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第28話 黒衣の案内人


 翌日。


 アンは再び、木札を手に王都を歩いていた。


 商人。


 木工職人。


 荷運び。


 馬車屋。


 少しでも荷の流れに関わっていそうな場所を、一つずつ回っていく。


「失礼します。」


 今日、何軒目になるだろう。


 小さな店へ入り、アンは懐から木札を取り出した。


「こちらの焼き印に、見覚えはありませんか?」


「焼き印?」


 店主が何気なく木札を受け取る。


 そして。


「……。」


 焼き印を見た瞬間、目が僅かに見開かれた。


 ほんの一瞬、すぐに表情は戻る。


「知らないな。」


「そうですか。」


「ああ。見たこともない。」


 木札を返すと、店主は逃げるように店の奥へ引っ込んでしまった。


「……ありがとうございました。」


 返事はなかった。


 アンは店を出る。


 木札を懐へしまいながら、小さく息を吐いた。


(まただ。)


 知らない者の反応ではない。


 ここ数日、同じようなことが何度もあった。


 焼き印を見た途端に、目を逸らす、口を閉ざす、急に話を切り上げようとする。


(知ってる。)


 なのに誰も話そうとはしない。


 それだけではない。


(……怖がってる?)


 単に関わりたくないのではない。


 何かを恐れている。


 そんな印象が強かった。


 だとすれば、この焼き印の先にいるのは、ただの商人ではない。


「……。」


 アンは人通りの多い通りを歩き始めた。


 その時、小さな違和感を覚えた。


 足音。


 人混みの中では、いくつもの足音が重なっている。


 それでも、妙に同じ距離を保ったまま続くものがある。


(……付けられてる。)


 アンは振り返らなかった。


 気づいていないふりをしたまま歩き続ける。


 露店の硝子へ、何気なく視線を向けた。


 映り込んだ人影。


 一人。


 もう一人。


(少なくとも二人。)


 誰なのか、目的は何なのか、分からない。


 木札について嗅ぎ回っている自分を警戒した者か、それとも、まったく別の理由なのか。


 アンは歩調を変えず一つ角を曲がった。


 少し遅れて、足音も曲がる。


(間違いない。)


 表通りにいる限り、相手も何もしてこないだろう。


 けれどこのままでは、誰なのかも分からない。


 アンは少し先にある細い路地へ視線を向けた。


 そのまま何気ない様子で入り込む。


 店の裏手。


 人通りが一気に少なくなった。


 後ろの足音が、少しずつ近づいてくる。


「……。」


 アンの右手が、無意識に腰へ伸びかけた。


 けれど、そこに剣はない。


(しまった。)


 今は旅人のアンだ。


 小さな護身用の刃物は持っている。


 だが、二人以上を正面から相手にするには心許ない。


 さらに角を曲がる。


 背後の足音が速くなった。


(来る。)


 アンも走り出そうとした、その時。


「こちらへ。」


「……!」


 横から、低く抑えた声がした。


 振り向く。


 建物と建物の間。


 人一人が通れるほどの狭い隙間に、一人の人物が立っていた。


 黒い外套、深く被ったフード。


 顔は影に隠れている。


 体格から、おそらく女性。


 けれど声まで意図的に低く作られていて、年齢すら分からない。


「早く。」


 もう一度、短く促される。


 アンは一瞬だけ相手を見た。


(誰……?)


 怪しい。


 どう考えても怪しい。


 けれど、背後から迫る足音も本物だ。


「……分かりました。」


 迷っている時間はない。


 アンは黒衣の人物の後を追い、狭い隙間へ入った。


「こちらです。」


 黒衣の人物は迷わない。


 細い路地を右へ。


 次は左。


 積まれた木箱の間をすり抜け、裏庭のような場所を横切る。


「待っ――」


「声を出さないで。」


「……。」


 アンは口を閉じた。


 後ろから、まだ足音が聞こえている。


 黒衣の人物が、道端に積まれていた空の木箱へ手を掛けた。


「失礼。」


「え?」


 がたんっ。


 木箱が通路へ倒れる。


 直後。


「くそっ!」


 男の声が聞こえた。


(やっぱり追われてた。)


 アンの表情が引き締まる。


「こっち。」


 再び促される。


 荷馬車の陰へ入り、そこから建物の裏を抜ける。


 小さな中庭。


 洗濯物が干された家の間。


 さらに、人一人が通るのがやっとの細道。


(すごいな。)


 王都へは何度も来ている。


 けれど、こんな道は知らない。


 表通りだけを歩いていたのでは、まず気づかない。


 そんな場所を目の前の人物は、自宅の廊下でも歩くように進んでいく。


(王都の裏道を知り尽くしてる。)


 やがて、黒衣の人物が足を止めた。


「ここまで来れば大丈夫です。」


 アンも立ち止まる。


 耳を澄ませた。


「……。」


 何も聞こえない。


 先ほどまであった足音も、人の気配も完全に消えている。


「撒いた……。」


「ええ。」


 アンは息を整えると、改めて目の前の人物を見た。


「助かりました。ありがとうございます。」


「お気になさらず。」


「でも。」


 アンは僅かに目を細める。


「どうして、私が追われていると分かったんですか?」


「……。」


 一瞬、沈黙が落ちた。


「たまたま見かけました。」


「たまたま?」


「ええ。」


「……。」


 随分と都合のいい偶然だ。


 王都の裏道を知り尽くし、自分が尾行されているところへ現れ、見事に追手を撒いた。


 ただの通行人には、どう考えても見えない。


 けれど助けられたのも事実だった。


「あなたは?」


「知らない方がよろしいかと。」


「名前も?」


「ええ。」


「……王都って、不思議な人が多いね。」


「そうかもしれません。」


 黒衣の人物が歩き出す。


「では。」


「待ってください。」


 アンが呼び止める。


 足が止まった。


 けれど振り返らない。


「一つだけ聞いても?」


「何でしょう。」


「どうして助けてくださったんですか?」


「……。」


 今度は、少しだけ沈黙が長かった。


「困っている方を見捨てる趣味はありませんので。」


「……。」


 アンの目が僅かに細くなる。


(なんだろう。)


 一瞬、何かが引っかかった。


「では。」


「あ……。」


 黒衣の人物が歩き出した。


 今度は止まらない。


 角を曲がる。


 アンも数秒遅れて後を追った。


「待って――」


 角を曲がる。


「……え?」


 誰もいない。


 細い路地が、左右へ伸びているだけ。


 ほんの数秒、走ったとしても、簡単に姿を消せるような場所ではない。


「……どこ行ったの。」


 アンは周囲を見回す。


 扉。


 窓。


 建物の隙間。


 どこにも人影はない。


「……。」


 しばらく、その場へ立ち尽くした。


「何者だったんだろう。」


 助けてくれた。


 それだけは確かだ。


 けれど何故、あれほど都合よく現れたのか。


「……たまたま、ね。」


 アンは小さく苦笑する。


「とりあえず、戻ろう。」


 宿へ向かうため、アンは歩き出した。


 今度は、何度か背後を確かめながら。


     ◇


 アンが立ち去って、少ししてから。


 建物の屋根の上。


「……行きましたね。」


 先ほどまでの低い声とは違う、柔らかな女性の声がした。


 黒いフードを外す。


 風に揺れたのは、長い紫色の髪。


 ヴィオレットだった。


「お嬢様。」


 別の屋根から、一人の女性が姿を現す。


 普段、ヴィオレットの侍女として付き従っている、ローラン家の構成員だった。


「ご無事で何よりです。」


「私は何もしていませんよ。」


「十分になさっております。」


「そうでしょうか?」


「屋根へ上がっていらっしゃる時点で、病弱な侯爵令嬢の行動ではございません。」


「誰にも見られておりませんから。」


「そういう問題ではないと思いますが。」


 ヴィオレットは気にした様子もなく、下の通りへ視線を向けた。


 もうアンの姿は見えない。


「それにしても。」


「はい?」


「思っていた以上に勘の鋭い方でした。」


 尾行へ気づくまで、それほど時間は掛かっていない。


 振り返りもせず、露店の硝子を利用して、人数まで確認していた。


「普通の旅人ではございませんね。」


「ええ。」


 ヴィオレットの瞳が僅かに細くなる。


 黒髪の旅人が、焼き印の付いた木札について聞き回っている。


 その報告を受けてからローラン家の者に、接触せず動向だけを見るよう命じていた。


 そして今日、アンを追っていたのはローラン家の構成員だけではなかった。


「先ほどの二人は?」


「こちらでも身元を調べます。」


「お願い。」


「お嬢様を追っていたわけではなさそうですね。」


「ええ。」


 狙いは明らかにアンだった。


 そして、アンが尾行され始めたのは木札について聞き回ったあと。


 偶然とは考えにくい。


「彼女が追っている木札は。」


 ヴィオレットが静かに続ける。


「やはり、私たちが追っているものと同じ可能性が高そうですね。」


「はい。」


「だとすれば。」


 一度、言葉を切る。


「彼女をこのまま放置して、口を塞がれてしまうのは困ります。」


 もちろん、それだけではない。


 昨日、向かい合って紅茶を飲んだ。


 不思議な旅人。


 何故か放っておけない。


「……。」


 ヴィオレットは少し考える。


「アンさんは、一体何を知っているのでしょうね。」


「お聞きになればよかったのでは?」


「それでは警戒されてしまいます。」


「先ほど助けておいて、ですか?」


「助けたことと、探ることは別でしょう?」


「左様でございますか。」


「それに。」


 ヴィオレットは少しだけ笑った。


「ご自分から話してくださるまでは、待ってみてもよいかと。」


 昨日見た、耳の後ろの黒子。


 隠している家名。


 身についた淑女の作法。


 時折崩れる口調。


 そして今日、尾行へすぐに気づいた鋭さ。


 一つずつ違和感は増えている。


 それなのにまだ、答えだけが見えない。


「やはり。」


「はい?」


「放っておけない方ですね。」


 ヴィオレットは再びフードを被った。


「戻りましょう。」


「はい。」


 二人の姿が、王都の屋根の向こうへ消えていく。


 アンはまだ知らない。


 自分を助けた黒衣の案内人が、昨日向かい合って紅茶を飲んだ、あの病弱な侯爵令嬢だったことを。


 そして自分が木札へ近づくほど、同じ木札を追うヴィオレットとの道も、確実に重なり始めていることを。


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