第19話 残された印
領地へ戻った翌日。
ヴァルティエ邸の執務室。
アレンは机の上に置いた小さな木札を、じっと見つめていた。
灰色亭に出入りしていた商人。
その男が運んでいた荷箱から落ちたものだという。
木札には、黒い焼き印が残されている。
「……やっぱり違う。」
「酒瓶の印と、ですか?」
「うん。」
リリアの問いに答えながら、アレンは引き出しから一枚の紙を取り出した。
以前、情報屋から返却された報告に添えられていた、瓶底の刻印を書き写したものだ。
二つを並べる。
「形は全然違う。」
「そうですね。」
「瓶の方は商会にも酒蔵にも該当するものがなかった。」
今回の木札も、何を示すものなのか分からない。
「リリア。」
「はい。」
「商人組合から返事は?」
「届いております。」
リリアが一通の書状を差し出した。
「王都と周辺地域で登録されている商会、運送業者について確認していただきましたが、この焼き印に該当するものはないとのことです。」
「そっか。」
アレンは書状へ目を通す。
予想していた答えではある。
けれど、これで一つ可能性が消えた。
「商会の印じゃない。」
「正式に登録されているものではない、ということですね。」
「うん。」
アレンは木札を裏返す。
表。
裏。
側面。
他に文字らしいものはない。
「だったら、荷の行き先を示すための印とか。」
「あるいは。」
リリアが続ける。
「特定の者たちだけが分かる目印という可能性もございます。」
「僕もそれを考えてた。」
アレンは木札を机へ戻す。
「商人は偽名を使ってた。組合にも登録されてなかった。それなら、正規の商会の印を使ってないのも不思議じゃない。」
「酒瓶の刻印も同様でしょうか。」
「分からない。」
アレンは首を横に振った。
「無理に二つを繋げない方がいいと思う。」
「……。」
「同じ商人に関係してる。それは確か。でも、この二つの印そのものに関係があるとは限らないから。」
「確かに。」
「情報屋にも送ろう。向こうなら僕たちとは違うところから調べられるかもしれない。」
「承知しました。」
すぐに答えが出るとは思っていない。
十五年前の両親の死についても、最近になって続いている不可解な事件についても。
まだ分からないことばかりだ。
それでも一つずつ、拾えるものを拾っていくしかない。
「焦っても仕方ないね。」
「アレン様にしては珍しいお言葉ですね。」
「どういう意味?」
「そのままの意味でございます。」
「僕、そんなにせっかち?」
「ご自分で灰色亭まで行かれた方が仰います?」
「……。」
「アレン様?」
「次の仕事しようか。」
「誤魔化されましたね。」
「聞こえない。」
アレンは何食わぬ顔で次の書類を手に取った。
その時。
コンコン。
扉が叩かれる。
「失礼いたします。」
入ってきたのは執事だった。
「アレン様。王宮より書状が届いております。」
「王宮から?」
「はい。」
差し出された封筒には、王家の紋章が刻まれている。
アレンは受け取ると、その場で封を切った。
「……収穫祭?」
「何かございましたか?」
「来月の収穫祭に向けて、各領主を集めて打ち合わせするみたい。」
日付を確認する。
「数日後か。」
「また王都ですね。」
「最近よく行くなぁ。」
「ご自分からも行かれておりますので。」
「それとこれとは別でしょ。」
「そうでしょうか。」
「……たぶん。」
「また『たぶん』ですか。」
アレンは苦笑しながら書状を畳んだ。
「準備をお願い。」
「かしこまりました。」
◇
数日後。
王宮。
収穫祭へ向けた会議は、大きな問題もなく終了した。
「疲れた……。」
会議室を出たアレンが、小さく肩を回す。
「聞こえますよ。」
後ろを歩くリリアが囁く。
「もう出たからいいでしょ。」
「廊下にも貴族はいらっしゃいます。」
「分かってるよ。」
アレンは姿勢を戻す。
その時。
「アレン卿。」
聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り返る。
「レオンハルト公爵。」
レオンハルト・アルマダ・ラミレス公爵が。
いつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「先日はどうも。」
「こちらこそ。先日はお招きいただき、ありがとうございました。」
「いや。若い領主と話すのは私にとっても良い刺激になる。」
二人は軽く礼を交わす。
「ヴァルティエ領も順調なようですな。」
「おかげさまで。」
「それは何より。」
穏やかな会話。
けれど、ふと。
レオンハルトが何気ない口調で続けた。
「最近は、王都へよく足を運ばれているそうですな。」
「……そうですね。」
アレンは僅かに首を傾げる。
「仕事以外でもいらしているとか。」
「少し調べ物があって。」
「ほう。」
レオンハルトの笑みは変わらない。
「何かお困りですかな?」
「いえ。大したことではありません。」
「そうですか。」
それ以上、レオンハルトは追及しなかった。
「若いうちは、自ら動いて様々なものを見るのも良いでしょう。」
「ありがとうございます。」
「ですが。」
そこで、レオンハルトは僅かに声を落とした。
「王都には、表からは見えぬ場所も多い。」
「……。」
「好奇心から不用意な場所へ足を踏み入れれば、思わぬ災難に遭うこともある。どうか、お気をつけください。」
アレンは一瞬だけ黙った。
灰色亭。
その名前が頭をよぎる。
(……まさかね。)
最近、自分が王都を訪れていたことは隠していない。
王都で自分を見かけた者もいるだろう。
それだけで、レオンハルトが灰色亭のことを知っているとは限らない。
「ご忠告、ありがとうございます。」
「いえ。」
レオンハルトは穏やかに笑う。
「アレン卿は、王国の未来を担う若き領主ですからな。」
「恐縮です。」
「では、また。」
「はい。」
レオンハルトが歩き去っていく。
その背中を、アレンは少しの間、見つめていた。
「アレン様。」
「何?」
「……妙なお方ですね。」
リリアが小さな声で言う。
「どういう意味?」
「笑っていらっしゃいましたが。」
一度言葉を切る。
「目だけは、笑っていないように見えました。」
「……。」
アレンはもう一度。
遠ざかっていくレオンハルトを見る。
「公爵ともなれば、色々あるんじゃない?」
「そうでしょうか。」
「僕には分からないけど。」
何となく引っかかりはした。
けれど、それだけだ。
今のところレオンハルトを疑う理由はない。
「行こう。」
「はい。」
二人は再び廊下を歩き始めた。
その時、前方から歩いてきた若い貴族たちの話し声が耳へ入る。
「聞いたか? ヴァルティエ卿、また王都で女性と歩いていたそうだ。」
「またか。」
「今度は誰だ?」
「さあな。随分と親しそうだったらしいぞ。」
「本当に懲りないな。」
「……。」
アレンの足が一瞬止まる。
「アレン様?」
「また増えてる……。」
「何がです?」
「僕の知らない僕の女性関係。」
「いつものことでは?」
「僕本人が知らないんだけど。」
「噂とはそういうものでございます。」
「嫌なものだね。」
アレンは小さく息を吐く。
訂正したところで、どうせ次の噂が出てくる。
それに今のところ、遊び人という評判が不利益ばかりを生んでいるわけでもない。
相手が自分を軽く見るなら、それを利用できることもある。
「まあ、いいか。」
「よろしいのですか?」
「今さらでしょ。」
アレンは肩を竦め、そのまま歩き去っていった。
◇
少し離れた廊下。
柱の陰から、その背中を見つめる男がいた。
「……。」
レオンハルトだった。
先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、もうない。
「公爵閣下。」
傍らに控えていた従者が、声を潜める。
「いかがいたしましょう。」
「そのままでいい。」
「では。」
「ああ。」
レオンハルトの視線が、遠ざかっていくアレンの背中を追う。
「噂とは、実に便利なものだ。」
女好き。
酒好き。
毎晩のように女性を屋敷へ連れ込む遊び人。
最初は、アレン・ヴァルティエの信用を落とすために流したものだった。
けれど本人は否定しなかった。
それどころか、まるで利用するかのように振る舞っている。
「一度広まった評判は、放っておいても勝手に育つ。」
「はい。」
「だが。」
レオンハルトの目が細くなる。
「最近のアレン卿は、少々動きすぎている。」
「王都での動向を?」
「引き続き探れ。」
「かしこまりました。」
「どこへ行き、誰と会ったのか。些細なことでも構わん。」
レオンハルトは静かに歩き出す。
「少しの変化も見逃すな。」
従者が深く頭を下げた。
「承知いたしました。」
足音が、静かな王宮の廊下へ響く。
アレンはまだ知らない。
自分が追い始めた小さな手掛かりが、少しずつ相手の警戒を招き始めていることを。




