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第29話 手の記憶


 昨日の出来事は、まだ胸の奥に残っていた。


 黒い外套。


 深く被られたフード。


 王都の裏路地を迷いなく進む足取り。


 そして。


『困っている方を見捨てる趣味はありませんので』


「……何者だったんだろう。」


 宿を出たアンは、小さく息を吐いた。


 考えても答えは出ない。


 あの人物が自分を助けてくれた。


 分かっているのは、それだけだ。


「考えてても仕方ないか。」


 今日は木札を懐へしまったまま。


 聞き込みも、一度休むことにした。


 ここ数日同じ焼き印を見せて、あちこち歩き回っている。


 昨日はとうとう何者かに尾行までされた。


 ならば、少し動きを変えた方がいい。


「今日は普通に街を見るか。」


 アンは人通りの多い市場へ向かった。


     ◇


 同じ頃。


 ローラン邸。


「お嬢様。」


 侍女が一枚の紙を手に、ヴィオレットのもとへやってきた。


「アンさんが宿を出られました。」


「今日は?」


「木札を見せて回っている様子はございません。市場を見て歩いていらっしゃいます。」


「そう。」


 ヴィオレットは読みかけていた本を閉じた。


 昨日、アンは何者かに尾行されていた。


 その相手については、こちらでも調べさせている。


 まだ正体は掴めていない。


 そしてアン自身も、相変わらず謎が多い。


 家名を名乗らない。


 旅人でありながら、貴族として教育を受けたような所作を身につけている。


 焼き印の付いた木札について調べている。


 尾行にもすぐに気づいた。


「……少し、お話ししてみましょうか。」


「お嬢様から?」


「いいえ。」


 ヴィオレットは微笑んだ。


「偶然お会いしたことにします。」


 侍女が僅かに目を細める。


「偶然、ですか。」


「ええ。」


「昨日も居場所を調べさせていらしたような。」


「偶然です。」


「左様でございますか。」


「何か?」


「いいえ。」


 ヴィオレットは立ち上がる。


「市場へ参りましょう。」


     ◇


 市場では、今日も多くの人が行き交っていた。


 アンは露店に並ぶ品々を眺めながら、ゆっくりと歩いている。


「これ、綺麗だな。」


 小さな金属細工を手に取る。


「お嬢さん、お目が高いね。」


「領――」


 言いかけて。


 アンは止まった。


「……いえ、知り合いへの土産に良さそうだと思って。」


「贈り物かい?」


「そんなところです。」


 危ない。


 領地の商人なら喜びそうだ。


 そう言おうとしていた。


(アンはただの旅人だった。)


 内心苦笑する。


 品を戻し、礼を言って店を離れた。


 すると。


「あら。」


 聞き覚えのある声がした。


「……。」


 振り返る。


 そこには、淡い色のドレスを纏ったヴィオレットが立っていた。


 少し後ろには、いつもの侍女。


「アンさん。」


「ヴィオレット様。」


 アンが微笑み、一礼する。


「またお会いしましたね。」


「本当に。」


 ヴィオレットも柔らかく笑った。


「随分とご縁がありますね。」


「そうですね。」


 アンも素直に頷く。


 もちろん、アンは知らない。


 今日の出会いがヴィオレットにとっては、ほとんど偶然ではないことを。


「今日はお買い物ですか?」


「はい。少し市場を見ていました。」


「私もです。」


 ヴィオレットは何食わぬ顔で答える。


 侍女だけが、ほんの僅かに目を逸らした。


「もしご予定がなければ。」


「はい?」


「また、お茶でもいかがですか?」


 アンは少し驚いた。


「私でよろしいのですか?」


「もちろんです。」


「では。」


 アンが微笑む。


「喜んで。」


     ◇


 二人は近くの喫茶店へ入った。


 窓際の席へ案内され、ヴィオレットの侍女は、少し離れた場所へ控える。


「王都には慣れましたか?」


「少しずつですが。」


「今日は調べ物ではないのですね。」


「……。」


 アンが一瞬止まる。


「調べ物?」


「あ。」


 ヴィオレットは自然に微笑んだ。


「以前、市場を歩き回っていらしたので。何かお探しなのかと思っただけです。」


「そういうことですか。」


 アンは特に疑うことなく頷いた。


「今日は休憩です。歩き回ってばかりだと疲れますから。」


「それがよろしいと思います。」


「ヴィオレット様は、よくこの辺りへ?」


「体調の良い時だけです。」


「今日も大丈夫ですか?」


「ええ。ありがとうございます。」


 ヴィオレットは柔らかく笑う。


「アンさんは、王都でお気に召した場所はできました?」


「市場は好きですね。」


「賑やかな場所がお好きなのですか?」


「賑やかというより、色々なものが見られるので。」


 アンは窓の外へ目を向ける。


「その土地の人が何を買って、何を売って、どんなものを必要としているのかを見るのが好きなんです。」


「……。」


 ヴィオレットが僅かに目を細める。


「随分と商いに詳しい見方をなさるのですね。」


「あ。」


 アンが一瞬黙った。


「旅をしていると、自然に。」


「そういうものなのですね。」


 ヴィオレットはそれ以上追及しない。


 ただ一つ、また覚えておく。


     ◇


 しばらくして。


 紅茶と焼き菓子が運ばれてきた。


「良い香り。」


 アンがカップへ手を伸ばす。


 その時ヴィオレットの視線が何気なく、その手へ落ちた。


「……。」


 白く細い指。


 短く整えられた爪。


 一見すれば若い女性らしい、綺麗な手。


 けれど、ヴィオレットは気づいた。


 親指の付け根。


 人差し指。


 中指。


 ほんの僅かに。


 皮膚が硬くなっている。


(……これは。)


 何かを長く握ってきた者の手だ。


 しかも。


 時々ではない。


 繰り返し。


 長い年月。


 同じ動きを続けてきた痕。


(剣を嗜んでいる……?)


 ヴィオレット自身。


 武器を扱う。


 だからこそ分かる。


 護身術を少し習っただけなら、ここまでは残らない。


「ヴィオレット様?」


「……はい?」


「何か?」


 アンが首を傾げている。


 ヴィオレットはすぐに微笑んだ。


「いいえ。綺麗なカップだと思って見ておりました。」


「本当ですね。」


 アンは疑う様子もなく、カップの模様を見る。


 ヴィオレットも紅茶へ口をつけた。


 そしてもう一度だけ、アンの手を見る。


(旅をしているだけの方ではない。)


 だからといって、それ以上の答えが出るわけではない。


 ただまた一つ。


 アンという女性の中に、表からは見えないものが増えただけだった。


「ヴィオレット様は甘いものがお好きなんですね。」


 アンが笑う。


「分かります?」


「前のお店でも嬉しそうでしたから。」


「まあ。」


 ヴィオレットが少し恥ずかしそうに口元へ手を添えた。


「そんなに顔に出ていました?」


「少しだけ。」


「アンさんは?」


「僕――」


 止まった。


「……私は、甘すぎないものなら。」


 ヴィオレットが瞬きをする。


「今、何か?」


「いいえ。」


 アンは涼しい顔をして紅茶を飲む。


(危ない。)


 一人称まで、油断すると出るらしい。


 ヴィオレットは特に追及しなかった。


 けれどまた、小さな違和感を一つ覚えた。


 やがて、席を立つ時間になった。


「今日はありがとうございました。」


「こちらこそ。」


 アンも立ち上がる。


「また偶然お会いしたら。」


「ええ。」


 ヴィオレットが微笑む。


「その時も、ぜひ。」


「楽しみにしています。」


 二人は一礼を交わし、アンは店を後にした。


     ◇


 アンの姿が見えなくなってから。


 侍女がヴィオレットの隣へ戻ってきた。


「お嬢様。」


「何?」


「本当に偶然でしたね。」


「……。」


 ヴィオレットが侍女を見る。


「何か言いたいことが?」


「いいえ。」


「偶然です。」


「承知しております。」


「その顔は信じていませんね?」


「とんでもございません。」


 ヴィオレットは小さく息を吐く。


 けれど、すぐに表情を戻した。


「それより。」


「はい。」


「アンさんについて、少し分かったことがあります。」


「何でしょう?」


「剣を扱っています。」


 侍女の表情が変わった。


「剣を?」


「おそらく。」


 ヴィオレットは自分の手を見る。


「手に痕がありました。少なくとも、最近始めたものではありません。」


「では、護身のために?」


「それだけではないと思います。」


 旅をしている。


 家名を明かさない。


 淑女として十分な教育を受けている。


 市場や物流を見る視点にも慣れている。


 焼き印について調べている。


 尾行にすぐ気づく。


 そして剣を長く扱ってきた手。


「随分と色々なものをお持ちの方ですね。」


「ええ。」


「ますます怪しいのでは?」


「怪しいとは思っていません。」


「では?」


 ヴィオレットは少し考える。


「……気になるだけです。」


 今のところ、アンを疑う理由はない。


 自分に害意を向けているわけでもない。


 ただ見えている姿と、その内側にあるものが、どうにも噛み合わない。


「家名については、やはりお尋ねにならないのですね。」


「ええ。」


 ヴィオレットは迷わなかった。


「話したくないことを、無理に聞くつもりはありません。」


 自分だって表では病弱な令嬢を演じている。


 人には知られたくない顔があることくらい、誰よりよく知っている。


「ただ。」


「はい?」


「アンさんが何を隠しているのか。」


 ヴィオレットは、アンが去った方向を見る。


「少しずつ、気にはなってきましたけれど。」


 その疑問はまだ。


 特定の誰かへ結びついてはいない。


 ただ純粋に、アンという一人の女性へ向けられた興味として、静かにヴィオレットの中で大きくなり始めていた。


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