第3話 止められた一杯
夜会も終盤に差しかかっていた。
広間では楽団の演奏が続き、あちこちで談笑する声が重なっている。
アレンも貴族との会話を終え、ようやく一息ついたところだった。
「アレン卿。」
「ん?」
声に顔を上げる。
すぐそばには、ヴィオレットがいた。
先ほどまでと変わらない、儚げな微笑みを浮かべている。
「今夜は随分とお飲みになるのですね。」
「そう見える?」
「ええ。先ほどから何杯も。」
「まあ、いつものことだから。」
アレンが苦笑する。
「ヴィオレット嬢は?」
「私はあまり。」
「身体が弱いって聞いてるし、無理しない方がいいよ。」
「お気遣いありがとうございます。」
ヴィオレットが微笑む。
その姿だけを見れば、やはり噂通りの令嬢にしか見えない。
華奢で。
儚げで。
少し強い風でも吹けば、倒れてしまいそうな。
「ヴァルティエ様。」
そこへ。
給仕が銀の盆を手に近づいてきた。
「今年仕込まれた葡萄酒でございます。いかがでしょうか。」
「ありがとう。」
アレンは差し出されたグラスを受け取る。
琥珀色の液体。
何気なくグラスを傾け。
香りを確かめる。
「……。」
ほんの僅かに。
アレンの目が細くなった。
葡萄酒の甘い香り、その奥に混じる微かな薬草の匂い。
(睡眠薬……?)
もう一度。
気づかれない程度に香りを確かめる。
間違いない。
領主として育てられる中で、毒物や薬物についても、嫌というほど叩き込まれてきた。
まして、アレン自身。
幼い頃から少量ずつ薬物を摂取し、耐性をつける訓練まで受けている。
睡眠薬。
痺れ薬。
その程度なら。
普通の人間より、遥かに効きにくい。
(量も多くない。)
少なくとも、香りから判断する限りでは、命を奪うためのものではない。
眠らせることが目的だろう。
(僕を眠らせて、どうするつもりなんだろう。)
むしろ。
そちらの方が気になった。
誰が何のために、自分へ薬を盛ったのか。
飲んだふりをして、酔ったように振る舞ってみるのも悪くない。
アレンはそう判断すると、何食わぬ顔でグラスを口元へ運んだ。
その瞬間。
「お待ちください。」
「え?」
ぐっ。
腕を掴まれた。
グラスが唇へ届く寸前で止まる。
「……ヴィオレット嬢?」
掴んでいるのは。
ヴィオレットだった。
先ほどまでの柔らかな表情は消えている。
紫色の瞳が。
真っ直ぐにグラスを見ていた。
「それは、飲まない方がよろしいかと。」
「……どうして?」
「お願いいたします。」
「いや、でも――」
アレンは掴まれた腕を引こうとした。
だが。
「……?」
動かない。
もう一度。
少しだけ力を込める。
「……。」
やはり。
動かない。
(え?)
アレンは思わずヴィオレットの手を見る。
細い指。
華奢な手首。
どう見ても。
力が強いようには見えない。
(ちょっと待って。)
もう少し力を入れる。
それでも。
びくともしない。
(嘘でしょ。)
アレンは剣を扱う。
日頃から鍛錬もしている。
少なくとも。
華奢な令嬢に腕を掴まれて、振りほどけないほど非力ではない。
――はずだった。
「ヴィオレット嬢。」
「はい。」
「……腕。」
「え?」
ヴィオレットが自分の手を見る。
そこで初めて。
アレンの腕を強く掴んでいることに気づいたように目を見開いた。
「申し訳ございません。」
ぱっと手を離す。
「少々、力が入ってしまいました。」
「少々……。」
アレンは掴まれていた腕を見る。
(これが少々?)
少々で振りほどけないなら。
本気で掴まれたらどうなるのだろう。
考えないことにした。
周囲も、二人の様子に気づき始めている。
「どうした?」
「何かあったのか?」
ヴィオレットは周囲の声には構わず。
給仕へ視線を向けた。
「そのお酒を、調べていただけませんか。」
「酒を、ですか?」
「ええ。」
給仕が困惑する。
「しかし、こちらは先ほど開けたばかりの――」
「お願いいたします。」
穏やかな声。
けれど有無を言わせない何かがあった。
給仕は戸惑いながらも。
「……承知いたしました。」
アレンからグラスを受け取る。
そのまま責任者のもとへ運ばれていった。
アレンは何も言わず。
隣にいるヴィオレットを見る。
「……。」
ヴィオレットも。
グラスが運ばれていく方向を見つめている。
(気づいた?)
あの酒に薬が入っていることを。
(でも、どうやって。)
自分は知識があるから分かった。
香りも知っている。
耐性訓練まで受けてきた。
けれどヴィオレットは、王都で病弱と噂される伯爵令嬢だ。
そんな人物が一目見ただけで薬の混入に気づくものだろうか。
アレンはちらりとヴィオレットの腕を見る。
(振りほどけなかった時点で、噂通りの人じゃない気はするけど。)
とはいえ。
それだけで何かが分かるわけではない。
力が強い女性だっている。
薬について詳しい令嬢がいても、別におかしくはない。
少し不思議ではあるけれど。
今はそれ以上でもなかった。
しばらくして、慌ただしい足音が響いた。
「申し訳ございません!」
厨房の責任者が青ざめた顔で駆け込んでくる。
その声に。
広間の空気が変わった。
「どうした?」
「何があった?」
責任者が深く頭を下げる。
「先ほどのお酒から、睡眠作用のある薬物が検出されました!」
ざわっ。
一斉にどよめきが広がった。
「薬物だと?」
「誰がそんなものを!」
「ヴァルティエ卿を狙ったのか?」
騎士たちが動き始める。
アレンはその様子を見ながら。
小さく息を吐く。
(やっぱり。)
自分の判断は間違っていなかった。
けれど。
今はそれより。
気になることがある。
「ヴィオレット嬢。」
「はい。」
ヴィオレットが振り返る。
「どうして分かったの?」
「……。」
一瞬。
本当に一瞬だけ、ヴィオレットの返事が遅れた。
「以前、似た香りの薬を嗅いだことがございましたので。」
「へぇ。」
「念のため、お止めしただけです。」
「そうなんだ。」
「はい。」
アレンはヴィオレットを見る。
穏やかな微笑み。
先ほどまでと変わらない。
病弱で滅多に夜会へ姿を見せない。
社交界の花。
(……そういうこともあるか。)
少し引っかかりはする。
けれど追及するほどのことでもない。
何より。
ヴィオレットが止めなければ、自分はあの酒を口にしていた。
効かないと分かっていたとしても、助けようとしてくれたことに変わりはない。
「ありがとう。」
「……。」
ヴィオレットが僅かに目を見開いた。
「僕は大丈夫だったと思うけど。それでも、止めてくれたんでしょ?」
「……ええ。」
「だったら、ありがとう。」
ヴィオレットはしばらくアレンを見つめていた。
やがて。
ふっと表情を緩める。
「ご無事で何よりです。」
その笑顔は。
やはり儚げな令嬢そのものだった。
◇
夜会を終え帰りの馬車。
アレンは座席へ身体を預けながら、何となく自分の腕を見た。
「……。」
掴まれていた場所を。
反対の手で握ってみる。
「……やっぱり気のせいじゃないよね。」
あの時。
確かに振りほどけなかった。
少しではあるが、自分も本気で腕を引いた。
それでも動かなかった。
「病弱……。」
今日見たヴィオレットを思い出す。
ゆっくりとした歩き方。
華奢な身体。
儚げな笑顔。
そして。
びくともしなかった自分の腕。
「……病弱って、何だろう。」
アレンは首を傾げた。
考えてもやはり分からなかった。
◇
一方。
ローラン家へ戻ったヴィオレットは自室で一人、小さく息を吐いていた。
「……失敗いたしましたわ。」
自分の手を見る。
アレンの腕を掴んだ時、完全に力加減を忘れていた。
止めなければ。
そのことしか頭になかった。
「怪しまれたでしょうか……。」
少なくとも、振りほどこうとはしていた。
それでも離さなかった。
いや正確には。
離すことを忘れていた。
「……。」
ヴィオレットは目を伏せる。
あの時、アレン卿は酒に薬が入っていると気づいていたのだろうか。
それは分からない。
ただ、あのまま飲ませる気にはなれなかった。
何が起きるか分からない以上、止めるべきだと思った。
結果として自分の一面を少し見せてしまったとしても。
「まあ……。」
ヴィオレットは自分の手を握る。
「無事でしたものね。」
それなら。
今は、それでいい。
ただ一つ。
次にアレンの腕を掴むことがあれば。
もう少し力加減には気をつけよう。
ヴィオレットはそう心に決めた。




