第30話 排除命令
王都。
ラミレス公爵邸。
執務室には、重苦しい静けさが漂っていた。
コンコン。
「失礼いたします。」
黒服の男が部屋へ入り、レオンハルトの前で一礼する。
「報告いたします。」
レオンハルトは書類から目を離さなかった。
「話せ。」
「例の焼き印について嗅ぎ回っている黒髪の女ですが、本日も市場に姿を見せております。」
「身元は。」
「判明しておりません。アンと名乗っておりますが、家名は明かしておらず、王都には旅人として滞在しております。」
「どこの家の者かも分からぬ、と。」
「はい。宿も調べましたが、身元に繋がるものは何も。」
そこで、レオンハルトのペンが止まった。
「連れは?」
「確認できません。」
「護衛も?」
「おりません。」
「……そうか。」
ペンを置き、ようやく顔を上げる。
「それで。どこまで調べている。」
「木札を持ち歩き、市場の商人や木工職人、荷運び、馬車屋などへ焼き印について尋ねております。」
「灰色亭には?」
「今のところ、近付いた形跡はございません。」
「こちらに繋がる情報は。」
「まだ掴んでいないものと思われます。」
レオンハルトは椅子へ背を預けた。
ならば、放っておいても構わない。
そう判断することもできる。
けれど。
「……妙だな。」
「何がでしょう。」
「ただの旅人が、何故そんなものを調べる?」
男は答えない。
「家名も明かさず、護衛も連れず、王都で裏の荷を探っている。誰かに雇われているのか。あるいは、自ら何かを追っているのか。」
「引き続き身元を探りますか。」
「ああ。」
男が頭を下げかける。
しかし。
「――いや。」
その一言で、動きが止まった。
「必要ない。」
「……よろしいので?」
「名も素性も分からぬ。背後に誰がいるかも分からぬ。だからこそ厄介なのだ。」
レオンハルトの指先が、机をゆっくりと叩く。
「それに、あの焼き印まで辿り着いている時点で、偶然迷い込んだだけの女ではあるまい。」
これまでにも、痕跡は幾つも消してきた。
酒瓶。
木札。
灰色亭を経由する人間たち。
それらが一本の線として繋がることだけは、避けなければならない。
まして、その先にある十五年前の一件まで辿られるわけにはいかなかった。
「少々、近付き過ぎた。」
男の表情が僅かに強張る。
レオンハルトは、何でもないことのように告げた。
「消せ。」
「……。」
「聞こえなかったか?」
「いいえ。ですが、相手の素性が分かっておりません。貴族の関係者である可能性もございます。」
「だから何だ。」
穏やかだった声から、温度が消える。
「名乗れぬ事情があるのなら、こちらには好都合だ。王都へ一人で現れた旅人が、一人いなくなる。それだけのことだ。」
レオンハルトは再び書類へ手を伸ばした。
「始末しろ。こちらへ繋がるものは何一つ残すな。木札も回収しろ。」
「承知いたしました。」
男は深く頭を下げ、静かに部屋を後にした。
扉が閉じる。
レオンハルトは、何事もなかったように書類へ目を戻した。
「好奇心は、時に命より高くつく。」
◇
同じ頃。
宿へ戻ったアンは、机の上へ木札を置いていた。
「……。」
今日も決定的な収穫はなかった。
けれど、何も分からなかったわけではない。
焼き印を見せた瞬間、僅かに強張る顔。
急に口数が減る商人。
知らないと言いながら、木札から目を逸らす者。
「やっぱり、この焼き印は過去のものじゃない。」
アンは木札を指先で転がす。
今も使われている。
だから、人々は恐れている。
知らないから話せないのではない。
知っているから、話そうとしない。
「だとしたら……。」
この印を使っている者たちは、今も王都のどこかで動いている。
そして、自分が嗅ぎ回っていることも、知られている可能性がある。
「……少し目立ちすぎたかな。」
アンは苦笑し、紅茶へ手を伸ばした。
その時だった。
カタン。
「……?」
窓の外。
屋根瓦が小さく鳴った。
アンの手が止まる。
しばらく待つ。
何もない。
(風……?)
そう思い、カップを口元へ運ぶ。
カタン。
今度は、先ほどより少し遠い。
「……。」
アンは顔を動かさない。
視線だけを、窓へ向ける。
夜の王都。
向かいの建物。
屋根の上を、黒い影が一瞬だけ横切った。
(人……。)
すぐに見えなくなる。
けれど、気のせいではない。
アンは紅茶を一口飲み、何事もなかったようにカップを置いた。
そして、今度は反対側。
僅かな気配。
(……一人じゃない。)
少なくとも二人。
昨日の尾行が頭をよぎる。
あの時も、何者かに後をつけられた。
けれど少なくとも、すぐに仕掛けてくる様子はなかった。
一定の距離を保ち、こちらの動きを窺っていた。
だが今夜は違う。
近い。
そして、隠しきれない何かがある。
(……殺気?)
アンの表情が変わった。
昨日の尾行と、同じ者たちなのかさえ分からない。
けれど今夜の相手が、自分を見ているだけではないことは分かった。
アンは静かに立ち上がる。
窓へ近付き、何気ない動作でカーテンを閉じた。
そのまま部屋の灯りを落とす。
「……。」
廊下の向こうへ視線を向けた。
宿には、自分以外の客もいる。
主人も従業員も、この件とは何の関係もない。
ここで何か起きれば、巻き込むことになる。
「……ここは駄目だな。」
アンは旅装束の上着を羽織った。
木札を懐へしまう。
それから、荷物の中から細身の剣を取り出した。
鞘から僅かに抜く。
刃を確認し、すぐに戻す。
その動きに迷いはなかった。
剣は、護身のためだけに覚えたものではない。
領主として自分の身を守るため。
そして、必要とあれば、領民を守るため。
幼い頃から、ヴァルティエ家の騎士たちに混じって鍛え続けてきた。
アレンが剣を扱えることを知る者はいる。
けれど、その本当の実力まで知っている者は、ヴァルティエ家の騎士たちをはじめとした、ごく限られた者だけだった。
今は、アンだ。
ここで剣を振るえば、自分についての情報を相手へ与えることになる。
「……なるべく見せたくないんだけどな。」
小さく息を吐く。
それでも、使わずに済むとは限らない。
アンは必要最低限のものだけを身につけた。
残りの荷物は置いていく。
逃げるためではない、相手の目的を確かめるため。
そして、宿から引き離すためだ。
ここで戦えば、宿の客を巻き込む。
表通りなら、通行人がいる。
なら、人のいない場所へ連れていく。
(狙いが僕なら、ついてくる。)
アンは静かに扉を開いた。
◇
夜の王都。
昼間の喧騒は消え、通りを歩く人の姿も少ない。
アンは一人、石畳を歩いていた。
急がない。
振り返らない。
気づいていないように。
ただ、人の少ない方へ、少しずつ進んでいく。
(……来てる。)
見なくても分かる。
一つ。
もう一つ。
気配が一定の距離を保ちながら付いてきている。
アンは曲がり角を一つ抜ける。
背後の気配も、ついてくる。
(やっぱり僕が目的か。)
偶然ではない。
アンは歩調を変えないまま、周囲へ視線を走らせた。
左右の建物。
路地の幅。
逃げ道。
人家の灯り。
すべてを頭へ入れていく。
まだ、ここでは人家が近い。
戦うことになれば、誰かを巻き込む可能性がある。
もう少し先、倉庫の並ぶ一帯なら、この時間に人はほとんどいない。
アンは、何も知らない旅人を装ったまま、その方向へ歩いていく。
離れた屋根の上。
二つの影が、アンの背中を見下ろしていた。
「動いたな。」
「ああ。」
「気づかれたか?」
「どちらでもいい。」
一人が腰の短剣へ手を掛ける。
「自分から人気のない方へ向かっている。」
「手間が省けた。」
二人は顔を見合わせた。
「木札も回収する。」
「分かっている。」
次の瞬間。
二つの影が、音もなく屋根を蹴った。
◇
倉庫街へ続く道。
アンの耳が、僅かな着地音を拾った。
(降りてきた。)
一人、右後方。
もう一人は、まだ屋根の上。
それでもアンは足を止めない。
腰の剣にも触れない。
まだ、相手から仕掛けてはいない。
「……。」
けれど、背後から向けられる気配には、先ほどよりも、はっきりとした殺意が混じっていた。
(やっぱり。)
監視ではない。
脅すためでもない。
ここまで来れば、さすがに分かる。
(僕を殺しに来た。)
そこで初めて、アンの右手が静かに剣の柄へ添えられた。
怖くないわけではない。
相手が何者なのかも、どれほどの腕なのかも分からない。
けれど、剣を握れば、身体は自然と落ち着いていく。
何千回、何万回と繰り返してきた動作だった。
「……。」
背後の足音が速くなる。
アンは振り返らない。
ただ、僅かに重心を落とした。
「今日は、ただじゃ済まなそうだね。」
夜の王都。
人気の消えた倉庫街で、狙う者と狙われる者。
その距離が静かに縮まり始めていた。




