第31話 夜に交わる刃
夜風が、人気のない倉庫街を吹き抜けていた。
アンは一人、石畳の道を歩いている。
振り返らない。
それでも、背後から追ってくる気配は分かっていた。
(……増えた。)
宿を出た時は二人。
けれど、ここへ来るまでに、別の気配が加わっている。
(四人。)
途中で合流したらしい。
アンは何も気づいていないふりをしたまま、周囲へ視線を巡らせる。
倉庫。
路地。
屋根。
民家はない。
人影も見当たらない。
この時間なら、無関係な人間を巻き込む可能性も低い。
「……この辺りならいいか。」
アンが静かに足を止めた、その瞬間。
ヒュッ。
「――!」
空気を裂く音。
アンは半歩だけ身体を逸らした。
直後、短剣が背後の壁へ深々と突き刺さる。
「……。」
ゆっくりと振り返る。
屋根の上に二人。
路地の奥から二人。
黒装束の男たちが姿を現した。
全員、顔を布で覆っている。
「随分な歓迎だね。」
返事はない。
アンの右手が、剣の柄へ掛かった。
「僕が持ってるものが欲しいなら、話し合うくらいはしてもいいんだけど。」
沈黙。
代わりに、一人が地を蹴った。
「……そのつもりはないみたいだね。」
鞘走る音。
月明かりを受け、細身の剣が煌めく。
キィンッ!
真正面から振り下ろされた刃を受ける。
重い。
けれど、アンは正面から押し返さなかった。
刃を滑らせ、相手の力を外へ逃がす。
「なっ――」
男の体勢が僅かに崩れる。
アンはその懐へ一歩踏み込んだ。
剣の柄を、鳩尾へ叩き込む。
「ぐっ……!」
息を詰まらせた男の手首を掴み、勢いを利用して、石畳へ投げ落とした。
剣が地面を転がる。
けれど、休む暇はない。
左右から二人。
さらに屋根の上。
投擲の構え。
(連携してる。)
アンは一歩下がる。
右から振られた剣を弾く。
次は左。
身体を沈め、刃を躱す。
そのまま軸足を回し、男の脇腹へ蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ!」
男がよろめく。
その瞬間。
ヒュッ。
「っ!」
アンが首を捻った。
短剣が、頬を浅く掠める。
熱い痛み。
一筋の血が伝った。
(投擲まで……。)
親指で、頬の血を拭う。
四人とも、ただのならず者ではない。
個々の腕も悪くない。
何より、互いの動きを理解している。
一人が追い込めば、別の者が、逃げ道へ先回りする。
避けた先に、次の刃が待っている。
(暗殺に慣れてる。)
なら、こちらも隠している場合ではない。
「……。」
アンの構えが変わった。
剣先を僅かに下げる。
重心を落とす。
呼吸を整える。
その姿を見て、刺客の一人が、初めて僅かに動きを止めた。
「……悪いけど。」
藍色の瞳が細くなる。
「僕も、剣には少し自信があるんだ。」
次の瞬間、地を蹴った。
「――!」
刺客の反応が、僅かに遅れる。
間合いが一瞬で消えた。
男が咄嗟に剣を振り下ろす。
アンは半身になって躱した。
懐へ入り、手首を打つ。
「ぐっ!」
剣が落ちる。
さらに足を払う。
身体が宙へ浮き、そのまま石畳へ叩きつけられた。
「がっ……!」
二人目。
背後。
アンは振り返らない。
剣を逆手へ持ち替え、背中越しに刃を受ける。
キィンッ!
火花が散った。
そのまま身体を捻り、相手の剣を弾き上げる。
胸元が空く。
アンの剣先が、男の喉元で止まった。
「動かないで。」
「……っ。」
男の額に、汗が滲む。
けれどその瞬間だった。
屋根の上にいた刺客が、短剣を放つ。
同時に、残る一人が、アンの死角へ踏み込んだ。
二方向。
(来る。)
アンは気づいた。
避けられる。
けれど、今、目の前の男から剣先を外せば、再び動かれる。
一瞬。
どちらを取るか、判断が遅れた。
その僅かな隙へ、背後の刃が迫る。
キィンッ!!
「……!」
澄んだ金属音が響いた。
アンが振り向く。
黒い外套が翻っていた。
深く被ったフード。
その手には、短剣。
「左です。」
聞き覚えのある、低く抑えた女性の声。
アンは考えなかった。
即座に、左へ踏み込む。
ヒュッ。
短剣が先ほどまでアンのいた場所を通過した。
そのまま、身体を回転させる。
剣の柄が、刺客の顎を捉えた。
「がっ……!」
男が崩れ落ちる。
一方、黒衣の人物も、止まらない。
背後から斬りかかってきた刺客の剣を、短剣で受け流す。
力で押し返さない。
刃の軌道を逸らし、そのまま一歩懐へ入る。
手首。
肘。
肩。
次々に触れるだけのような動きで、相手の身体が崩れていく。
「なっ――」
男が体勢を立て直そうとした時には、すでに遅い。
黒衣の人物が足を掛ける。
重心を奪う、次の瞬間。
ドンッ!
「ぐっ!」
刺客の身体が、石畳へ叩きつけられた。
その腕を、そのまま背中側へ捻り上げる。
「動かないでください。」
「……っ!」
男の顔が苦痛に歪む。
アンは、僅かに目を見開いていた。
(すごい。)
自分とは違う。
アンは、剣で間合いを支配する。
相手の攻撃を受け流し、正面から戦力を削る。
けれど目の前の人物は、そもそも剣術の勝負をしていない。
手首。
関節。
重心。
死角。
相手が動けなくなる場所だけを、最短で選んでいる。
(戦い方が全然違う。)
そう思ったのも束の間。
残っていた刺客が、大きく後退した。
倒れた仲間。
アン。
そして、黒衣の人物。
順に視線を向ける。
「……撤退だ。」
初めて、声を発した。
次の瞬間、煙玉が地面へ叩きつけられる。
「待って!」
白煙が一気に広がった。
アンは、腕で口元を覆う。
数秒後、煙が晴れる。
動ける刺客たちの姿は、すでに消えていた。
残されたのは、黒衣の人物に取り押さえられている、一人だけだった。
◇
「……助かりました。」
アンは周囲を確認してから、剣を鞘へ戻した。
「いえ。」
短い返事。
低く抑えられた女性の声。
アンはその人物を見つめた。
黒い外套。
深いフード。
顔は見えない。
けれど、この声には覚えがある。
「以前も助けてくださいましたよね。」
黒衣の人物の動きが、ほんの僅かに止まった。
「……人違いでしょう。」
「そうですか?」
「ええ。」
「声が似てるんだけどな。」
「世の中には、似た声の者もおります。」
「……そういうことにしておきます。」
アンは小さく笑った。
それ以上、追及はしない。
今は、他に聞くべきことがある。
アンは、取り押さえられた刺客の前へしゃがんだ。
「誰の命令?」
「……。」
「僕を狙った理由は?」
「……。」
「木札を知ってる?」
その瞬間、男の瞳が、僅かに動いた。
アンはそれを見逃さなかった。
「やっぱり。」
懐へ手を当てる。
「これが目的なんだね。」
刺客は答えない。
黒衣の人物も男を押さえたまま、静かに尋ねた。
「依頼人は誰です。」
「……。」
「答えてください。」
穏やかな声。
けれど、男は口を閉ざしたまま、何も答えない。
その時だった。
黒衣の人物の視線が、男の顎へ落ちる。
「――口を開けなさい!」
「え?」
ガリッ。
何かを噛み砕く音。
「……!」
黒衣の人物が、男の顎を掴んだ。
けれど、遅い。
「ぐっ……!」
男の身体が大きく痙攣する。
口元から、黒ずんだ血が流れ落ちた。
「毒……!」
アンが駆け寄る。
黒衣の人物は、すぐに男の口元を確認した。
しかし男の身体から、急速に力が抜けていく。
数秒後。
完全に動かなくなった。
「……。」
アンは言葉を失う。
「死んでいます。」
「……自分で?」
「ええ。」
黒衣の人物が、男の口元を見つめる。
「奥歯に毒を仕込んでいたのでしょう。」
「そこまで……。」
アンは、倒れた男へ目を向ける。
捕らえられれば、情報を渡す前に自ら命を絶つ。
そこまで徹底している。
「普通の連中じゃないね。」
「ええ。」
黒衣の人物が、刺客の装備を簡単に確認する。
衣服。
短剣。
靴。
どこにも所属を示す紋章はない。
持ち物にも、名前へ繋がるものは残されていない。
「用意が良すぎますね。」
「……。」
アンは懐の木札へ触れる。
「ここまでして。」
一度、言葉を切る。
「これを隠したいんだ。」
黒衣の人物は答えなかった。
ただフードの奥から、静かにアンを見つめていた。
◇
ヴィオレットは、アンの横顔を見ていた。
先ほどまでの戦いが頭から離れない。
武器を扱える。
それくらいは、手を見た時点で分かっていた。
けれど、想像していた程度とは、まるで違った。
四人。
しかも、ただの賊ではない。
連携に慣れた暗殺者。
それを相手に、アンは、ほとんど一歩も退かなかった。
剣筋に迷いがない。
間合いの取り方も、相手の攻撃を流す動きも、身体へ染み付いている。
(……長い。)
数年、という程度ではない。
もっと、幼い頃から何度も、何度も、剣を握ってきた者の動き。
そして何より、あの構え。
「……。」
ヴィオレットの瞳が、僅かに細くなる。
どこかで見たような気がした。
すぐには思い出せない。
(あなたは、一体……。)
けれど、今ここで、問いただすつもりはなかった。
「今夜は宿へ戻ってください。」
黒衣の人物が立ち上がる。
「でも。」
「これ以上ここにいれば、逃げた者たちが仲間を連れて戻ってくる可能性があります。」
「……。」
「それに。」
一度、言葉を切る。
「今度も四人とは限りません。」
「……それはそうだね。」
アンは少し考え、やがて頷いた。
「分かりました。」
「それと。」
「はい?」
「頬を。」
アンが目を瞬かせる。
「傷があります。」
「ああ……。」
すっかり忘れていた。
指先で触れると、僅かに血が付く。
「これくらいなら大丈夫ですよ。」
「小さな傷でも、きちんと手当てしてください。」
「……分かりました。」
アンは少し困ったように笑う。
「なんだか怒られてばかりですね。」
「無茶をなさるからです。」
「……。」
アンが、黒衣の人物を見る。
「やっぱり、前にも会ってません?」
「人違いです。」
即答。
「早いなぁ。」
「人違いですから。」
「そういうことにしておきます。」
ほんの僅かに、フードの奥から笑う気配がした。
黒衣の人物が、外套を翻す。
「では。」
「待ってください。」
足が止まる。
「せめて、お名前だけでも。」
「必要ありません。」
「二回も助けてもらってるのに?」
「人違いです。」
「そこは絶対譲らないんですね。」
「ええ。」
「……。」
アンは少し呆れたように笑った。
次の瞬間、黒衣の人物が地を蹴る。
軽やかに倉庫の屋根へ飛び移った。
「え。」
さらに次の屋根へ。
そのまま、夜の闇へ消えていく。
「……。」
アンはしばらく、その方向を見つめていた。
「本当に何者なんだろう。」
名前も。
素性も。
何も分からない。
ただ危ないところへ現れて、二度も助けてくれた。
謎の女性。
「……不思議な人だな。」
アンは小さく呟く。
足元には、何も語らず命を絶った刺客。
懐には、命を狙われる原因となった木札。
そして名前すら明かさない、黒衣の女性。
木札を追えば追うほど、分からないことは増えていく。
それでも、引き返すつもりはなかった。
この木札が、十五年前から追い続けているものへ繋がっている可能性が、少しずつ高くなっているように思えたからだ。




