第25話 王都の街
アンを乗せた馬車は、王都へ到着した。
重厚な城門をくぐれば、見慣れた街並みが広がっている。
夜会や公務で、幾度となく訪れた場所。
けれど、今日は少しだけ景色が違って見えた。
領主アレン・ヴァルティエとしてではない。
一人の旅人――アンとして、この街を歩くのだから。
◇
宿へ荷物を預けると、アンは部屋の鏡の前に立った。
腰まで流れる黒髪。
黒に近い、深い藍色の瞳。
身体の線を隠す必要もないため、旅装束の上からでも女性らしい体つきが分かる。
髪へ手を伸ばし、ウィッグの固定を確かめる。
「大丈夫そうだね。」
最後に、木札を懐へ入れた。
「よし。」
鏡の中にいるのは、どこから見ても、一人の若い女性だ。
アンは部屋を出ると、そのまま王都の街へ足を踏み出した。
◇
昼の王都は、多くの人で賑わっていた。
露店には色鮮やかな布や装飾品が並び、香辛料や焼き菓子の匂いが漂っている。
「こっちだったかな。」
人混みを歩きながら、目的の店がある方角を思い出す。
一人でいる時は、自然と普段の口調へ戻っていた。
「お嬢さん、見ていかないかい?」
露店の商人から声を掛けられる。
アンは足を止めた。
「ありがとうございます。少し見せていただいてもよろしいですか?」
「もちろん!」
並べられた品をいくつか眺め、最後には丁寧に礼をして、その場を離れる。
男として振る舞う時とは違う。
柔らかな身のこなし。
自然な微笑み。
幼い頃から身につけてきた淑女としての作法は、今でも身体が覚えていた。
「意外と忘れてないものだな。」
そんなことを呟きながら歩いていた、その時。
大通りの先が、僅かにざわついた。
「ローラン家のご令嬢よ。」
「まあ、珍しい。」
「今日はお加減がよろしいのね。」
聞こえてきた名前に、アンが足を止める。
「……ヴィオレット嬢?」
一台の白い馬車が、通りの脇へ停まっていた。
扉が開き、先に降りた侍女が手を差し出す。
その手を取り一人の令嬢が、ゆっくりと馬車から降りた。
淡い紫色の髪。
透き通るような白い肌。
華奢な身体を包む、可憐なドレス。
何度か会っている。
見間違えるはずもない。
ヴィオレット・ローランだった。
(こんなところで会うとは思わなかったな。)
もちろん、今の自分はアレンではない。
ヴィオレットからすれば見知らぬ女が一人、通りに立っているだけだ。
アンはそのまま人混みに紛れ、ヴィオレットが通り過ぎるのを待った。
その時、ふと。
ヴィオレットがこちらを向いた。
「……。」
「……。」
一瞬だけ視線が重なる。
アンの胸が、僅かに跳ねた。
(大丈夫。)
髪も。
瞳も。
服装も違う。
何より、今は男として振る舞っていない。
気づくはずがない。
案の定、ヴィオレットの表情に驚きはなかった。
見知らぬ令嬢へ向けるものと同じ。
柔らかな微笑みを浮かべる。
そして、優雅に膝を折った。
「――」
アンも反射的に応えようとして、右手が腰の横へ伸びた。
そこにあるはずのドレスの裾を摘もうとして。
「……あ。」
止まった。
(ない。)
今日着ているのは、動きやすさを優先した旅装束だ。
当然、摘み上げるようなスカートの裾などない。
ほんの一瞬だけ固まり、アンは何事もなかったように手を戻すと、代わりに軽く頭を下げた。
ヴィオレットも微笑んで応える。
けれど立ち去る寸前。
紫色の瞳が、もう一度だけアンへ向けられた。
「……?」
ほんの僅かにヴィオレットが首を傾げる。
だが、それだけだった。
侍女に促され、そのまま近くの店へ向かって歩いていく。
そんな二人のやり取りを近くにいた幼い少女が、じっと見ていた。
「お母さん。」
「なあに?」
「あのお姉ちゃん、きれい。」
母親が微笑む。
「ご挨拶していたのよ。」
「わたしもする!」
少女は自分のスカートの裾を両手で摘むと、見よう見まねで膝を折った。
「こう?」
「ふふ。上手よ。」
母親が頭を撫でる。
その微笑ましい光景に、周囲からも小さな笑い声が漏れた。
ヴィオレットも足を止め、少女へ柔らかく微笑んでから、店の中へ姿を消す。
アンはそれを見届け。
「……危なかった。」
小さく息を吐いた。
そして自分の右手を見る。
「身体が覚えてるんだな。」
男として生きる時は。
立ち方も。
歩き方も。
礼の仕方も。
一つ一つ意識して身につけてきた。
けれど、それより前から叩き込まれていたものもある。
淑女としての作法。
いつか女性として生きることになった時のために、両親が受けさせていた教育だ。
結局、その日は来なかった。
ずっと男として生きてきたから。
使う機会など、ほとんどなかったのに。
「変なところで出るものだね。」
アンは苦笑する。
そこで、ふと先ほどのヴィオレットを思い出した。
(……最後、こっち見てた?)
一瞬。
何かを不思議に思ったような顔をしていた気がする。
「まあ、いいか。」
まさか、あれだけで自分がアレンだと気づくはずもない。
アンは懐へ手を入れる。
指先に木札の硬い感触が触れた。
「危ない。本来の目的を忘れるところだった。」
ヴィオレットに会いに来たわけではない。
この木札が、どこで何のために使われているのか。
それを調べるために王都へ来たのだ。
アンは気持ちを切り替えると。
目的の店がある通りへ向かって歩き出した。
その背後、ヴィオレットが入った店の窓辺から、紫色の瞳がもう一度だけ、遠ざかっていく黒髪の女性を見つめていた。




