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第32話 領主の決断


 朝。


 アンは宿の鏡の前で、頬の傷を確かめていた。


 昨夜、刺客が投げた短剣が掠めた場所。


 傷は浅く、細く赤い線が残っている程度だった。


「これくらいなら大丈夫か。」


 黒髪を下ろせば、それほど目立たない。


 アンはウィッグを整え、いつもの旅装束へ着替えた。


 机の上には、焼き印の刻まれた木札が置かれている。


「……。」


 昨夜の襲撃、四人の刺客。


 捕らえられた瞬間、自ら毒を噛み砕き、命を絶った男。


 そして、二度も自分を助けた、正体不明の黒衣の女性。


「分からないことばかりだな……。」


 それでも一つだけ、はっきりしたことがある。


 この木札は、命を奪ってでも取り戻したいほど、相手にとって都合の悪いものだ。


 なら、自分が追っている方向は少なくとも、完全に外れてはいない。


 アンが木札へ手を伸ばした、その時。


 コンコン。


「アン様。」


 扉の外から、宿の主人の声がした。


「お客様がお見えです。」


「私に?」


「はい。」


「分かりました。すぐに参ります。」


 階下へ降りると。


 宿の隅に、一人の男が立っていた。


 地味な旅装。


 目立つ装飾もない。


 見た目だけなら、どこにでもいる旅人だ。


 けれどアンには見覚えがあった。


「……。」


 男もアンを見る。


 それだけで、互いに何者なのか分かった。


「アン様。」


 男が一礼する。


「お渡ししたいものがございます。」


「……部屋で聞きます。」


「承知いたしました。」


 二人はそのまま階段を上がった。


     ◇ ◇ ◇


 扉を閉める。


 廊下に人の気配がないことを確認してから、男が改めて頭を下げた。


「アレン様。」


「うん。」


 アン――アレンも、いつもの口調へ戻る。


「急いで来たみたいだけど、何かあった?」


「こちらを。」


 男が外套の内側へ手を入れる。


 その時、裏地に縫い付けられた小さな紋章が覗いた。


 ヴァルティエ家の紋章。


 取り出された封書を、アレンはすぐに受け取った。


「領地からです。」


「ありがとう。」


 封を切る。


 中に書かれていたのは、ほんの数行だった。


『昨夜、屋敷へ侵入者あり。


 リリア負傷。


 命に別状なし。


 至急帰還されたし。』


「……。」


 アレンの表情から、一瞬で笑みが消えた。


「リリアが?」


「はい。」


「何があったの。」


「昨夜、何者かが屋敷へ侵入いたしました。侵入者は執務室と酒蔵へ向かおうとしていたものと思われます。」


「……酒蔵。」


 アレンの瞳が細くなる。


 酒蔵には、あの酒瓶を保管していた。


「捕まえた人は?」


「おりません。侵入者は全員逃走しております。その際、阻止しようとしたリリア様が腕を斬られました。」


「傷は。」


「医師によれば、命に別状はございません。」


「……そっか。」


 アレンは小さく息を吐いた。


 ひとまず、最悪の事態ではなかった。


 けれど、胸の奥に広がった不安までは消えない。


 昨夜、王都では木札を持つ自分が襲われた。


 同じ夜、ヴァルティエ邸には侵入者が入り、酒瓶の保管場所へ向かっている。


(木札を持っている僕と。)


(酒瓶が残ってる屋敷。)


 偶然。

 

 そんな言葉で片づけるには、あまりにも重なりすぎている。


「……証拠を消しに来たんだ。」


「アレン様?」


「いや。」


 アレンは封書を折り畳んだ。


 王都には、まだ調べるべきことがある。


 木札。


 焼き印。


 昨夜の刺客。


 そして、あの黒衣の女性。


 ここを離れれば、せっかく見つけた手掛かりを失うかもしれない。


 それでも。


「帰る。」


 答えに、迷いはなかった。


「領地へ戻る。リリアが怪我してるのに、ここに残ってる場合じゃない。」


 それに、狙われたのはリリアだけではない。


 ヴァルティエ邸そのものだ。


「僕は領主だから。」


 自分がいないところで、領地の者たちを危険へ晒したまま、王都に留まることなどできなかった。


「馬は?」


「すでにご用意しております。」


「ありがとう。一刻も早く戻ろう。」


「はい。」


     ◇ ◇ ◇


 アレンはすぐに帰り支度を始めた。


 衣服。


 財布。


 最低限の旅道具。


 必要なものだけを鞄へ詰めていく。


 最後に、机の上へ残った木札を手に取った。


「……。」


 昨夜。


 これを狙って、四人もの刺客が現れた。


 そして、同じ夜に領地でも動きがあった。


「必ず戻って来る。」


 今、逃げるわけではない。


 領主として、戻るべき場所へ戻るだけだ。


 木札を懐へしまう。


「次に来た時は、もっと先まで辿る。」


 アレンは鞄を手に、宿を後にした。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 ローラン侯爵家。


「お嬢様。」


 部下の男が、ヴィオレットの前で一礼した。


「アンさんについて、ご報告がございます。」


 ヴィオレットは、読んでいた本を閉じる。


「聞かせて。」


「今朝、アンさんが滞在している宿へ、一人の男が訪れました。」


「どのような方?」


「旅人を装っております。ただ、宿へ入る前に周囲を確認しておりました。一般の旅人とは思えません。」


 ヴィオレットの瞳が、僅かに細くなる。


「他には?」


「外套の内側へ縫い付けられた紋章を確認しております。」


「どこの?」


「ヴァルティエ家です。」


「……。」


 ヴィオレットの指が、本の表紙の上で止まった。


「間違いないの?」


「はい。」


「そう。」


 静かに目を伏せる。


 アン。


 家名を明かさない黒髪の旅人。


 淑女としての教育を受けたような所作。


 物流を見る目。


 長年武器を扱ってきた手。


 尾行へ気づく鋭さ。


 そして、アレンから依頼されたものと同じ焼き印の付いた木札を追っている。


 そこへ、ヴァルティエ家から、人目を忍ぶように使者が訪れた。


(……やはり、ヴァルティエ家と何か関係がある。)


 けれどそれだけで、答えを一つに決めることはできない。


 アレンの命を受けて動いている者。


 ヴァルティエ家の密偵。


 家臣。


 あるいは、表へ出せない事情を持つ親族。


 考えればいくつも可能性はある。


(決めつけるには、まだ早いですね。)


 情報屋に必要なのは想像ではない。


 事実だ。


「それで、アンさんは?」


「手紙を受け取った直後から、帰り支度を始めております。」


「王都を離れるのですね。」


「そのようです。」


 ヴィオレットは少しだけ考える。


「追わなくていいわ。」


 男が顔を上げた。


「よろしいので?」


「ええ。王都を出るところまでは確認して。ただし、その先は追わないでください。」


「承知いたしました。」


 男が一礼し、部屋を出ていく。


 一人になったヴィオレットは、静かに息を吐いた。


「ヴァルティエ家……。」


 アレンとアン。


 二人は、間違いなくどこかで繋がっている。


 ただどう繋がっているのか、それがまだ見えない。


     ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。


 王都の門。


 アンは馬に跨がっていた。


 長い黒髪が風に揺れる。


 今朝、ヴァルティエ家の使者が用意した馬。


 鞍も。


 馬具も。


 華美ではない。


 けれど目立たない場所にだけ、小さな印が刻まれている。


「行こう。」


 アンは手綱を握った。


 門を抜け、街道へ出る。


 振り返らない。


 王都には、まだ追うべきものが残っている。


 それでも、今は帰るべき場所がある。


 馬の腹を軽く蹴った。


 蹄の音が速くなる。


 そのまま、黒髪の旅人は王都から遠ざかっていった。


 その姿を離れた建物の上から、ヴィオレットは見つめていた。


「……。」


 アンの乗っている馬。


 鞍。


 馬具。


 そして目立たない場所へ刻まれた、ヴァルティエ家の印。


(偶然ではありませんね。)


 アンは確かに、ヴァルティエ家と深い繋がりを持っている。


 それでもヴィオレットが考えているのは、それだけではなかった。


 あれほど木札を追っていたアンが、突然調査を打ち切って王都を離れた。


(何かあった。)


 そうでなければ。


 あの女性が、あれほど簡単に引くとは思えない。


「お嬢様。」


 背後から侍女の声がした。


 ヴィオレットが振り返る。


「昨夜の刺客について、新しい情報が入りました。」


 その瞬間、ヴィオレットの表情から侯爵令嬢の柔らかな笑みが消える。


「聞かせて。」


「逃げた者の一人と思われる男が、北区で目撃されております。」


「行き先は?」


「現在、追跡中です。」


「そう。」


 ヴィオレットは、もう一度、アンが消えた街道へ目を向けた。


 アンは王都を離れた。


 なら、こちらはこちらで、できることをすればいい。


「追いましょう。」


「はい。」


「昨夜の刺客を辿れば、アンさんを狙った者へ近づけるかもしれません。」


「承知いたしました。」


 侍女から、黒い外套を受け取る。


 ヴィオレットは肩へ掛け、留め具を留めた。


「それに。」


 フードへ手を掛ける。


「アレン卿から受けた依頼も、まだ終わっていませんもの。」


 黒い布が、長い紫色の髪を覆い隠す。


 そこに病弱な侯爵令嬢の姿は、もうない。


 ヴィオレットは静かに屋根を蹴った。


 アンがヴァルティエ領へ戻る一方で、王都ではもう一つの追跡が、始まろうとしていた。



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