
けれど、答える者はいなかった。
「ただ、知らないわけじゃないと思う。」
「と申しますと?」
「焼き印を見せた途端、態度が変わる人が何人もいた。目を逸らしたり、急に話を切り上げたり。」
「知っていて、話さなかったと?」
「たぶん。」
アレンは頷く。
「話したくないっていうより、話せないように見えた。」
「何かを恐れている。」
「僕もそう思う。」
そして。
その予想を裏付けるように。
事態は動いた。
「これを調べ始めてから、僕は命を狙われた。」
リリアが顔を上げる。
「王都で、ですか?」
「うん。最初は尾行だけだった。でも、その次は違った。」
「何があったのです?」
「四人に襲われた。」
「……四人。」
リリアの表情が強張った。
「黒装束で、連携も取れてた。ただのならず者じゃない。複数で相手を仕留めることに慣れてた。」
「こちらへ侵入した者たちも、四人でした。」
「……やっぱり。」
アレンは静かに息を吐く。
「同じ連中かどうかは分からない。」
人数が同じ。
それだけで断定することはできない。
「でも、偶然にしては重なりすぎてる。」
「はい。」
「僕は王都で木札を調べていた。こっちでは、酒瓶が保管されていた酒蔵を探られた。そして、ほぼ同じ時期に両方が襲われた。」
リリアも机の木札へ視線を落とす。
「証拠を消そうとしている……?」
「可能性はあると思う。」
アレンは木札を持ち上げた。
「少なくとも、僕たちが触れてほしくないものへ近づいてるのは間違いない。」
「ですが。」
リリアがアレンを見る。
「四人もの刺客を、どうやって?」
「ああ、それは――」
言いかけて、アレンが止まった。
「……途中で助けられた。」
「助けられた?」
「黒い外套を着た女の人に。」
「お知り合いですか?」
「それが全然。」
アレンは困ったように眉を下げる。
「名前も教えてくれない。」
「見ず知らずの方が、刺客との戦いへ?」
「しかも二回目。」
「……二回目?」
リリアの目が細くなる。
「前にも尾行されてた時に助けてもらった。」
「アレン様。」
「何?」
「それを先にお話しください。」
「ごめん。」
「まったく……。」
リリアは小さく息を吐いた。
「その方は何者なのです?」
「分からないんだよね。」
王都の裏道を知り尽くしたような足取り。
複数の刺客を相手にしても揺らがない技量。
低く作られた声。
深く被られたフード。
そして何故か、少しだけ引っかかる言葉遣い。
「前にも会ったでしょうって聞いたんだけど。」
「何と?」
「『人違いです』って。」
「……。」
「絶対同じ人だと思うんだけどな。」
「随分と頑なですね。」
「でしょ?」
アレンは苦笑した。
「でも、助けてもらったのは本当だから。次に会えたら、ちゃんとお礼くらいしたい。」
まさかその相手とすでに何度も顔を合わせ、紅茶まで一緒に飲んでいるとは。
アレンは知る由もなかった。
◇
酒瓶の刻印。
木札の焼き印。
灰色亭。
姿を消した商人。
王都の刺客。
ヴァルティエ邸への侵入者。
そして正体の分からない、黒衣の女性。
一つ一つは。
まだ完全には繋がっていない。
けれど、その向こうに、同じ何かが存在している。
そんな気がしてならなかった。
「十五年前……。」
アレンが呟く。
両親が死んだ、あの事故。
本当に、ただの事故だったのか。
調査を始めた途端、消された痕跡。
怯える商人。
刺客。
屋敷への侵入。
ここまで多くの者が動き始めた。
「……やっぱり。」
アレンは木札を机へ戻す。
「あの事故には、何かある。」
リリアが静かに頷いた。
「ですが、これ以上は今までより危険になります。」
「うん。分かってる。」
アレンは迷わなかった。
「それでも。」
窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの領地。
遠くには、仕事を終えた領民たちが家路についている。
この土地を、両親は守っていた。
そして今は、自分が守っている。
「向こうが動き始めた以上、待ってるだけじゃ、また誰かが傷つく。」
アレンはリリアを見る。
「こちらからも動こう。」
「はい。お供いたします。」
「怪我が治ってからね。」
「……。」
「その顔しても駄目。」
リリアが僅かに頬を膨らませる。
アレンは、ようやく少し笑った。
そしてもう一度。
机の上の木札を見る。
小さな焼き印。
その先にいる、まだ姿の見えない敵。
これまでは、残された痕跡を追ってきた。
だが相手もまた、こちらへ手を伸ばし始めた。
ならば。
次はこちらから、その手を辿る番だった。




